最終章 祝祭のあとで
「もうお別れだなんて、寂しいですね」とマレーネは荷物の確認をする恋人達を見守りながら言った。下宿舎の主としてではなく、一個人としての正直な言葉だった。「せめてもう少し長く一緒にいられたら、お互いのことをもっと知ることもできたのですが」
「そうですね。せっかくのご縁を深めることができないのは、とても残念です」セシルが言葉をそのままかたちにしたような顔を作る。
「私達としても、余裕があればしばらくお世話になるところだったのですが……」フィアッカが苦笑いを浮かべた。「エルグランの町並みも、もっとゆっくり見て回りたかったという思いはあります。楽しむための旅をしたのはこれが生まれて初めてのことで、本音を言えば長期滞在をして、山ほどの思い出を抱えて帰りたかったところです」
「――でも、お仕事がある」
「はい。私も彼も、それぞれの仕事においてまだまだ下っ端で――余裕をもって休むことは許されていないんです。今回の旅自体、少々無理をして計画したことでして」
――式典が無事に終了した翌朝。セシルとフィアッカは事前の予告通り、早々にマレーネの下宿舎を出立することになった。
彼らがエルグランに着いたのは前祭の最終日のことだ。その翌日が式典だったわけだから、彼らは僅か二泊しかこの町に留まらなかったことになる。
ルクレツィアからここまで五日かけてやって来たと、マレーネは彼らから聞いている。五日の旅をして、二日間だけ町を巡り、そしてまた五日かけて戻るのだ。
純粋にもったいないとマレーネは思ったが、仕事があるというのだから仕方がない。人はそれぞれの縛りの中で生きている。
「式典が良いものだったようで、エルグランの者としてはほっとしました。遠方からのお客様に後悔でもされてしまったら、どんな顔をしたらいいかわかりませんでしたから」
「法王猊下のお言葉が本当に素晴らしかった」とセシルはやや興奮気味に言った。「あれは名もなき民の生活から国家の運営に至るまですべての局面に通じる、然るべき在りようを説いたものです。励ましであり警告でもあります。――事前に様々な風説が聞かれた今回の式典ですが、私はある意味においては、式典がこの国で主催されたからこそあのお言葉が出てきたのではないかとも思っています。勝手な捉え方ですが……でもとにかく、来てよかったです」
「でも休んだぶんは、お互いしっかり働いて取り返さないとね」
フィアッカが冗談めかして言うと、セシルはそうだね――と応じてはにかんだ。
素敵な二人だ、とマレーネは思った。
深く知りもしない人間を偉そうに語れるほど、人を見る目に自信があるわけではないが――この二人はきっとうまくやっていける気がする。
日々の生活の中で互いを高め合い、ごく普通の毎日に彩りを添え、穏やかに歳をとっていける二人であるように思う。
マレーネは何故かそこに、自分が叶えることのできなかったものを託したくなった。
これはどういう気持ちだろう。自分と同じ、金髪に青い瞳を持った女性に、少なからず思い入れているのだろうか。
「では、そろそろ――」
セシルがそう言って、荷物を背負い直したとき。
「ねえ」ずっと黙っていたタルカスが、すっと恋人達の前に踏み出して――とても何気ない風に、本当に何の他意もないという風に、それを問うた。「いつ結婚するの?」
その唐突な質問に、二人は目を丸くする。当然の反応だろう。
「こら」とマレーネは言い、タルカスの両肩を軽く引っ張る。「そういうことはずけずけと口にするものじゃないの」
「え、何で?」
「何でって」
息子にも理解できる言葉でどう答えたらいいのか、すぐには思い浮かばず、マレーネは空白の時間を作ってしまう。
そのあいだに恋人達は互いの顔を見合い――そしてどちらからともなく、溶け合うように微笑みを交わした。
「……もうすぐだよ、たぶん」とフィアッカは言い、タルカスの頭に優しく手を置く。「そうしたら、いつかあなたのような子供を産みたいな。元気でしっかりした子供を」
タルカスはそこに込められた想いを正しく受け止めたのか否か、うん――と無邪気に笑ってそれに応えた。
うん、とフィアッカも返し、そしてゆっくりを手を離した。
「それでは、私達はそろそろ出発します」
「お元気で。いつか機会があったら、またこの町にいらして下さい。――いえ、逆もありますね。いつの日か、私とこの子がルクレツィアに出向く日が来るかもしれません。そのときは、ぜひあなたに案内をお願いしたいです、フィアッカさん」
「はい」と満面の笑みでフィアッカは言った。「そのときを楽しみにしています」
それでは、いつかまた。
――そうして二人は、扉の向こうへと消えていった。
