最終話 最後の会話に

 広くもないネットカフェが、今は広大で複雑な迷宮のように感じた。

 エロ漫画の表紙、棚。背表紙から伝わる白濁液と派手で丸いフォント。

 男の裏声、おじいさん、おじさん、おにいさん、女装。

 それらを掻い潜り、私と大男はソファー席の近くまで来た。すぐに彼女の目の前に立つのではなく、手前の本棚で立ち止まった。


 ビールさんはセシルマクビーではなく、白いレースのミニワンピースを着ていた。H&Mでありそうな感じがした。足が長くてとても綺麗だった。

 ビールさんを再び見ることが出来て、美しいとか、懐かしいとか、嬉しいとかの感情は沸かなかった。

 私は再びやっと会えた感慨ではなく、姉が生きていた頃の時間に戻った気がした。

 ここだけ、姉が生きていた頃だ、と思った。


 ビールさんはソファーでコーヒーを飲んでいた。

 シラフのその顔は、公園の時と比べて別人のように大人びて見えた。

 大男が歩みを進め、自動販売機でお茶を買った。私もそれに続いてお茶を買った。

 

 ビールさんは、誰かを待っている風だった。スマホをいじっていて、私に気付いた様子はなかった。

 大男がこちらに目配せをする。

 「どうする?」と問うているようだった。


 私は首を横に振った。ビールさんが気付いてから、話しかけようと思った。それまでじっとビールさんを見ていた。控えめについているレディースピアス、骨が太くて浮き出た手の血管、手入れされている爪。


 ふと、煙草の臭いが漂った。

 黒色のシャツを着た男の人が一人やってきて、颯爽とビールさんの隣に座って、耳打ちをした。ビールさんがスマホに落としていた視線をあげた。

 その瞬間、私と目が合った。


 一瞬だけ、ビールさんの顔が止まったように思った。目が少しだけ大きく見開いたような。それは私自身もそんな風な顔をしていたからに違いなかった。


「じゃ、そういうことで、行きましょか」

 と、ひそひそ声をやめて、黒色シャツの男は自分の膝をパンと叩いて、立ち上がった。

 ビールさんは、私のほうを何度か見ながら立ち上がった。

 そのまま、ビールさんは手を引かれて、個室ブースのほうに向かいかけた。私は何もできずに、お茶を手に持ったまま、呆然と見送った。


「八木ちゃんじゃん」

 大男が言った。

「は? ……あれっ」

 黒色のシャツの男が、喜怒哀楽を全て含んだ苦笑いを浮かべた。

「八木ちゃん、どうしたの? まだやってんだ」

 大男が、見たことないくらいの陽キャのノリで八木に話しかける。

「いやいやいや、ちょっと……」

 私には目もくれずに、もの凄い早さで八木と呼ばれた男が大男の背中に手を回して、小声で話し始めた。「ちょっと、先輩、ちょっと向こうへ……」「八木ちゃんどーしたん? ひさびさじゃーん」八木の顔面は、この世の全ての焦りと気まずさが凝縮されたような皺だらけに変化していた。ソファー席すら外れて、「先輩、これはね、先輩、これはね」と言いながら、人のいない更に奥へと大男を連れて行った。


