4 ラストコール(2)

 夕刻から位置を変えた月が、暗い空に光の波紋を描いていた。空がもし大河ならば、月は川面に浮かべられた灯籠だ。

 扉の前に立って、手の中の十字架を見つめる。金属特有の冷たさに、アキの肌を思う。ナルオミは、ノックもせずに扉を開けた。

 執務室の扉を開けると、正面に厚みのある机が据えられている。背後の窓からは白い月明かりが舞い込み、大げさな背もたれの椅子を真っ黒に塗り潰した。

「――では、頼みます」

 そう言ったあと、受話器を置く音がした。ナルオミは後ろ手に扉を閉めて、黒く影になった椅子を見つめた。ぼんやりと、アキには真昼の光より月明かりが似合うように思った。

「待ってたよ、ナルオミ」

 アキの涼やかな声が、体に染み入る。ナルオミは机のそばまで歩み寄り、持っていたネックレスをそっと置いた。

「お呼びで」

 机を挟んで向かい合う。近づいてみると、椅子に包まれるようにして座るアキの眼差しが、はっきりと見えた。月明かりによって色濃くなった闇よりも、ずっと深い黒が脈打っていた。

「ひとつ、答えてほしいことがある」

「何でしょう」

「カイトを殺したのはおまえか」

 特に張りつめる様子もなく、アキは淡々と問うた。ナルオミは逃げ場所を探して鼻で笑った。

「まさか。あの時のおれの混乱を知ってるくせに」

「だから訊いている」

 アキは戻ってきたネックレスを首にかけ、椅子から立った。窓際に寄って、月明かりに染まる。

 カイトが死んだあの日も、月が眩しい夜だった。狂ったように明るい月の下で徐々に壊れていくカイトを、ナルオミはずっと見ているだけだった。

「正直、わかりません」

 カイトは死を怖れ、死に迷い、それでも死に惹かれていた。ナルオミは、爛れて崩れていくカイトを引きとめなかった。やがて引き金が引かれる瞬間も、芝居の観客のように外側から眺めるだけだった。

 途絶えていくカイトの灯火を少し寂しく思った。だが助けようとは思わなかった。なぜならそうなることを、ナルオミの死んだ母が、否、カイトに捨てられた女が泣きながら望んだからだ。

