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 カイ・ヴァールのほっそりとした首筋が目に入る。

 筋肉がつきにくい体質らしい。だから、平均的な生徒よりもパワーが足りない。だというのに、彼の強さは圧倒的だ。

 足りないパワーを補うのは、圧倒的な魔法センス。努力の積み重ねの果てにある操作技術、集中力、状況判断、反射神経。それから、自分も相手も傷付くことを厭わないその真っ直ぐな覚悟。


 白い顔に長い睫毛が影を落としている。引き結ばれた唇がやけに紅く、まるでそこにだけ色が置かれているみたいに、艶やかに見える。

 黙っていれば造り物めいた綺麗な顔立ちだけれど、本人はその美しさには全く頓着がない。それどころか、造形に言及されると不機嫌になるか、怒るかする。侮られていると感じるらしい。

 そういうところも彼らしいと思う。


 不意に、その瞳がこちらに向けられる。目が合って、微笑まれて、それで「ああ、夢だ」とシュウ・ディンカーは気付く。

 カイ・ヴァールとシュウ・ディンカーの間に、これまでこんな甘やかさはなかった。こんな穏やかな空気は、夢でもなければ有り得ない。

 自分であって自分じゃないような気持ちで、シュウは夢の中の自分たちの姿を眺めていた。


 シュウは、カイのその白い頬に触れる。顔を近付けて、至近距離で見詰め合う。

 カイのその紅い唇に、自分のそれが触れる寸前──。


 シュウは目を覚ました。




 シュウはベッドの上に飛び起きて、両手で顔を覆って呻いた。

 夢だ、ただの夢、意味なんかない。そう思うのに、シュウの脳裏にはカイの艶やかな唇や、ほっそりとした首筋や、普段は見せないような甘やかな眼差しがこびりついて離れない。

 いや、その微笑みだって、夢なのだからただのシュウの妄想なのだ。シュウには、その事実が一番堪える。こんな夢はまるで、自分が、カイのことを──。


 顔を覆っていた手で髪の毛を掻き回す。


「違う。そうじゃない。あれ・・のせいだ」


 自分の声が、なんだか随分と弱々しく、強がっているように聞こえる。


 シュウは溜息をついて、上掛けを避けると、ベッドから立ち上がった。

 しばらく眠れそうになかった。




 憂いの月の夜だった。ひんやりとした夜の空気に晒されて、シュウは熱い息を吐く。体の芯まで冷えてくれたら眠れそうだと思う。

 学園アカデミーの敷地内は静かだ。今日は飛竜ワイバーンたちも大人しく眠っているらしい。


 静かな世界にただ一人きりの気分で、シュウはゆっくり歩く。

 夢の内容を忘れようと思っているのに、シュウの頭に浮かぶのはカイのことばかりだった。


 まだ少し幼さの残る危うげな顔立ち。その優秀さと見た目で、学園アカデミー内にだって男女問わずファンが多い。

 その話をすると、本人はやっぱり不機嫌になる。

 過去には、目立って優秀であるやっかみと、少し華奢に見える姿のせいで、先輩方に面倒な絡まれ方をしたこともある。あれは、シュウにも原因のあったことではあるのだけれど。

 それが決闘騒ぎにまでなって、成り行きでとはいえカイと共闘することになって──楽しかったな、とシュウは思い返す。普段は、競い合うしかしないシュウとカイだったけれど、いや、だからこそか、あの時はお互いの考えていることが手に取るようにわかった。カイが前に出ればシュウは相手の攻撃からカイを守り、シュウが攻撃する時にはカイがその軌跡をフォローする。

 絶対に負けたくない、超えたい相手。同時に、カイだけだという気持ちにもなる。こんな風に、安心して全力で向かっていけるのは、そして、並んで戦えるのは。

 あの時、カイに「俺に付いてくることができるのは、おまえだけだ、多分」と言われて、それでカイも同じ気持ちでいることを知って、それがシュウにとってどれだけ嬉しいものだったか。




 は、とシュウは振り向いた。

 振り向く前から危険な気配ではないのはわかっていたけれど、背後に感じるものにはどうしても神経を尖らせてしまう。

 そこにカイ・ヴァールの姿を見て、シュウは息を止める。


 夜闇の中、カイの姿はいつもよりも一層、細く見えた。憂いの月の青白い光の中、ぼんやりと白く浮かび上がって──寄る辺なく揺れる季節外れの花のように佇んで、シュウを見ている。


「シュウ、どうした? こんな時間に」


 カイの声に、シュウは呼吸を取り戻す。


「いや、目が覚めて……眠れなくなって、少し散歩」


 おまえの夢を見て──そう言いかけて、シュウは首を振った。そして「おまえは?」と聞き返す。カイは、自分が聞かれることを想定していなかったのか、ちょっとびっくりしたように目を見開いて、それから気まずげに目を逸らした。