「……慌ただしいお客さんでしたね」
背後の少し離れたところから声がした。マレーネは振り返らず、扉を見つめたまま応じる。
「まあ、忙しい人は忙しいんだよ。あの人達はとても敬虔な信徒なんだろうね……きっとどうしても式典に参加したかったんだ」
背後の人物――レスターは、小さな足音を立ててマレーネのすぐ後ろまでやって来た。
「僕も式典を見ましたけど、とにかく人がぎっしりでした。これからの僕の人生で、あれほど人がぎゅうぎゅう詰めになっているところを見る機会は、もう二度とないんじゃないかなあ」
「若い者が、人生でもう二度とない、とか軽々しく言うもんじゃないよ。開いてる扉まで閉まっちまうよ」
「マレーネさんだってまだまだ若いじゃないですか。そこはまあ、お互いに気をつけていきましょうよ」
「……まあ、若いと言われて悪い気はしないけどね」
マレーネはそう言いながら考える。
罪を知らなかった頃の自分には、もう戻ることはできない。そして側には息子がいて、この子を一人前に育てる義務がある。
そういった意味では、昔とまったく同じ若さを持っているわけではない。時は確実に刻まれてきた。
……でも確かに、私にもまだこれから長い時間が――何か大きな不幸が訪れなければだが――用意されている。
それはたぶん、私次第で広くも狭くもなるもので――そう、私も人のことばかり言ってはいられないのだ。
「……そうだね、お互いに気をつけようか」独り言のようにマレーネは言った。
「そうですよ」
「それで」マレーネはようやく振り返ってレスターの顔を見る。「あんたは何か、収穫はあったのかい? 前祭、式典、いろんな人がいたし、いろんなことがあったんだろう?」
「ええ。僕は人間というものの奥深さを舐めていました。日頃から知識を詰め込んで、想像力もきちんと養っているつもりでいたんですが、足りていませんでしたね。でもだからこそ、収穫は大きかったと言えます」
「何か書けそう?」
「次こそ傑作をものにしますよ」とレスターは珍しく鼻息を荒くして言った。「そして認めて貰うんです。そろそろ僕の番が回ってくる頃だ――そんな気がしています」
「頑張りなよ。私もあんたの番を待ってるんだ」
頑張ります、とレスターは返事をする。
そのときタルカスと目が合い、何やら意思の疎通が図られたようで、二人はお互いの握り拳をこつんと重ね合わせた。
マレーネはそれを見て小さく吹き出す。「あんた達は本当、気が合うね」
「不思議ですね。人間としては水と油なところがあるんですけど」
「男同士だから!」
「そうかい」
マレーネは高さのまるで違う二人の肩にぽんと手を置いた。さあ、今日も一日、張り切って生きていこうか。
◆
式典の前の盛り上がりには、前祭という名前がつけられている。しかし式典の後については特に何の呼び名もない。
形式上、それは特別な時間ではないことになっている。だが式典が終わったその瞬間に町の様子が突然いつも通りになるはずはなく、数日のあいだ、少なくない数の来訪者が町に留まって観光やら何やらを続けることは当然予想されていた。そして少しずつそれが減っていくのだ。
中にはそのままこの町で生活を始める者もいるだろう。人の数だけ事情というものがある。
いわば後祭とでも言うべきものが実質的には残されており――ウルリッドは式典が終わってからも、すぐには気を抜けない状況にあった。
例えば前祭のためだけに立てた露店を、どの日を見計らって畳むのか。
それは事前に細かいところまで決められるものではなく、式典後の町の様子を見ながら、そして同時に露店を開いている者達の立場も鑑みながら、慎重に判断していくべきものだった。
多くの商売人達と密に連絡を取り合いながら、彼は宴を適切に眠らせ、無理なく日常に戻るべく働き続けていた。
さすがに疲労は隠せなかったが、使命感が彼を動かしていた。もう若くはないが、一時的になら無茶も利く。
――商工会議所にて会合を終え、一息ついていたところへ、気の置けない客人が訪れた。
「よっ、無事か?」
客人――ハキルは、見せつけるように大きくあくびをしながらつかつかと近づいてくると、勝手知ったる風に椅子の一つを引いて、どさりと腰かけた。
「いちおうな」とウルリッドは答える。「年寄りが無理している姿を放っておけない、なんてのは余計なお世話だぞ。俺はまだこれくらいで倒れるほど老いぼれちゃいない」
「それはわかってるが、まあ、どう言ったものかね……ちょっと顔を見に来ただけさ」
「そっちもまだ気が抜けないだろう。それなりに事件は起きたようだし、まだこれからも多少なり追加されるはずだ」
