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「うわあ」
思わず顔をしかめたのは、母親のモールドが古いプラスチック製だったためだ。
もう十年以上も前のものだろう。経年劣化が進んでいて、おそらく鮮やかなピンク色だったのであろうそれは、黄ばんでヒビが入りかけている。
母は週に一度の食料の買い出し以外では、ほぼ家から出ない。外出時は必ず車を使うし、店では空調がきいている。
だから必要ないと思っていたのだろう。もしくは、ものが劣化するということを、理解していないか。
古ぼけたモールドは、少し箱から持ち上げただけでみしみしと音を立てた。
段ボール箱の蓋を確認すると、品質保証期限が五年も前に切れている。
一度きりなら使えるか。そう思って、箱から引っ張り出した時だった。
「あっ」
嫌な音がして、モールドが割れた。
真っ二つに折れたわけではないが、肩から背中にかけて、大きな亀裂が入った。
ズレた部分を戻そうと押してみたところ、相当脆くなっていたようで、押した部分が砕け、取れてしまった。
これは無理だ。
私は迷って、父のモールドを引っ張り出した。
たしか、お父さんのは割と新しかったはず。すぐに元の姿に戻れないと、仕事に支障が出るから。
新たな箱を引っ張り出すと、やはりここ数年に作られたと思しきシリコン製のモールドが姿を現した。
ホームセンターでつるしの使い捨てを買ってくるべきか迷ったが、あんなものでも四千円近くする。
私には今そんなお金はないし、親の財布からお金を抜くことは、いかなる理由があってもしたくない。あとでなにを言われるかわからない。
人間の身体とは便利なもので、どんな型に入れようと、長くても一ヶ月の間には元の姿に戻ってしまう。
元の姿から離れれば離れるほど、戻るのに時間を要するが、同じ人型なら一週間もかかるまい。
そもそもあの人は、滅多に家の外に出ないのだから、数日くらい父の形をしていたところで、さして問題はないだろう。
そんなわけで、大きなモールドをリビングまで引き摺っていって、私はまた同じ工程を繰り返した。
溶けた母からは、微かに鉄の臭いがして、私は顔をしかめた。
妹はほぼ無臭だったのに。
溶けた身体は粘度が高いので、そう簡単にはねたりはしないが、それでも口に入る想像はしてしまう。
舌の付け根あたりに、ぎゅっとするいやな酸味を感じた。唇を前歯の内側に折り込み、しっかりと引き結ぶ。
すくい上げる瞬間は、できるだけ顔を逸らした。念のため、終わったら顔も洗おう。
順調に母の身体を集めたところで、次なる問題が発生。
……足らないのだ、今度は。
両親には体格差があり過ぎた。
どちらもお腹が出ていたから似たようなサイズだろうと思っていたが、やはり男性だけあって父のモールドは大きかった。
これでは薄っぺらくなりすぎる。固まっても動けないどころか、立ったときに胴体がちぎれてしまうかもしれない。
モールドは本人の体格に合ったものを使うべきだ。そう言われている理由がわかった。固まった時の強度が保てないのだ。
しかし、何らかの理由で、たとえ本人のモールド使った場合でも、型を満たせない場合がある。たとえば、太っていたのに急に痩せたとか、赤ちゃんが生まれてお腹が小さくなったとか。
そういった場合には、人体に悪影響のない特別な混ぜ物をすることもあるらしい。
本来、人体を相手に使う言葉ではないが、かさましというわけだ。
私は母の近くに転がっていたスマホを手に取った。
たどたどしい手つきで、検索窓に近所のホームセンターの名前を入力する。
そして、すぐに放り出した。
「なんだよ。モールドより高いじゃん」
五リットルで諭吉ひとりと半分? いったい誰が買うのだ、そんな高級品。
いよいよ面倒くさくなってきた。
私はふらふらと、汚れていないほうのソファへ近付いた。
靴下が摩耗するのも構わず踵でターンして、勢いよく背中を投げ出す。
細かい埃が舞って、太陽の光の中できらめいた。
疲労で焦点の合わなくなってきた両目に、汗が入り込んで、涙みたいにこぼれる。
別に、お母さんって、このままでもよくない?
私が家から帰っても、ゲームに夢中で気付かないことの方が多い。
面倒くさがって、家事もあまりしない。
料理はたまにしかしないくせに、洗い物が面倒だという理由で全て目分量。
加えて、謎のアレンジ。
栄養バランスもなにもあったものではなく、堪えかねた父が私に『お前がやりなさい』と言った。
妹については、それ以上にいなくても困らないのだが、一応……私がなんとかしようとした――という実績になってもらわなくては困る。
夏の暑さで溶けた母親と妹をほったらかしにしたなどと知れたら、どれほど叱られるかわからない。
怒りのスイッチの入った父は、たとえ相手が反省したって関係なし。怒りの炎が鎮火するまで、ネチネチと責め続けるのだ。
それだけはどうしても避けたい。
しかし、私は妹を助けた。母親についても、手は尽くした。
もっといい手段があるのかもしれないが、私は子供だ。ひとりで出来ることなんて、たかが知れている。
だからこれはもう、仕方がないのでは?
「あ」
諦めて放置しかけたその時。
私のかなり控えめな脳内に、妙案が思い浮かんだ。
埃っぽいソファから勢いよく跳ね起きる。
サウナの中みたいな空気でめいっぱい肺を膨らませると、再び姉妹の部屋へと向かった。
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