最終話:伝説のギタリスト

 その夏の夜の不思議な事件は、俺の人生に、もちろん何の変化ももたらさなかった。ただ、人生という不条理な物語の途中に、一つの記憶を刻んだに過ぎない。


 しかしそれは、

 灼けて白っちゃけたアスファルトに記された黒い点のように、


 にも関わらず、

 すぐに真夏の陽射しに薄れ、消え去ることは無かった。


 それは決して無視することの出来ない強力な暗示として、俺の脳裏に長く、いや今も、影を落とし続けている。


 あの日の翌日も、雑居ビル前の自販機横で汗に溶けちまいそうになりながらタバコを吸っていた。そしてあのジイさんが、いつものように、スーパーの白いビニール袋をぶら下げて歩いて来た。左脚を引き摺りながら、右に身体を傾げながら、ゆっくりと。


 いつもと変わらない、背が低く、痩せこけて、如何にも貧乏そうな、街場の外れのボロアパートによくいる、リアルな年寄りの風情だ。


 何処を見てるんだかさっぱり分からねぇ乾いた双眸で虚空を睨みながら、無精髭に覆われた口元は百年も前から一度たりとも笑ったことなんかねぇとでも言いたげにトンガってへの字に曲がり、舟を漕ぐように小さな全身を大きく傾げながら、鉄製のボロボロに錆びた階段を上がって行く。


「はは、だ」


 気が付くと新人のギター小僧が横に立ってタバコに火を点けながらへらへらと笑っている。俺は眼だけを動かしてジロリとそいつの横っ面をみる。そいつはこちらは見ずに、笑いながら煙を吐き、雑居ビルの薄暗い階段に吸い込まれて行く。俺は陽炎の立ち昇る炎天下の街角に視線を戻す。


 びっこ引いた人生ほぼ終わりのジイさんと、エレキギターという取り合せが、きっと面白かったんだろう。伝説のギタリスト——、あの日からあのジイさんを、職場の連中はオモシロ可笑しくそう言い囃すようになったのだ。


 俺はその後、職を替え、結婚し、子供にも恵まれ、不惑を過ぎて今に至る。もちろん音楽で喰っていく、なんて考えることはなく、いくつかの職を転々としたが、仕事に追われ、家庭に手を焼き、少ない小遣いをぼやきながらも大過なくここまで歩いて来た。自己実現、なんて、ハッキリ言って、ヒマで身勝手な子供の夢だ。じゃないか?


 警察に、消防まで集まって来る程の騒動を起こし、自らの承認欲求を最も迷惑な形で周囲に叩き付けた、その張本人であるにも関わらず、あのジイさんの相貌には、罪悪感も、爽快感も、誇らしさも、照れ臭さももなく、


 ただいつも通り、


 ぼんやりと無表情で、何を考えているのか見当も付かない眼で、トンがった口元をへの字に曲げ、無心に脚を運んでいた。


 この歳になって、あの出来事を思い出す度に、俺はうだるような真夏の、真白に光る景色の中、その熱と光とに呆然と立ち尽くす、あの頃の自分を思い出す。


 そして道の向こう側、陽炎の立ち昇るアパートの階段で、その圧倒的な光芒と炎熱に耐えて、黙々と不自由な脚を運ぶ、あのジイさんの無愛想な横顔を、思い出し、そしてあの頃と同じように、


 ただ呆然としてしまうのだ。


 そうだ、


 あのジイさんも、逃げ出したいくらいのあの光と、生命の発する熱量とに、


 耐えていたんだ。









 ——「伝説のギタリスト」 了












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伝説のギタリスト 刈田狼藉 @kattarouzeki

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