第2話

 朝陽を追いかけるようにスーが出かけていった先は、学校だ。

 港町・マタラの商業区の端にある『スリランカ国立大学附属医学部マタラMM校』。インド洋に面し、商業の中継地として栄えるマタラに13年ほど前に設立された新しい学校だ。

 いつもスーは言っている。

 ドクターになって、病気の子どもたちを助けるのだ、と。

 外傷の手当てをする外科医でもなければ、未だ死亡率の高い乳幼児医療に携わりたいのでもない。

 スーが専門で学んでいるのは、感染症医学だ。


「——バイタルよし。よく眠っているね」

 ベビーベッドの真上をスイスイと振り子のように移動しながら、乳白色の球体——留守番を任されたアルゴリズムのバトラーは、黄身色の肌着に身を包んで柔らかな息を吐き出している赤ん坊を、頭からつま先まで見回してセンシング、その目玉のような機体を頷かせた。

「じゃ、ヴィンピア。ワタシはキッチンを片づけているからね」

 そよ風がささやくようなボイスで言って、バトラーは移動用のスリングを台所のほうへ飛ばしていく。

 寝ているヴィンピアを思えば、沈黙が最高の子守唄のように思える。が、母親のスーに言わせると、「眠ってるときも声は聞いているから、ダンマリはダメ」らしい。バトラーが学術データベースを調べてみると、確かにそういう研究成果はあって、視覚が未発達の乳幼児は聴覚で周囲を“学習”しているそうだった。

 静かすぎる環境は逆に、そんな赤ん坊にとって不安で仕方ないとか。

「ヒトって、不思議だなー」

 そんな感想を漏らしつつ、クモのように移動してきたバトラーはキッチンを見下ろす位置へ、機体を留める。

 母と娘、二人だけのこじんまりしたアパートのシンプルなキッチン。

 自動調理機オートクッカーの料理は美味しくないと、主張してやまないスーはそんな機械を置く代わり、多種多様な調味料を取り揃えていた。キッチンの天井から吊った棚の扉の奥はさながら、スパイス市だ。

「研修で味を占めちゃうなんて、スーらしいや」

 棚の下、散らかり具合を見下ろして、掃除の段取りをシミュレートするバトラーが機体を傾げた。人間で言うところの“肩をすくめる”に近い。

 研修とは、もちろん料理のことではない。MM校のセミドクター実地研修SD-HoTである。

 通常、数年が必要な研修医期間を、他国の病院を渡り歩いて研鑽を積んでいくことで、グローバルな感覚と実地経験を同時に習得する。世界的な医師不足から設立された、セミドクター制度の特徴だ。研修を通して3大陸5カ国で経験を積んだスーは、ドクターとして鍛えられただけでなく、グルメな舌も拵えたということだ。

「それで料理の腕が壊滅的って、信じられないよね。薬学の成績はダントツなのに」

 流しシンクを空けないことには片づけが進まない。

 そう結論したバトラーが2本のスリングを、前衛アートよろしく積まれたスープ皿へ射出。続けざまに別のスリングで皿の横で傾いているグラスを支え、洗い物のアートが倒壊しないよう微調整する。重心を計り、対象物を移動させていく。アルゴリズムが得意な領域だ。鉄製の皿にはわずかに残った茄子の皮と、スマックの酸っぱい香りが伝わってきそうだ。あいにく、バトラーには匂いセンサが搭載されていないが。

 4本のスリングを人間の手さながらに操りつつ、留守番を任されたアルゴリズムは「料理は科学でも、得手・不得手はべつものなのか」などと分析の言葉を漏らした。

「それにしても——」

 キッチンとつながったスリングをいっぱいに伸ばしたまま、蛇口を捻る前に機体をスイングさせ、ベビーベッドのほうへ視覚カメラを向ける。穏やかな寝息を立てるヴィンピアは可愛さそのまま、バイタルにも変化はない。ベッドの縁へ陽だまりが迫っていたので、バトラーの宅内管理ホームキーパーシステムが窓の遮光性を上げて赤ん坊にかからないようにする。

