第2話
朝陽を追いかけるようにスーが出かけていった先は、学校だ。
港町・マタラの商業区の端にある『スリランカ国立大学
いつもスーは言っている。
ドクターになって、病気の子どもたちを助けるのだ、と。
外傷の手当てをする外科医でもなければ、未だ死亡率の高い乳幼児医療に携わりたいのでもない。
スーが専門で学んでいるのは、感染症医学だ。
「——バイタルよし。よく眠っているね」
ベビーベッドの真上をスイスイと振り子のように移動しながら、乳白色の球体——留守番を任されたアルゴリズムのバトラーは、黄身色の肌着に身を包んで柔らかな息を吐き出している赤ん坊を、頭からつま先まで
「じゃ、ヴィンピア。ワタシはキッチンを片づけているからね」
そよ風がささやくようなボイスで言って、バトラーは移動用のスリングを台所のほうへ飛ばしていく。
寝ているヴィンピアを思えば、沈黙が最高の子守唄のように思える。が、母親のスーに言わせると、「眠ってるときも声は聞いているから、ダンマリはダメ」らしい。バトラーが学術データベースを調べてみると、確かにそういう研究成果はあって、視覚が未発達の乳幼児は聴覚で周囲を“学習”しているそうだった。
静かすぎる環境は逆に、そんな赤ん坊にとって不安で仕方ないとか。
「ヒトって、不思議だなー」
そんな感想を漏らしつつ、クモのように移動してきたバトラーはキッチンを見下ろす位置へ、機体を留める。
母と娘、二人だけのこじんまりしたアパートのシンプルなキッチン。
「研修で味を占めちゃうなんて、スーらしいや」
棚の下、凄惨極まりない散らかり具合を見下ろして、掃除の段取りをシミュレートするバトラーが機体を傾げた。人間で言うところの“肩をすくめる”に近い。
研修とは、もちろん料理のことではない。MM校の
通常、数年が必要な研修医期間を、他国の病院を渡り歩いて研鑽を積んでいくことで、グローバルな感覚と実地経験を同時に習得する。世界的な医師不足から設立された、セミドクター制度の特徴だ。研修を通して3大陸5カ国で経験を積んだスーは、ドクターとして鍛えられただけでなく、グルメな舌も拵えたということだ。
「それで料理の腕が壊滅的って、信じられないよね。薬学の成績はダントツなのに」
そう結論したバトラーが2本のスリングを、前衛アートよろしく積まれたスープ皿へ射出。続けざまに別のスリングで皿の横で傾いているグラスを支え、洗い物のアートが倒壊しないよう微調整する。重心を計り、対象物を移動させていく。アルゴリズムが得意な領域だ。鉄製の皿にはわずかに残った茄子の皮と、スマックの酸っぱい香りが伝わってきそうだ。あいにく、バトラーには匂いセンサが搭載されていないが。
4本のスリングを人間の手さながらに操りつつ、留守番を任されたアルゴリズムは「料理は科学でも、得手・不得手はべつものなのか」などと分析の言葉を漏らした。
「それにしても——」
キッチンとつながったスリングをいっぱいに伸ばしたまま、蛇口を捻る前に機体をスイングさせ、ベビーベッドのほうへ
そうして留守番が順調であると再確認して、バトラーは皿洗いの
「ラケルさんの実家、だいじょうぶかなー」
ラケルは、スーの親友にしてヴィンピアの
6人姉弟の長女だというラケルは赤ん坊の扱いにも慣れたもので、スリランカの保育士資格を目を剥く速さで取得。すっかり甘えっ放しのスーは、授業中のヴィンピアの世話をそのまま任せてしまった。「夜間授業を取るから」と、二つ返事で引き受けた鮮やかなスカーフのラケルにバトラーのほうが頭が上がらない。
話し相手にはいくらでもなれるバトラーも、赤ん坊の世話となるとお手上げだ。経験がないなら積めばいい。が、原則、人間にアルゴリズムが触れていいのは、その相手が命の危機に瀕したときのみ、と定められている。これではバトラーも経験の積みようがない。
そこへ救世主のごとく現れたラケルには、ただただ感謝である。
もっとも、ラケルのほうは彼女で迷信深いようで、アルゴリズムが赤ん坊と触れ合うことに眉をひそめていた。バトラーとしてはやや、寂しいところだ。
——そんなラケルの元に、実家のあるテルアビブが大規模
「レンジャーが出動しているらしいけど、被害は大きそうだね……」
掃除の傍ら、バトラーはネット上の信頼性の高い
マタラ沖に群れを成して打ち寄せる、ウミホタルのような澄んだその蒼色は、この時代の希望の象徴だった。
「連絡がないのが心配だよ」
そう言ってみたところで当然、どうにかなるものでもない。スーは気丈を装っているが、その心のうちが穏やかでないのは観察眼に自信のあるバトラーにはお見通しだ。
赤ん坊は人の機微に敏い。それが母親ならば、なおさらである。
ヴィンピアとの留守番をバトラーが引き受けたのも、親友の安否が気がかりでならないスーに、少しでも息抜きをしてほしかったからだ。
「といっても、だれか専門シッターさんを呼ぶつもりだったんだけどな」
洗剤を付け、スリングで食器の表面を擦りながら、バトラーは球体の機体を傾げてみせる。そんなアルゴリズムの画策をあっさり拒否して、仕える
「だって、ワタシには手が有って無いようなもんだし、ヴィンピアをあやすたって——」
「んんーっ」
と、ベビーベッドのほうから早速のお呼びがかかる。
摑んでいた皿をシンクへ置き、蛇口を捻って急いで
「はいはーい! いまいくからねー」
まだ湿気の残るスリングで機体を回転させつつ、バトラーは思った。
「ラケルさん、早く帰ってこないかな……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます