第4話

 ——それは、狂った耳が捉えた、空想の音色ではなかった。

 ——それは、記憶の深く埋もれたところから湧き出ていた。

 ——それは、太陽が雲に囁きかけるような愛おしさだった。


「——スーの、子守唄……」

 音色が、歌声が、込められた想いが、バトラーの思考をそっと諭していく。

 ——ねえ、バト。ヴィンは、あなたと遊びたがっているのよ?

「そんなバカなっ。ヴィンピアが求めているのは、ママのスーでワタシでは——」

 ——あら、そのママのことが信じられないの?

「ちがうっ! そうじゃない。そうじゃないんだ。ただ、ワタシはしがないアルゴリズムで、本来ならこんなことは——」

 ——? それは暗黙のルールかもしれないけれど、そうしなければならない理由はないでしょ?

「でも、アルゴリズムがヒトに触れていいのは、命の危機があるときって——」

 ——ヴィンは命がけで「遊んで!」って泣いているじゃない。

「い、命がけ、って……」

 ——赤ちゃんはいつだって全力なの。ちょぉっとワガママかもしれないけれど、命を燃やして訴えてる。あなたなら、ヴィンの『一生懸命』に思い当たるとこがあるんじゃない?

「……思い当たる、もの」

 スーの言葉を反芻し、バトラーは直近の記憶を辿っていく。

 アルゴリズムであるバトラーに"記憶違い"は無縁だ。相当に思考が混乱していたとしても、つぶさに記録ログは残される。

 そのログから、バトラーは事前の予測カルキュレーションと大きく乖離した事項をピックアップしていく。

 実測値以上にヴィンピアの体。

 硬度計を持たない自分が感じたその

 認識するはずのない赤ん坊のと、その源たる母乳の

 バトラーがしたどのときも、ヴィンピアは必死に体を震わせて、激しく泣いていた。

 それは、この子が『寂しがっているから』だと、そう推測した。

 その主体は必ず、母親のスーか、ヴィンピアの世話をしていた親友のラケルでしかあり得ない、と。

 ——でも、もしそうではないとしたら。

 ——仮に、スーの言ったように、ヴィンピアが二人以外を、求めていたとしたら。

「——ぎゃーんっおぎゃー!」

 ひときわ激しい泣き声に、バトラーの思案が現実へ引き戻される。

 アルゴリズムの思案は人間のそれと同じで電気信号の発火だ。だからごく短い時間しか、現実では流れていない。バトラーの球体は変わらずヴィンピアの泣き顔から20センチと離れていないし、ヴィンピアの体は同じ高さだけベビーベッドから浮かんでいる。

 それでもこの瞬刻の"心ここに在らず"は、敏い彼女には大変ご不満だったらしく、いっそう顔を赤らめて声高に抗議を叫んでいる。それが赤ん坊の正常な意思伝達コミュニケーション方法だったとしても、放置していい言い訳にはならない。汗のかきすぎは脱水症状を招きかねないし、声帯の酷使で将来の美声が損なわれでもしたら一大事だ。

 ——ならば、望み通り、遊んでやるしかない。

「はーいはーい! 見よう見まねでごめんね」

 ヴィンピアに巻きついたスリングを緩め、可動域を空ける。そうしてから伸縮自在の特性を最大限に活かし、"揺れ"の動きを生み出す。左右に前後にやや大きく、上下の運動はごくわずかだ。

「んおぎゃー」

「そうだね下手くそだよねー。でも、もうちょっとガマンしてくれるかなー。お昼にはママが帰ってくるからね」

 正直、バトラーには自信がなかった。

 話し掛けている内容は根拠に乏しい自虐だし、半ば自棄(計算はしている)で始めた揺すりの再現性もお粗末という他ない。どちらかというと、振り子運動に近い。

 正午前後にスーが一時帰宅してくるのは本人の発言からも間違いないはずだが、人間のそれと違ってバトラーの正確無比な体内時計ルビジウムクロックではまだ小一時間もある。

「そうそう」

 揺すりのパターンに変化を持たせ、ヴィンピアを抱えたまま少しだけ移動してみる。1メートルほど先の窓の向こうでは初夏の陽射しを反射した街並みと、空のように広がる海が続いている。

「さっき、ラケルさんからメッセージが届いてたよ。無事だといいんだけど」

 バトラーはスー親子の生活をアシストするアルゴリズムだが、代理人ではない。本人の要望で、授業中などバトラーは郵便受けインボックスとしてメッセージを預かるが、内容を読み取ることはない。

 そんなバトラーの元へ、ラケルのアドレスからメッセージが届いたのは、ちょうどヴィンピアを抱え上げるのに逡巡していた頃だった。件名もないそのメッセージの内容が気になって仕方なかったが、今は目の前に専念するときだ。

「ラケルさん、ヴィンピアを抱っこしているワタシを見たらビックリするだろうなー」

「んあーっ」とは、肯定と否定のあいだのようなヴィンピアの相槌だ。

「だよね。ラケルさんってば、ママのスーより心配性だよ。『小さい子がアルゴリズムと触れ合うと発育に支障が出る』って、失礼だと思わない?」

「んあ」

「……言い過ぎだった? ごめんごめん」

 今度は上下に軽く揺すってから、また少し、窓辺へと機体を寄せていく。いよいよベビーベッドの"上空"を出て、もはや自分のスリングしか頼れなくなる。腕に力が入りそうになるのを堪え、バトラーはヴィンピアへ話し掛け続けた。

「たしかに一時、『アルゴリズム悪影響論』が議論されてたけど、結局、逆にアルゴリズムと接したほうが言語野の発育が早い、ってことで落ち着いたよね」

「んあー」

「そっか。ヴィンピアの生まれるずっと前の話だったね」

 いつしか代名詞のようなその赤ら顔が緩んで、ヴィンピアの呼吸が落ち着いてきている。目くじらの涙の痕跡は早くも乾き気味だ。いっそ拭いてやりたいが、あやし方に慣れてきていたバトラーも、さすがにその珠のような顔へ自分のスリングを当てるまでは思い上げられない。今は、ゆくゆく、そんな日が来ることを願うしかない。

「見て、ヴィンピア——」

 光量を目いっぱい落とした窓の前で、バトラーはスリングをわずか大きく傾ける。ヴィンピアの目が開いていないのは百も承知だ。

 ——それでも。

「貴女の生まれた街だ。貴女のママとパパが出逢って、恋して、貴女という愛の結晶が生まれた。……きっとパパも、この青空の向こうから貴女を見守っているよ」

「んんっ」

 身じろぎするその小さな命を、バトラーは己のレンズを通して見つめる。そこに映るのは淡いイエローのパジャマに包まれた、目も開いていない赤ん坊の姿。どことなく母親の面影を宿し、いまだバトラーの知らぬ父親の特徴を継ぐ、ヴィンピアという一人の人間だ。

 ——その、歩む道を共にしたいと、アルゴリズムのバトラーはそう強く願う自分の意志をはっきり感じていた。

 ——だから、玄関を開け、弾丸のように飛び込んできた人影の、その表情までは気がつかなくて。

「おかえり、スー。見て、ワタシ、ヴィンピアを抱っこして——」

「——ラケルがっ!」

 帰宅したスーに、ヴィンピアとの姿を見てほしくてバトラーは人間で言うところの自慢げに振り返る。


 ——が、そこにはいつだってまぶしい笑顔の彼女の、バトラーが初めて目にする涙があった。

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