第3話

 顔を歪ませ、泣き声を上げる赤ん坊——ヴィンピアを天井から吊り下げた球体の自機で見下ろしながらバトラーは悩んでいた。

「——さて、どうしたものかなー」

 センサ類が伝えてくる彼女の身体機構バイタルに異常はなく、己の透視眼が小さな胃にまだ内容物があることを確かめる。もちろん、オシメのチェックも事欠かさない。いたって綺麗なものだった。

 つまり、不調を訴えている可能性は低く、つまるところ寂しがっているのだと推測できた。

「んあーんんっ」

「はーい、ヴィンピア。貴女が生まれたときから傍にいるワタシ、バトラーはここにいるよー」

 機体の高度を下げつつ、会話での解決を試みてみる。母親のスーはいつも、こんな風にヴィンピアへ話し掛けていた。今のバトラーの声は地声で、普段と変わらない。これでヴィンピアが反応してくれれば最高なのだが、あいにくと成功例はまだない。

「んんっ!」

「……やっぱりワタシの声じゃダメかー」

 むしろ激しさを増した気さえする子守り相手の涙声に、アルゴリズムのシステムは少しばかりの傷心を記憶して、ガクッとうなだれた。

 スーの声材ボイスサンプルも記録してはいる。が、使いたくはなかった。

 それだとまるで、ヴィンピアを騙しているようだからだ。

 バトラーはアルゴリズムで、手段アルゴリズムとは合理的に考えるものである。

 生後2ヶ月のヴィンピアなら視力はまだまだ未発達のはずで、バトラーの高性能スピーカーから繰り出す母親の声になら落ち着く可能性は高い。

 だとしても、それは最終手段だと、アルゴリズムのバトラーは自身のシステムに決めていた。自分の力ではどうしようもなくなったとき、スーの助けを借りよう、と。

「だから、まずは唾液を少し、もらうねー」

 スリングの先端部から髪の毛ほどの綿棒ピックを突き出し、そろりそろりと狙いを定めていく。さながら無垢な赤ん坊に迫る凶刃だが、たとえスリングがヴィンピアの肌に触れてもその柔肌へ傷をつけるのは不可能だ。機能性ナノ繊維で編み上げられたバトラーのスリングは赤ん坊を抱え上げられるほどに剛性を持ち、それでいて触れればシルクのように優しい。

「ぶぶっ」と口角に立った泡をピンポイントで貫いて、ピックがスリングの内径に触れないよう、機体内蔵の解析機シーケンサーへサンプルを格納する。数世紀にわたる感染症との闘いで人類は数々のテクノロジーを手にしてきたが、手のひらサイズの超小型解析機もまた、欠かせない武器の一つとなった。

「『病原体および毒性未検知』、と」

 システムへ上がった報告を読み上げ、ひとまずバトラーは二本のスリングを擦り合わせた。人間で言うところの"胸をなで下ろす"仕草は、現在進行中のヴィンピアの謎の涕泣が身体的不調ではないことへの安堵と、それならそれで次の対処方法を考えるジェスチャーだ。

「んんっんんぁっ!」

 ヴィンピアの要求は強まるばかりで、ただでさえ赤らんだ頬は刻々と彩度を増している。いよいよアルゴリズムの焦燥感を駆られ、バトラーは「やるぞっ」とスリングを叩き合わせた。

「伊達にラケルさんのスキルをこっそり見てたんじゃないんだ。それに、これは『触れ合い』じゃない。ワタシだって、やればできる」

 暗に盗み見していた咎を白状し、原則の解釈を緩めてバトラーがスリングを伸ばしていく。幸い、告解を聞いている者はここにいない。目指すは基本の型、抱っこだ。

「後頭部から脇……腰部から下腿へ回して……」

 順序をつぶやきつつ、アッシュグレイのスリングを巻きつけていくたどたどしさは新米ママ(パパ)さながらである。もっとも、バトラーはアルゴリズムなので、おっかなびっくりしたところで動作に支障はきたさない。

 そうやってヴィンピアを、ベビー服ごとスリングで緩く締め上げていく。傍目には、か弱い赤ん坊を攫おうとする地球外知性の襲撃だが、当のバトラーのイメージは『優しく抱きしめる』だ。人間なら脳が自動調整してくれるところを、まさに緊張の糸——スリングをピーンと張り巡らせながら均衡を取るべく演算を積み重ねていく。

 バトラーにとって、これは、初めての接触コンタクトだ。

 会話目的に設計されているアルゴリズムが、人間に触れることは原則として滅多にない。

 『原則』であるゆえに『禁忌』ではなく、機会に恵まれれば"接触"もあり得る。

 けれど、種々の感染症に仮想世界の拡大、五感の再現力の向上によって人々は相手へ触れる行為を"遠慮"するようになった。

 触れて、傷つくより、離れて、共に時間を過ごすほうがずっと、いい。

 "触れない"メリットを"触れる"デメリットが超すというのなら、あえて手を伸ばす必要もない。

 人間の行動様式から学習するバトラーたちアルゴリズムが、そんな人々の変化を敏感に取り込むようになったのは自然な流れだったし、合理的な彼らもその理由は理解しやすかった。

「ワタシだって、できるものならヴィンピアを危ない目にあわせたくないんだ」

 ベビーベッドから大人の拳ひとつ分、ヴィンピアを抱え上げてバトラーが声を硬くする。ちょうど、初めて親になった新米パパがこわごわ、自分の子を抱き上げたに等しい。

「んっんっ」

 当然、それだけで赤ん坊が満足するはずもなく、自分が浮遊していると感じたのか、一瞬、泣き声が収まった。が、すぐさま「んぎゃーっ!」とアルゴリズムが解読するには難しい言語を続けて喚き立てはじめる。

「よしよーし……。わからない、わからないぞ。次は、ええっと……」

 ——自分のスリングに、ひとつの命が丸ごと載っている。

 予測していたはずの重みに、だがバトラーは実測値のほうが途方もなくプレッシャーを感じていた。ルーティンへ組みこんだはずの、抱っこの次の行程タスク消失スパークし、予測値の誤りを疑うほど動揺していた。

 ——そう、バトラーは狼狽えていた。

「温かい、温かみを感じるな。……まさか発熱⁈ いや、待て。体温を測ってみよう。……うん、普段より少し高いけど平均だな」

 ともすれば錯乱フリーズしてしまいそうな乱れた思考を、レンズの前、自分が預かっている小さな命へフォーカスさせ、かろうじてバトラーは気を保つ。

 依然、熱いほどのヴィンピアの体温がバトラーのスリングを伝い、垂泣で小刻みに震える柔らかい体がスリングに繊細な力加減を求めてくる。

 ガス検知程度の機能しか有していないセンサが、なぜか未知の甘い臭気を検知してきて、まずアルゴリズムには必要のないミルクの芳醇な味わいまで、知覚した気がしてくる。

「ななな、なんだ⁈ バグっているのかワタシ⁈」

「んぎゃーっんぎゃー!」

 必死に思考を立て直そうとするバトラーの焦りを煽るように、赤ん坊の激しい泣き声がマイクを支配していく。一度たりと『耳障り』などと考えたこともないその音を、【雑音】タグで選り分けかけていた自分にバトラーは慌ててタグを投げ捨てる。「困ったときは母親スーを呼ぶ」という約束も、混乱した思考に埋もれて見つからない。


 ——澄んだ音色が聞こえてきたのは、そのときだった。

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