「それなりに」とハキルは復唱する。「何しろいままで見たこともない騒ぎだったからな。どのくらいに抑えてみせれば合格点だったのかは誰にもわからん。個人的には殺人事件だけはなしで済ませたかったんだが、残念ながらそうもいかなかった」
「お前達はよくやったよ。いや、まだ終わっちゃいないが、とりあえずの言い方としてな」
「とにかく眠かった。というかまだ眠い。昨日は半日寝させて貰ったが、とてもじゃないが取り戻せてない」
式典が終わって、今日が二日めである。昨日というのはすなわち、式典の翌日のことだ。
「式典に先駆けて、衛士の数は増やしてあったんだろう? それでも足りなかったのは、単純に上の計算違いということなのかな」
「どうだかな。俺達を昼も夜もなく働かせるのが計算のうちだったのかもしれんし、一介の衛士には何とも言えん。……いずれにせよ、皇太子殿下にはこの辺り、お伝えしておきたいところではある」
「あの方の耳に入れば、問題とすべき点も明らかになるし、改善もされるだろう。……まあ、次にいつこれだけの騒ぎになるのかはわからんがな」
「俺の一生のうちにはまたあるかもしれん。あんたの一生のうちには、どうだろうなあ」
他の者が聞いたら喧嘩を売っているとも捉えかねない、ハキルの軽口。ウルリッドはそれを受けて愉快そうに口の端を歪める。
「そういえば、お前は何やらおかしなことがあったらしいな。倒れたとか何とか」
「……ああ、ちょっとな。実を言うと、俺自身もよくわかっていないんだが」
ウルリッドはやや怪訝な顔を作ってみせる。「わかっていない、とは?」
「皇城に運び込まれて、そこで目が覚めた。で、いちおうの説明を受けたんだがな、最後の記憶とまったく噛み合わんのよ。……だがあえて訊かなかった。軍人の勘だが、たぶん何か、触れちゃいけないことが関わってるんだ。それはいまの俺の領分じゃないんだろう」
ウルリッドはハキルの表情を窺う。どこか悔しそうにも映った。
それを思いやる意味で、ウルリッドは話題を変える。
「その最後の記憶とやらは大丈夫なのか? 何かをやっていて、それが中断されたということだろう?」
「ああ……そっちはそっちで、ちょっとしたことが起きてたんだけどな」
「どんなことだ?」
「……まあ、もてる男はつらいなってことだ」
「……ほう」ウルリッドはだいたいのところを読み取り――目を細めそうになるのを抑えながら言った。「それで、もてる男としては、そっちはどう決着をつけるんだ?」
「落ち着いたら――俺のほうから気持ちを伝えるよ」
「そうか。……それがいい」
次の世代、とウルリッドは思った。
幼子はいつの間にか育っていき、やがて自分を越えていく。この命が尽きて骨となったあとの時間を、彼らは過ごすことになる。
人間の役割は、前の世代から受け取ったものを守り、育て、それを次の世代に明け渡すことだ。彼らが未来に持っていくものを築き上げ、託すのだ。どのような生き方をしている者も、結局はそこに行き着くのではないかとウルリッドは考える。
楽しみじゃないか。こうして未来を繋いでいって、あと一〇〇〇年後に果たして我らの遠い子孫はどのように生きているのか。
ウルリッドは遠い遠い、ひとかけらの想像もつかないほど遠い未来の子供達を思いながら、ゆっくりと目を閉じ、束の間の休息を味わうのだった。
◆
器具の先で肉片をつまみ、それをバルジの口元に慎重に運んでいくリューリィの姿を、テオーリアは面白そうに見つめていた。
リューリィに餌やりを任せてみるのはこれが初めてではないのだが、慣れない手つきは相変わらずだ。
怖いわけではないそうだが――メイドの中には真剣にバルジを怖がる者もいる――人ではない生き物に対して、駆除するとか食うといった以外の向き合い方をすることに緊張を覚えるらしい。
高価なガラス細工を持って歩くような気持ちです、とリューリィはかつて表現した。わからないでもない、とテオーリアは思う。
バルジは普段と異なる給餌者にほんの少しだけ不思議そうな仕草を見せたが、差し出されたそれが勝手知ったるご馳走であることを把握すると、勢い良く引き寄せるようにそれをついばみ、瞬く間に飲み込んでみせた。
そして目で次を要求する。
リューリィは慌ただしくそれに応じる。
「美味しいと感じているのでしょうか?」同じ作業を繰り返しながらリューリィは言った。「味わっている時間がまるでないように見えるのですが……」
「わかるみたいだよ。あまり同じものが続くと、飽きたような素振りを見せる。だからいろいろなものを与えている。ねずみ、うずら、ひよこ、こおろぎ――まあ、この辺りだな。以前言ったことがあると思うが」