「俺も……同じようなものだ、多分」


 何が同じで何が多分なんだ、と思ったけれど、シュウはシュウでそれ以上踏み込まれるのが怖かったから、何も言わなかった。




 静かな夜の中を彷徨いながら、二人で声を潜めて話す。

 尊大で、殊更に自分を強く大きく見せようとするいつものカイに比べて、今夜のカイは随分と柔らかな雰囲気を纏っていた。

 夜だからか。それとも──自分がそれだけ信頼されているのだとしたら嬉しいと、シュウは思う。

 このとびきり優秀なライバルが普段どれだけ気を張っているのかと想いを馳せながら、隣で歩く。そして、今は少し気を抜いたように見えるカイの姿を見る。


 ほっそりとした首筋に浮かぶ骨の線。長い睫毛が落とす影。滑らかな頬。それから、やけに艶っぽく見える紅い唇。

 気にしないようにしていたというのに、シュウの視線は気付けばカイの唇に引き寄せられていた。

 じきに訪れる試験テストについて語っていた唇が、不意に引き結ばれる。そして、訝しげな睨むような視線が、シュウに向けられる。


「聞いてないだろう。目を開けたまま寝てるのか?」

「あ、いや……聞いてる。聞いてる、けど」


 気まずさに、シュウは視線を逸らした。

 そもそも、眠れなくなったのはカイの夢のせいで──あの夢の理由ははっきりしている。先日の人工呼吸だ。


 ただの口対口人工呼吸。治療行為。それ以上の意味はなかった。

 シュウだってそう思っていた。だというのに、日が経ってもなお、いや、日が経つにつれ、そのことばかりが頭を占めるようになっていた。そしてついには、あんな夢まで見る始末だった。

 カイの方は、なんら気にしてる様子もなく、全くもっていつも通りに過ごしているというのに。むしろ、何も変わりがないことが腹立たしい。

 自分ばかりが気にしているこの状況はまるで──。


 そこまで考えて、シュウは口元を押さえて溜息をついた。


「最近、ぼんやりしすぎじゃないか?」


 カイの言葉に、おまえのせいだ、と言いかけて呑み込む。


「そんなこともない、と思うけど」


 けれど、曖昧な返答はすぐに斬って捨てられた。


「いや、ぼんやりしてる。些細なミスが多い。おまえは誤魔化せてるつもりかもしれないが……実際に、大きな問題は出てないが、俺の目を誤魔化せると思うな」


 睨むような、呆れたようなカイの視線。シュウはその中に、不安と心配の色が過ぎるのを見た。シュウが何も言えないでいる間に、カイは言葉を続ける。


「おまえは……また何か、一人で抱え込んでいるんじゃないのか? 周りを巻き込まないようにとか、馬鹿なことを考えてないか?」


 シュウはカイの真っ直ぐな視線を受け止めてしまった。カイの真っ直ぐな心配。シュウの様子を心配して、ずっと見ていてくれたのかと思うと、妙に浮き立つような気持ちになる。そんな自分を、シュウは自覚した。


「いや、そういうんじゃないよ。おまえが心配してるようなことじゃ、ないから」


 シュウは慌てて、否定の言葉を紡ぐ。たった今しがた自覚した心の内へも「そういうんじゃないから」と言葉をかけて、また閉じ込めようとする。


「じゃあ、なんなんだ、一体。何かあるんだろう」


 そんなシュウの心の内を見透かすような視線で、カイはシュウを見た。それを綺麗な瞳だと思ってしまったことに気付いて、シュウはもう無理だと思う。


「いや……その、こないだの……人工呼吸」

「は?」


 シュウの言葉に、カイはぽかんと口を開けた。


「だから、人工呼吸、しただろ」


 カイは気まずげに、少しだけ視線を逸らした。けれどすぐにまた、シュウを見る。


「したな。……で?」

「おまえはなんとも思ってないかもしれないけど……俺は」

「ただの応急処置だろ」


 カイの言葉は、シュウの言葉を遮って放たれた。シュウはちらりとカイの表情を伺う。カイは視線を伏せて──造り物めいた顔からは、何を考えているのかはわからなかった。


「わかってる。でも、俺は……初めてで……ファースト・キスだったんだよ」

「治療行為をキスに含めるな」

「そうは言うけどな!? それでも初めては初めてだろ!? 初めてがあれとか、ないだろ!? もっと、こう」


 カイが足を止めて、シュウの胸倉を掴む。引き寄せられてシュウは、カイの整った顔を間近に見た。

 鋭く睨み付ける視線。カイがいつも本気で闘うときのような。いつもは飛竜ワイバーンに騎乗して、絶対に負けないという気持ちで交わし合う、視線。

 それが今はこんなに近い。あまりの近さに、その瞳の奥にある熱まで、シュウは勝手に受け取ってしまう。


「それがどうした? 俺だって初めてだよ!」


 その勢いのまま、カイはシュウに噛み付いた。まさに、噛み付いたとでも言うべき勢いだった。

 お互いの、呼吸と鼓動が混ざり合うほどに近い。何より、唇の薄い皮膚が、お互いの熱を伝え合う。




 シュウはただ呆然と、カイの呼吸を受け入れる。

 夜闇の中、世界にはシュウとカイの二人きりしかいないような、静寂。




 そして、乱暴に、カイはシュウを突き放す。

 シュウはよろけて、地面に尻餅をついた。地面に手を付いたまま、カイを見上げる。

 カイはいつものように、尊大に顎を上げた。憂いの月の光が影をつくるせいで、シュウからはカイの表情は見えない。


「俺はあれをキスだとは思ってない。だからこれが初めてだな、お互いに」


 そう言い放って、カイはさっさと踵を返して立ち去ってしまった。


 残されたシュウはひとり、立ち上がることもできないまま、溜息をついた。

 じっとりとした冷気が地面から伝わってくる。だというのに、与えられた熱が体の中に入り込んで、吐く息が熱い。




 シュウは結局、朝まで眠れなかった。あの綺麗な顔をした、とびきり優秀なライバルのせいで。

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「初めて」の行方(架空ラノベ『飛竜学園の旗騎士』二次創作) くれは @kurehaa

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