第5話:爆音・・

 静かな朝だった。


 空は青く晴れ上がり、

 風も無くて、今日も暑くなりそうだった。


 朝の、

 まだ爽やかとも言える空気の中、

 コンビニのレジ袋に朝メシのパンをぶら下げて歩いていた。今日の勤務は早番だった。八時までに着替えて店に入る必要があった。


 休憩所まで歩いて来ると、向かいのアパートの前に、白黒ツートンのパンダのようなカラーリングのセダンが一台、路駐しているのが見えた。


 もちろんパトカーだ。

 回転灯は焚かれておらず、緊急性は、すでに過ぎ去っているようだった。


 警察官が二人いて、一人は通路に立って住人から事情を聴取していて、もう一人はパトカーの運転席で無線を使って何処かと連絡を取っている風だった。


 事件だろうか?

 あのジイさんの身に何かあったのだろうか? ひょっとして空き巣かも知れない。


 俺は顔を伏せ、取り付く島もない完全なる無関心を装い、雑居ビルの狭い階段に吸い込まれるように入っていった。仕事前だし、朝メシもまだだった。警察に話し掛けられて事情聴取とか職務質問とか、考えるだけでも面倒だった。


西風にしかぜさん、聞きました?」


 休憩所に入ると、昨日遅番だった筈の新人君ともう一人が、窓から警察の様子を見下ろしながら、そう話し掛けてきた。


「何だ、知ってるのか?」


 安っぽい食事用のテーブルにコンビニ袋を置き、粗大ゴミ置き場から勝手に拾ってきたようなソファに腰を沈めながら、俺はそう訊き返す。


「爆音、……だったらしいっス」


 レジ袋から缶コーヒーが転がり出てテーブルから落ちた。


「爆音、……?」


 缶コーヒーが床を叩く、重くて硬い音がした。しかし俺は拾うのを忘れ、そいつの眼を見た。


「聴いたのか?」

「いや、オレ達は二人とも聴いてないです、その時間、いなかったんで」


 閉店後、徹夜で近場を遊び歩いていたらという。で、朝メシ喰って遅番勤務の時間まで寝ようと戻ってきたら、パトカーが四台くらい来ていた、というのだ。明け方のことだ。回転灯が焚かれ、近所の人も集まっていて蜂の巣をつついたような騒ぎだったという。アパートの住人も含め、その場にはだいたい二十四、五人位いたらしい。


「何の音だったんだ?」


 そう訊いてから、刹那、あるイメージが脳裏に閃いた。予感、と言ってもいいかも知れない。ハッとする。


「メチャクチャな音だったらしいっス」


 耳鳴りがした。

 息が止まった。

 何かを待ち構えるように、全身が緊張した。冷たく静まり返った頭蓋の内側に、——


 


「近所中の人が飛び起きた、ってハナシです」


 暗い蛍光灯の下、クソ狭い和室の汚ねえ畳の上に裸足で突っ立ってる老いさらばえた男の頭頂部は、地肌も痛々しく無惨にハゲ上がり、出っ張った額が深く影を落とす落ち窪んだ双眸は、しかし左右に、てんで別々の方向を向いていて何処を見てるんだかさっぱり分からねえ。


「まるでシンナーで脳が溶けちまったキチガイが、——」


 左手に持っている、……長いもの、そう。そして右手で、その親指と人差し指で、……


「怒りに絶叫しているみたいな、——」


 そのピックを、男は振り下ろす。


だったそうです」


 年季の入ったその仏頂ヅラは、大音量の中、しかし微動だにしない。

 暗い眼のまま、虚空を睨み続けるだけだ。


「窓ガラスが割れるんじゃないかって言うくらいの、凄まじい音だったそうです」


 粗大ゴミ置き場から無断で持ってきたみたいな汚ったねぇズタボロのバカでかいアンプのボリュームは、音量も、高音域も、中音域も、低音域も、歪みも、すべて「全開」だ。


「食器が割れる音が何処からか、きっと振動で床に落ちたんだろうって、それくらいの音だったそうです、木造ボロアパート全体が揺れてたって」


 ジジイは弦に深くピックを挿し入れ、そこからその弦を押し切り、引き千切るような無理矢理なピッキングで、ギターを乱暴に掻き鳴らす。騒音以外の何物でもない。悪意以外の、何物でもあり得ない。


「パトカーよりも先にはしご車と、動力消防ポンプ車が来たそうです、そう、消防車ですね、最初、ガス爆発が疑われたらしいです、ギターだとは思わなかったって」


 明け方、といってもまだ真っ暗の午前三時、少しだけ冷んやりする湿り気を含んだ夜気を、非・現実的な音圧が震わせ、歪ませる。空間を、捻じ曲げる。


 耳を塞がなければ立っていられない、目を瞑らなければ息が出来ないほどの、爆音。


 にも関わらず全然怒り足りない、まだまだ呪い足りない男は、白眼を剥いて大声を上げながら、かかとでそのウスラでかいアンプを思いっ切り蹴っ飛ばす。


「凄まじい爆発音がして、その場にいた全員が耳を押さえたって言ってました、ドアノブに手を掛けようとした警察官が、ドカンッ、って内側から蹴っ飛ばされた感じで飛び出てくるドアで思いっ切り突き指したってハナシです」


 *******


 爆音は、それから一時間ほどの間、止むことは無かった。警察官がどんなに呼び掛けても、応えは無かった。


 しかし声が枯れ、ドアを叩く拳を傷めて、疲労に腕が上がらなくなった頃、空間が捻じ曲がる程の、その非現実的なギターノイズは不意に止み、


 呆気なく、


 余りに呆気なくその安っぽいドアが開いて、背の低い貧相な年寄りが出た来たという。


 何処を見ているんだか完全に不明の、

 別々の方向を向いた両眼で、

 何の気負いも力みも無く、

 ただポツンと、

 ごく単純な生き物として、

 ありのまま、

 ジジイのまま、

 片脚を引き摺ったまま、


 ただ、立っていたという。
































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