『許さないわ、結婚しようって言ったのに。あんな男、死んでしまえばいいのよ!』

 ナルオミの脳裏に夏の死がよみがえった。

 うだるように暑い夏の午後、腐った魚のような臭いと、生々しい命のぬめり。うるさいほどの蝉の鳴き声と、カイトの清々しいまでに取り繕った悔恨。

『すまないことをした。許してくれ、ナルオミ』

 差し伸べられた大きな手。

『おいで、ナルオミ。彼女のためにできることをさせてくれ』

 そして、嘘。

『まったく面倒な女だったが、体だけはよかったよ。ああ、あと使える息子を残してくれて、感謝している』

 耳の奥底には、まだカイトの笑い声が響いている。怒りも悲しみも、すっかり感じなくなってしまった。だがナルオミの中から、その笑い声が消えることはない。

 アキは視線だけをナルオミへ向けた。

「おまえはカイトを憎んでいたはずだ。違うか」

「どうでしょう。もう、忘れました」

 包み隠すところのないナルオミの言葉に、アキは微笑んだ。

「ああ……、そうか。うん、わからないでも、ないよ」

 月明かりの微笑みは冷たく、金属よりもずっと冷たく、寒い日に思い切り息を吸った胸のように、しびれた。

「ねえ、ナルオミ。ぼくがどうして総統になったか、わかる?」

「いいえ」

「ここを、先代が守り続けたこの組織を潰すためだよ」

 底なしの黒い目を細めて、アキは歌うように囁いた。ナルオミは机を回り込んで、アキのそばへ寄り添った。

「そのために、男の姿を?」

「うん。じゃないと、総統にはなれないだろう」

「そこまでして、なぜ」

「たぶん、憎かったから」

 すぐそばで見下ろす笑顔は弱々しく、憎しみを語るには優しすぎた。ナルオミは逡巡の指先でアキの髪を撫でた。アキは眉を寄せて、顔を逸らした。

「憎かった。すごくすごく。本当はぼくが殺したいくらい憎かったんだ。だけどあいつはあっけなく死んで、ぼくにはここしかなくなった」

 憎しみも悲しみも寂しさも、どれも溶けあって、絡まって、境目が見えない。感情がいくつも折り重なって、アキは顔を歪めるしかできなかった。

 髪を撫でるナルオミの手に、アキの白く細い指が触れた。

「ずっと、あいつの大切なものを壊す日を夢見てきたのに、そのためだけに何もかも擲って、ここに、この憎しみに留まり続けたのに、やっとこの時がきたのに……」

 アキはナルオミの手を取って、自らの冷たい頬に寄せる。ナルオミはアキにされるまま、アキの頬を親指で撫でた。肌のこすれる音が内側の深いところまで伝わる。

 アキが一歩、ナルオミに近づいた。

「おまえがあっけなくぼくを解放してくれた」

 冷たい微笑みに、情の炎が灯る。アキはナルオミの十字架に触れた。

「卑屈で完璧なやり方だよ。おまえは体の隅々まで従順で、なのに眼差しだけがどこまでも高圧的で。おまえはぼくに仕えていたんじゃない。ぼくの片腕になることで、いつかぼくになる日を待っていたんだ。違うか」

「あなたがそう言うなら」

 それがナルオミの心中とは異なっても、アキがそう思うならそれがよかった。

「ナルオミ、ぼくをおまえの繰り返しの中に連れて行って」

 懇願とともに、アキはナルオミに抱きついた。寒さに震えるように、上着の中に腕を回す。一瞬、かたんと音がして、ナルオミはとっさにアキを突き放した。だがすでに、肩にあるはずの重みはなかった。

「本当はおまえに殺されたかった」

 あるはずの重みは、アキの手の中にあった。

「おれに、あなたを失えと」

 ナルオミは銃を持ったアキを見て、今さら銃の本当の持ち主に思い至った。あれは、ハセベの愛用していた銃だ。

 アキは銃をこめかみに押し当てて、目を細めた。

「ぼくはこの組織を潰す。機は熟した。あとはおまえ次第だ」

 ナルオミの頭に散らばっていた言葉や思考が、アキの眼差しをもってようやくひとつの絵になっていく。

 ハセベに向けられた疑惑も、ナルオミが重用されたのちに遠ざけられたのも、強引に補佐役という名誉をもぎ取ったのも、すべて壊すための準備だった。

 もとは完璧だったアキの計画を見抜いて、ナルオミは息をついた。

「こちらから仕掛けるわりには、あまりいい策とは言えませんね」

「ナルオミ、ぼくはおまえを――」

「わかっています。すべては言わないでください」

 ナルオミが総統殺しの裏切り者になるはずだったことなど、明らかだ。できればそれを貫いてほしかったと思う。そうすればアキの憎しみは昇華し、ナルオミもまた、この繰り返すばかりの運命に終止符を打つことができたのだ。だがそうしきれないアキの至らなさが、何よりナルオミを惹きつけた。

 至らない。だがそれが極みでもあった。

「この窮地を、おまえは切り抜けられるか」

「それがあなたの命令なら」

「だったら切り抜けてみせろ」

 その一言を、待っていた。

「かならず」

 いつしか月明かりは消えて、部屋は一瞬の深淵に落ちていた。

「越えさせない。おまえはずっとぼくを越えられない。ぼくは死んで、おまえの永遠の支配者になる。ナルオミ、ぼく以外の誰にも仕えるな。これは命令だ」

「はい」

 不思議と気持ちは落ち着いていた。カイトを失ったときにはなかった、確かにここに在るという安心感だ。

 ここに、白と黒が溶けあう。境界が滲んで、曖昧になって、それでも互いの色を忘れないで尊びあって。

 繋がっている。たとえ彼女の命が絶たれても、それは表面的な断絶に過ぎない。

 窓に白く光が浮き上がる。夜は沸点をこえて、次第に薄く霞んでいく。そして東の空から、今日という新しい白が黒い昨日に染み出していく。

 離れないで、途切れないで、繋がっていく。

 その狭間に、一発の銃声が響いた。

 小さな体が命の軸を失って、絨毯の上に倒れた。溢れだすのは舐めあった傷の欠片だ。肌はいつものように冷たく、アキの生死の境目がわからなくなる。清新な光が窓から部屋に差し込んで、アキが白の中に溶けていく。

「アキ」

 消えてしまう前に、ナルオミはアキの胸元に口づけをして、唇に触れた十字架を引き千切った。指先からこぼれた銃を拾い上げて、立ち上がる。ハセベは今夜、当直室にひとりでいるはずだ。

 結露でゆらめく窓に、空いっぱいの光が弾ける。

 また、白い朝がきた。



―おわり―


最後までありがとうございました。

ロンド時間軸とその後をサカキ視点で辿る「青のフラット」を引き続き明日から更新予定です。

もうしばらく「COLOR × MUSIC」シリーズにお付き合いいただけますと嬉しく思います。

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白と黒のロンド 望月あん @border-sky

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