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ウツユリン

第1話

「——じゃ、そういうことで、バト。ヴィンと留守番、お願いね。お昼には様子見にくるから」

「……はい? いや、まってスー! そういうことって、どういうことかわからないってば‼」

 甲高くなっていく懇願も虚しく、力強いサムズアップとウインクを残して彼女——長い黒髪の美しいスーは、命令ミッションを言い置くと、足取り軽く玄関へつま先を向けた。

「んぎゃー」

「ほ、ほらほら! ヴィンピアが泣いちゃってるよスー!」

「はーい」、と妙に納得した声を引っさげ、中黄のワンピースが身を翻して戻ってくる。

 追いかけていきかけた乳白色の球体——アルゴリズム・バトラーはキュイっ、と丸い機体を紺色のカーペットに走らせ、裸足へ道を譲った。ゴルフボールのディンプルよろしく、機体にまとったスリング発射口から超極細のワイヤーを壁へ伸ばし、バトラーの球体がクモさながらに宙を移動する。

「どうしたの、ヴィン。バトラーと早く遊びたいのねー」

「ぜったい違うと思うって、スー。普通に推測するなら、ママのお出かけに寂しくて泣いてるんじゃないかな」

「だいぶ、赤ちゃんの心を理解できるようになったわね」

 ベビーベッドからまだ寝返りもできないヴィンピアを抱き上げ、脇で意見を述べた白い球体へスーが微笑みかける。それは褒められているとバトラーも理解できるが、母になってなお少女のような茶目っ気たっぷりのスーには、いつもからかわれている気がしてならない。

「だいじょうぶよヴィン。ママもバトもいるからねー。あなたを置いてったりしないわ」

 家会話アルゴリズムハウスキーパーのバトラーが、その機体の光学的“まぶた”を瞬かせる。遮光性を下げた窓から部屋の足元へ、昇った朝陽の光が招き入れられ、インディゴの絨毯へ陽だまりを形成した。

 自然光の温かみは別格だ。

 照明でいくらでも室内を明るくできるし、室温を快適に維持するくらい造作もない。それでも、窓辺へ移動し、街へ——その向こうの海へ面した部屋からインド洋を共に眺める親子を照らす太陽の光が、バトラーにはたとえようもなく美しく、愛おしいと思考アルゴリズムの底から思えた。

「——あのさ、スー」

 スリングのいくつかを別方向へ飛ばし、ぶら下がる自機の位置を変える。ヴィンピアのベッドの真上のここからなら、最高の一枚が撮れる。

 そう思い、アルゴリズムのバトラーは許可を求めて電子的な言葉を紡ぎ——

「写真、撮ったらダメ?」

「ダメ」

 速攻で断られた。答えはある程度予想できていたが、ガックリと自機をうな垂れるのは止められない。この一枚なら、相応しかったはずなのに。

 ——ヴィンピアの、人生最初の写真として。

「ごめんね、バト。この子はの宝物よ。あなたを信じてないわけじゃない。でも、危険は冒せないわ」

「……うん。わかってる。こっちこそ、ごめん」

 死んだクモのように垂れ下がったバトラーの機体を擦ると、「よしっ! それじゃあ……」とスーがまた笑顔を浮かべた。スーの表情は、それこそ赤ん坊のヴィンピアに負けず劣らずコロコロ変わる。雨と日照りの国で育ったからだろうか。

 スーについてバトラーが知っていることは驚くほど少ない。それこそ、本人の口から聞いたごく基本的な情報だけだ。

 だから、ふいに彼女が見せる遠い眼差しが見ているものを、バトラーはまだ知らない。

 はっきりしているのは、ヴィンピアの写真を絶対に母親のスーが撮りたがらないこと。

 それから結局、ヴィンピアの子守りを任せていくこと。

「ミルクも飲んだばかりだし、オシメも替えたし。バト、ヴィンをよろしくねっ」

「……はいはい。でも手に負えないときは、すぐ電話するよ?」

 ベビーベッドでスヤスヤ眠っているヴィンピアを白い球体が見下ろし、続けてそう言った。娘の額にキスを残し、ヴィンピアの母親は球体バトラーへ再度のサムズアップを掲げる。

「OK。おっ、遅刻遅刻〜。じゃ、いってきま〜す!」

「いってらっしゃい。安全運転で!」

 玄関の鍵が閉まる音がして、急に部屋が静かになる。太陽スーマインの名前がついているだけあって彼女がいるとどこでも明るくなる。きっと、ヴィンピアも母親と同じくらい元気な女性に育つに違いない。

「——さて。ヴィンピア、初めてのお留守番だよ。緊張するなあ。改めて、よろしく」

「んあ」

 おう、と頼もしい元気な返事が聞こえた気がした。

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