第5話

「んぎゃーっ!」

 母親の涙を感じ取ったのか、モグモグと口を動かしていたヴィンピアの泣き声が再び、部屋を満たしていく。

 覚えたての揺すり技で子ども騙しのようにヴィンピアをあやしながら、ヴィンピアのベッドに顔を埋めているスーの元へ機体を寄せていく。

「メッセージ、見るね」

 返事のない受取人に断って道中、バトラーは開封済みのマークが付いたラケルのメッセージへ、機械ならではの速度で目を通した。

 冒頭、メッセージはラケル本人ではなく、【国際災害救助機構レンジャー黒狼災害対策室LDCR】が代理で送信していると、断りが入っている。

 続く本文はさらに簡素なもので、錆びつく思考の隅で「機械が書いたのではないか」とバトラーは思ったほどだ。

 ——去る6月13日に発生した黒狼災害により、本アドレスの所有者、ラケル・ジェン・ハーヤは当ICRが保護している。なお、血縁者の死亡により、本メールは同氏の狼前遺志リビングウィルに則り——

「……バト、これ本物……?」

 震える声のスーが、顔を上げて縋るように尋ねてくる。

「これは——」

 何かのイタズラだ、と言えたならどれほどよかっただろう。

 だが、メッセージを読んでから直ちにバトラーが諸方面へ問い合わせた回答は、いずれもメッセージが正規のものであると示していた。

 ラケルは帰省した先で黒狼災害に遭い、今はレンジャーに保護されている。

 ——それが、崩れ落ちるスーへバトラーが伝えた真実の駄目押しだった。

「んぎゃーっ! おぎゃー!」

「——バト」

 呼ばれ、アルゴリズムは素直にスリングを解いて赤ん坊をあるべき腕へ、返還した。母親の哀しみを引き受けるように、なおも泣き止もうとしないわが子を固く抱きしめて、スーは強く歯を食いしばっていた。

「なんだい、スー?」

「決めた。わたし、蓮華座パドマサナにいく」

「え? マレー島近海のレンジャー本部に? ここから近いといえば近いけど……」

「ラケルが保護されているのは、そこでしょ?」

「……被害者はパドマサナで治療を受けることになっては、いる。でもスー——」

「わかってるわ。わたしが行ったところで何も変わらない。黒狼化した人は——ラケルは、戻ってこない」

「そ、それはっ……! か、数は少ないけど、逆変異の事例も記録があるよ!」

 気休めでしかないと理解していながら、だからこそ言いよどみ、それでもバトラーが希望的観測を口にする。その希望は限りなく"ゼロ"に近しいが、けっして"無"ではないのだ。

「……そうね」

 むずがるヴィンピアの顔をその手で拭い、力なく微笑んだスーは真剣な表情に戻ると、

「ラケルは家族よ。だからもう二度と、愛した人を置き去りにはしないわ」

「スー……」

 哀しみの色を湛えたそのトビ色の瞳に、炎に似た影をバトラーはレンズで捉えたような気がした。

 そんなものは見えるはずがなく、室内に差した陽の光なのだろう。

「ヴィンピアはどうするんだい? 街の保育所はどこもいっぱいだから、保母さんを探すなら——」

「連れてくわ」

 スーの即断にバトラーは刹那、思考を止めざるを得なかった。彼女の正面——海の向こうを向いたトビ色の瞳も表情も硬い。

 それは決意したヒトの顔であり、その決断へ異議を差し挟めるものなどいない。

 母親のスーがそう決めたのなら、しがないハウスキーパーアルゴリズムにできることは、気持ちよく送り出すだけだ。

 ——たとえ、どれほど、願おうとも。

「だけど、ヴィンピアが人前に出るのはダメだ、って……。だから写真も撮っちゃいけないんじゃ……?」

 愛娘の写真が流出し、その身に危険が迫る極めて低い可能性を恐れ、個人思考プライベートアルゴリズムのバトラーにさえ撮影を許さないスーのことだ。

 その彼女が娘と、地球上でもっとも注目されている場所へ行くというのは、バトラーの論理思考が追いつかない。

「ええ。そう。そうやってあの人を……彼を、わたしは見殺しにした」

「それって——」

 バトラーが初めて耳にする、衝撃的に過ぎるスーの告白。これまで頑なに話そうとしてこなかった、ヴィンピアの父親の——スーの最愛の人の最期にまつわる真実。

 ——けれど、続きを促したバトラーの言葉を沈黙で遮り、額に掛かった長髪を手で払って、そのトビ色の瞳をスーがアルゴリズムのレンズに向けて言った。

「おなじ過ちは繰り返さないわ。だから、ヴィンも一緒よ」

「……わかった。じゃあ、賃貸契約の更新とか大学への連絡はしておくから、早く行って帰って——」

「——なに言ってるの?」

「なにって……二人がいない間のハウスキーピングをしないと」

「そんなことはあとでいいわよ。——バト、あなたも一緒に来るんじゃない」

「——ワタシ、が?」

 帰宅して初めてアルゴリズムのバトラーへ向けられたスーの視線は、呆れて笑い出す直前の、見知った彼女そのままのまっすぐな目だった。イタズラっ子のようで、かと言って見下しているのでもない。

 ——今さら、何を言ってるの?

 と、自分の言いたいことを相手が理解しているという、信頼の眼差しだ。

 それはまるで、長年連れ添ったペアが交わす笑えないジョークのようで、気心の知れた友が飛ばしたジョークへの少し真面目な抗議のようで——

 ——いつまでも傍に在り続けることが大前提の、その前提を——信頼を疑ったこちらの不義へささやかな反撃のようで。

でしょ? ヴィンのお世話をしてくれる人も要るし。……なに? いやだった?」

 ——だからバトラーはとっさに言葉を紡げず、学習したばかりの仕草で気持ちを表すしかなかった。

「ちょっ……バト⁈」

「あ、ごめん」

 機体を吊ったスリングの一本だけを残し、5本すべてのスリングで彼女たちを包み込む。予習なしの衝動的なアルゴリズムの行動に、スーは長い睫毛を瞬かせてレンズを見返すだけだ。

 そこでハッと、自分の出過ぎたマネに気づいてバトラーは慌てて抱擁を解くが、流れる気まずい空気は止めようもなく——

「んんー」

「ねー」

 と、予想に反し、目の前で、アルゴリズムの推測が追いつかない母娘の相互同意が交わされる。

「な、なに? スーのそのニヤニヤ、思考がざわついてるんだけど……」

「んー……教えてあげない! 親子のひ・み・つ」

「なにそれ。気になるなー」

「だったら——」

 わが子を抱いた母が、自らの足で立ちあがる。

 小麦色の肌の目尻には光るものがあり、その延長線上には流れた涙の痕がまだ残っている。

 ——それでも子の母親は、高さを合わせてきたレンズと、己の目を合わせる。

 ——レンズに映りこんだ、その明るいブラウンの瞳は、確かに前を向いていて。

「一緒に来て。家族を探しにいくわよ」

 だから彼女の新しい命令ミッションを、アルゴリズムのバトラーは機体を頷かせて受け入れる。

「んあ」

 続く、一機と一人のあいだに挟まれた眠たげな声は、「もうおしまい」と言っているように、アルゴリズムには聞こえたのだった。


『Trusted』  完

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