 そうして留守番が順調であると再確認して、バトラーは皿洗いの仕事ミッションに機体を戻した。

「ラケルさんの実家、だいじょうぶかなー」

 ラケルは、スーの親友にしてヴィンピアの保育士チャイルドマインダーの名前だ。イスラエル出身のラケルは、ここスリランカを留学生として訪れている。スーとは実地研修テルアビブで意気投合したらしく、今度はラケルのほうが研修先にマタラを選んだ。

 6人姉弟の長女だというラケルは赤ん坊の扱いにも慣れたもので、スリランカの保育士資格を目を剥く速さで取得。すっかり甘えっ放しのスーは、授業中のヴィンピアの世話をそのまま任せてしまった。「夜間授業を取るから」と、二つ返事で引き受けた鮮やかなスカーフのラケルにバトラーのほうが頭が上がらない。

 スーのアシスタントとして稼働するバトラーに、本来、子守りの機能は搭載されていない。そんなハウスキーパーアルゴリズムに、人とのコミュニケーションが主たる会話アルゴリズムを組み込んだのはスー本人である。人付き合いコミュニケーションには一家言あるらしい彼女に言わせると、「同じ屋根の下で暮らすのだから、信頼関係が大切」だそうだ。つまり、話し相手が欲しかっただけな気もするが、それを指摘すると主に拗ねられてしまいそうだったのでバトラーは口にしていない。

 話し相手にはいくらでもなれるバトラーも、赤ん坊の世話となるとお手上げだ。経験がないなら積めばいい。が、原則、のみ、と定められている。これではバトラーも経験の積みようがない。

 そこへ救世主のごとく現れたラケルには、ただただ感謝である。

 もっとも、ラケルのほうは彼女で迷信深いようで、アルゴリズムが赤ん坊と触れ合うことに眉をひそめていた。バトラーとしてはやや、寂しいところだ。

 ——そんなラケルの元に、実家のあるテルアビブが大規模黒狼災害LDに襲われたと、一報が入ったのが3日前だ。

「レンジャーが出動しているらしいけど、被害は大きそうだね……」

 掃除の傍ら、バトラーはネット上の信頼性の高い情報源ソースの関連ニュースをシステムに取り込み、心配げに小声をこぼした。どのニュースも、生々しい状況とその中で懸命に救助活動へ取り組む救助隊レンジャーの蒼い制装アーマー姿を伝えていた。

 マタラ沖に群れを成して打ち寄せる、ウミホタルのような澄んだその蒼色は、この時代の希望の象徴だった。

「連絡がないのが心配だよ」

 そう言ってみたところで当然、どうにかなるものでもない。スーは気丈を装っているが、その心のうちが穏やかでないのは観察眼に自信のあるバトラーにはお見通しだ。

 赤ん坊は人の機微に敏い。それが母親ならば、なおさらである。

 ヴィンピアとの留守番をバトラーが引き受けたのも、親友の安否が気がかりでならないスーに、少しでも息抜きをしてほしかったからだ。

「といっても、だれか専門シッターさんを呼ぶつもりだったんだけどな」

 洗剤を付け、スリングで食器の表面を擦りながら、バトラーは球体の機体を傾げてみせる。そんなアルゴリズムの画策をあっさり拒否して、仕えるマスターの彼女は全幅の信頼をバトラーへ託したのだった。

「だって、ワタシには手が有って無いようなもんだし、ヴィンピアをあやすたって——」

「んんーっ」

 と、ベビーベッドのほうから早速のお呼びがかかる。

 摑んでいた皿をシンクへ置き、蛇口を捻って急いでスリングの泡を流す。そのあいだも、哺乳類の幼体特有の可愛らしい——目的を果たすまで止まらない泣き声が強くなっていく。

「はいはーい! いまいくからねー」

 まだ湿気の残るスリングで機体を回転させつつ、バトラーは思った。

「ラケルさん、早く帰ってこないかな……」

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