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「はあ。市の無料搬送サービスがあるだろ。知らなかった?」
腰が痛くなりながら母と妹を回収した私に向かって、父が放った言葉はあまりに心無かった。
はい、知りませんでした。そして、すごく大変でした。
上手くはないかもしれないけれど、出来ることをしたと思います。頑張ったと思います。
そこは認めてほしいところ。
まあぶっちゃけ、労いの言葉ひとつくらいは期待してました。
私が甘かった。ゲロ甘でした。
「すみません」
しおらしく謝りながら、心の中で舌打ちする。
ふざけんな。今更帰って来やがって。酒臭いんだよ。
せめて『大変だっただろ。連絡してくれれば良かったのに』くらい言え。
思わず怒りで熱くなった目で見上げるも、ぶつかるはずの視線は空を切る。
父は私の方なんか見ていなかった。
それどころか、母のことは一瞥しただけ。溶けた妹に至っては、様子を見にも行かない。
挙句、人の苦労も知らないで、あついあついとしきりにこぼしている。
どうせさっきまで冷房のきいた快適な場所にいたくせに。父が喋るたび、酒気が生ぬるい空気に散って、ひどく不快だ。
「ほらこれ、番号。書いておいたから。今すぐ電話して。父さん疲れたから寝るな」
じじいは私にメモ紙を押し付けて、シャワーも浴びずに寝室へと消えていった。
母のスマホで市の窓口に連絡し、名前と住所、搬送して欲しい人数を告げると、三十分も掛からず市の職員が到着した。
彼らは特殊なカプセル状の担架で母と妹の入ったモールド難なく運び出すと、冷却所行きの車に乗せた。
母と妹の身元を証明するための書類に記入し、同意書にサインをする。
ふたりは、明日の午前中にはすっかり凝固して、日常生活に戻れるという。
鬱陶しいから、もう少し長いこと冷やしておいてくれてもいいんだけど。
大変だったね。頑張ったね。お父さん(母なんだけど)と妹さん、早く元に戻るといいね。そんな言葉を掛けてくれた優しい職員さんたちを見送ったあと、熱いシャワーを浴びた。
風呂上がりには、冷たい水をこれでもかというくらい飲む。
私はみんなより溶けにくい体質のようなので、熱中症予防だ。
妹がいないので、パンツ一枚でベッドに潜り込んだ。
この部屋にひとりでいるのは久しぶりだ。なんだか眠るのがもったいない。
しかし私は、あのふたりの片付けで死ぬほど疲れていた。そのうえ、この部屋には冷房がない。
よって、静かな一人部屋を堪能する余裕などなく、半ば気絶するようにして眠りに落ちた。
翌朝。
内容を憶えてはいないのだが、かなり嫌な夢を見て、私は目を覚ました。
最悪なことに、これから母の代わりに父のコーヒーを淹れて、パンを二枚に卵をふたつ焼かなければならない。
昨日の態度を思い出すと、顔面に焦げたチーズトーストを押し付けてやりたくて仕方がなくなるのだが、我慢だ。
仕方がなしに、父をリビングで待った。
本来なら、自分もお米のご飯を食べて身支度を開始する時間だが、父は待たせると不機嫌になる。
「……ちょっと、お父さん?」
いつまでも下りてくる気配のない父親に私は苛立ち始めていた。
いや、とっくに苛ついてはいたのだが、そろそろ表情に出始めてきたということだ。父に見られると逆ギレ必至なので、どうにか押し隠す。
幸い、父は寝起きが悪い方ではない。
会社に遅刻して、あとで八つ当たりなどされては困るし、ここは起こしに行ってあげよう。
運がよければ小さな恩を売ることもできる。
やかんを熱していたコンロの火を消すと、寝室へと向かう。
あまり入りたくないのは変わらないが、中に誰かいるのならまだましだ。
「……お父さん、起きてる?」
呼びかけとノックを繰り返す。
できるだけ優しい声で、ゆっくりと。ワンセットにつき、父が目を覚まし、伸びをして、欠伸を噛み殺してから、返事をする間を必ず準備して。
お節介な娘のモーニングコールが五回目となったとき、私はふと違和感を覚えた。
やけに静かだ。
父の反応がないことについて言っているのではない。
毎晩、同室で眠る母を悩ませるという、あの大いびきが聴こえないのだ。ドアを閉め切っていても、廊下にいれば聞こえてくるはずのあの爆音が。
私のお粗末な脳裏を、ちらりと嫌な予感が過ぎった。
そして、まさかね、と笑い飛ばしたいくらいの気持ちで、ドアのレバーに手を掛けた。
一瞬引き攣りかけた顔は、安堵に緩み、笑う準備をしていた。
だって、昨日の今日ですよ?
まさか。
「お父さん、入――」
と、その時。
見事であるとしか言いようのないタイミングで、玄関の呼び鈴が鳴った。
私は弾かれたように顔を上げ、玄関に向かって大きく間延びした返事をする。
もしかして、お母さんたちがもう固まって、帰ってきた?
よかった。それなら、もしなにかあっても、ひとりで対応しなくて済む!
いったんドアから離れて、階段を駆け下りる。
急いで応答したインターホンのモニタに、見知らぬ男たちの姿が映った。
「まいどさまでーす。僕たち、エアコンの修理に来た■■空調の者なんですけどもー」
「修理ですか?」
モニタを覗き込むと、確かに彼らは胸に社名を縫い取りした作業服を身に着けている。
しかし、こんな朝早くから? まだ八時にもなっていないのに。
念のため、リビングに置きっぱなしの母のスマホを確認する。昨日の午前中に、■■空調宛ての発信履歴があった。
「本当でしたら、昨日修理に来られたら良かったんですがね。あいにく、予約がいっぱいで」
「そうそう。で、この暑さでしょう? 文字通り溶けちまうかもしれないってんで、今日の朝一番に来られるよう、調整させてもらったんですよ」
二人の作業員は、エアコンの設置場所へと案内する私に、ニコニコと説明した。
残念ながら間に合わなかったことは、言わないでおく。
リビングに迎え入れると、作業員の一人が慣れた様子でエアコンをいじり始めた。
もう一人の方がずっと私の方を向いているので、
「どうかしましたか?」
「ああ、いや。きみ、お嬢さんだよね? 昨日お電話くださったのは、お母さんのほうだったと思うんだけど……」
「そうです。でもあの、いまは留守にしてて。お金のほうは、いまお父さんを起こしてきますから」
「あ。いやいや、そうじゃなくて」
作業員は両手のひらを胸の前に持ってきて、ちょっと待って、のジェスチャー。青い帽子をかぶった頭が、慌てたように揺れる。
「修理して欲しいのは二台って聞いてたもんだから」
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