 ぽつんとビールさんが取り残されていた。

 私と何度か目があいながらも、顔を伏せた。アルコールが入っていない時だからだろうか。怯えた表情をしていた。

 私はかろうじて、少しだけ会釈した。

 ペコリと、小さく頭を下げる仕草だ。

 向こうも頭を下げた。

 ちょっとづつ、距離を近付けていく。


「綺麗ですね……」

 そう話しかけると、ビールさんは「ありがとうございます」と言った。

「その……、覚えていますか」

「す、すみません。どこかでお会いしたことがあるかもしれません」

 ビールさんは謝りながら言った。

 私は、トイレの中の事を思い出しながら、踏み込んだ。

「あの、公園で……」

「え? 公園……あー、サヌキ公園?」

 全然知らない場所だった。

「あのプールがあるところ……」

「あ! あそこ……。あそこで会ってましたか」

「はい、ビール飲んで、とても酔っ払ってました」

「あーははは。ごめんなさい。何か迷惑かけちゃいました?」

「迷惑だなんて……」

 私はそれ以上のことを言ってしまおうか悩んだ。

「ごめんなさい。お酒たくさん飲んじゃうんで、気が大きくなってきっと何かしちゃってると思うんです。でも忘れてくださいね」

「いえ……忘れはしないですけど……」

「ほらーやっぱり何かしちゃってるんじゃないのー」

 ビールさんは、笑顔になった。ヒールが少しふらついた。

「もう、ここで土下座したい。絶対何かしちゃったと思う」

「えー、いやいや」

「たぶん、あの公園だから……」

「ええ」

「あー」

「そうですね……」

 と、言葉を交わさずとも、イメージを共有しあうような、目で会話することをした。

 ビールさんは、自分が何をしたか、だいたい察しがついたようだった。

「いやほんと、ごめんなさい。傷つけてしまったのかも」

「いえ、そうじゃないんです」

「じゃ、私をどうしたいの? もしかしてビンタしに?」

 笑顔で彼女は言った。私は、「今だ」と思った。

 ビールさんは怯えていた。アルコールがあれば、一気に飲み干したい気分に駆られていることだろうと思った。

「いえいえいえ、そうじゃないんです。落ち着いてください」

 私は、ビールさんをいったんソファーに座らせた

 それから、私は彼女の隣に座った。

 懐かしいような、新鮮なような、気がした。

 ほとんど会ったことがないのに、シラフで話すのは初めてなのに、とても彼女のことをよく知っているような気がした。


「あなたとキスした翌日、私の大切な姉が、ずっと病気だった姉が、一人娘を残して亡くなったんです」

「そう……」

「それをあなたに話したかったんです」


 数秒の会話。

 これで私の会話は終わった。

 お互いに沈黙がしばらく流れた。

 姉のことは、居酒屋の人や、友達に伝えても、消化できないし、他人でも、話したって何も収まった感じがしなかった。

 そんな収まらない世界になる直前に抱き合った人に、その後、私の世界が変わったことを伝えたかった。


 大男と八木が戻ってきているのか、聞き覚えのある声がした。まだ何か話し合っているようだった。もうすぐ彼らがここに来る。


「わかった」

 ビールさんは頷いた。

 受け取ってくれたのかどうかは分からなかったけれども。

「あなたのこと、本当は覚えてる」

 そうして、ビールさんは立ち上がって、きびすを返した。

 自動販売機からペットボトルの水を購入した。

「今から仕事だから」


 八木がやってきた。

 大男に何度もお辞儀をしながら、ビールさんの背中を押すようにして去って行った。二人は打ち合わせのような会話をして、個室ブースの暗がりに消えていった。

 ビールさんは振り返らなかった。

 あの公園の時のように手も振らなかった。

 私はその背中をずっと目で追っていた。


 大男は「ちゃんと話せた?」とひと言だけ聞いてきた。

 私を見下ろすその目は、なぜか優しげだった。

 私は頷いた。

「そうか」

 大男は、何も臭わなかった。珍しく風呂でも入ってきたのだろうか。

「ところで、一緒にお話でもしないかい?」

 私は思わず、一歩ひいた。

「ごめんなさい、待ち合わせがあるので……」

「いや、そういう意味じゃなくて」

 大男は天井を見上げて笑った。


 彼の個室で三十分ほどお話をした。といっても、もちろん行為に及んだわけではなく、ある動画サイトに多分私とビールさんの映像が上げられている可能性があるから、なんとか消すように手を回しておいたと説明された。

 別に私は自分の動画が上がっていようがどうでもよかった。

「八木君は俺がちゃんと躾とくから」と、大男は格好付けたように言った。

 少しだけ頼りがいがあった。

 大男は、やっかいごとがかたづいたような困ったような、作戦を成功させたような、充実した顔をしていた。


 よく、現実世界に宇宙人がやってくる話がある。

 きっと彼らにとっては、私がそれなのだろう。

 宇宙人をようやく納得させることができた。宇宙人はこれでまた元の宇宙に帰っていってくれる。そう思っているかも知れなかった。


 受付に向かうとセツナさんがいた。

「話せた?」

 私はさっきと同じように頷いた。

「連絡先は?」

「彼女、私のことを、覚えてました」

「そう」

 セツナさんは頷いて、「私ね、あのプールのある公園近くの駅でバーやってるのよ」と名刺を渡された。名刺の裏に地図が載っていた。

「お店はどんな姿でもいいから」

「ビールとハイボール以外はとても美味しいお店だよ」

 大男は皮肉っぽくそう言って笑った。

 セツナさんと大男に見送られながら、私は駅に向かった。

 日が沈んで、凍える夜になっていた。歯をカチカチ鳴らしながら、このネットカフェの建物にもう二度と来ないだろうなと思いながら走った。



 帰宅すると、コタツで、この前とは違う心霊写真の本を食い入るように読む姪っ子がいた。父は自室でYouTubeを観ているらしかった。

 母に、「おかえんなさい。急な用事はすんだの?」と言われた。

「だから帰ってきたんだけど」

 ぶっきらぼうに私は言った。

「何よ、その返事の仕方、そんなかっこつけて。はやく一人暮らししなさいな。いつまでもこんなところにいて。ここはあんたがいつまでもいる場所じゃないのよ」

 母は鍋を用意しながら、呆れた口調でしゃべり続けた。

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ビールさん 猿川西瓜 @cube3d

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