「全部このように、係の方が刻んで餌のかたちにされるのですか?」
「ひよこなどは死骸を丸ごと与えることもあるな。一人できちんと食べ尽くす」
テオーリアが当たり前のように言うと、リューリィは少し渋い顔を作った。
「ん? 余が何かおかしなことを言ったか?」
「いえ――その、お気を悪くされたら申し訳ないのですが、殿下がその手で為され、お目にすることとしては、その、些か血生臭いと申しますか……」
その発言と、言いにくそうにしているリューリィの様子がおかしくて、テオーリアは思わず声を立てて笑ってしまった。
「なるほど、そういう見方か。そなたには下々の者が担うべき汚れ仕事のように映るのだな」
「お答えしにくいのですが……少しだけ、そのように感じてしまいます」
「一理あると思う」とテオーリアは認める。「ただ、それは悪いものではない。少々大袈裟な話になるがな――余はバルジのお陰で、生きとし生けるものの定めとしての命のやり取りを、多少なりとも直に見つめる機会を得たのだと考えている。余は戦争も知らぬし、日々の糧を得る苦労も知らぬ。皇城で学べるのは理屈だけだ。その上でバルジもいなかったら、余は大切なものが一つ、まったく見えない人間になっていたのではないか……そんな気がするのだ」
「殿下は書物から本質に辿り着くことのできるお方です」
「その言葉はありがたく受け取っておくし、繰り返すようだが、いまのは少々大袈裟な話だ。まあとにかく、バルジの食事については慣れきっているのだよ」
リューリィは納得したのか否か、黙々と餌をやり続ける。
とにかく与えた端からどんどん飲み込んでいくので、それなりの量があった肉片は、あっという間に空になってしまった。
「ご苦労だったな。たまには他の誰かがやっているのをただ見ているのも良いものだ」
「……学ばせて戴きました」
「それこそ大袈裟だぞ」テオーリアは口元に手を当ててくすくすと笑い、からかうようにリューリィの瞳を見つめた。「それより、そなた自身の食事はどうだったのだ? 余の目には、終始固くなっていたように見えたが」
「それは――当然のことです」リューリィは訴えかけるように言った。「私のような者が、皇家の方々の食事に招かれるということがどういうことか、おわかりにならない殿下ではないでしょう」
「そうは言ってもな、そなたに報いたいという想いが全員にあったのだよ」
――先ほどまで、テオーリアとリューリィは夕食を共にしていた。
そこには皇帝エルハディオ七世と、皇太子エルクラークが同席しており、すなわちそれは、皇家の夕食の席にリューリィを招くというかたちのものであった。
発案者はエルクラークである。彼は今回の白蛇撃退の報にひどく興奮したようで、是非ともそれを称えたいし、話を聞きたいと言い出した。
それで夕食に招く旨を彼は皇帝に進言したわけなのだが、テオーリアにとっては少々意外なことに、皇帝は――父は、いとも簡単にそれを了承した。
そうして即興的に、リューリィは皇家の一夜の賓客となったのだ。
皇帝はあまり口を利こうとはしなかったが――これは普段からだ――リューリィに対して確かに一言、大義であった、そなたが我が国の威光を支えた、とねぎらいの言葉をかけた。
そのときのリューリィの固さたるや。
声を立てて笑いそうになるのを、テオーリアは懸命に抑えなくてはならなかった。
一方のエルクラークは事細かに戦いの様相を知りたがった。
相手がどんな力を持っていたのか、どのような策略に対してどのような対策を講じたのか、そもそも魔人として、力を持っていることをどう感じているのか――。
その矢継ぎ早の問の中には、式典前夜にリューリィが受けた恥辱に触れなければきちんとは答えられないものもあり、そのときにはテオーリアが助け舟を出した。
リューリィが返答に窮することを案じたというよりはむしろ、彼女があらゆることをこの席で詳細に語り出しかねないことを案じての行動だった。
「弟は喜んでいたよ。そなたとまともに会話を交わしたこともほとんどなかったしな」
「緊張しました。それに――」
「それに?」
「メイドの方々がおられましたよね。あの方々は、あの場で私達が話した極秘事項を聞いていたわけですが、それは無いことになっているわけで――そのあたりの作法と言いますか、決まりごとに、戸惑うところがありました」
「なるほどな。しかしその辺りは難しく考えなくていい。彼女らはそのための教育を受けている。万が一にも、職務上耳にしたことを漏らすことはあるまい」
「はい……」
「とにかく、皇家が諸手を挙げてそなたに感謝しているのだということを受け取って貰えたなら嬉しい」
「この身に余る光栄です。今後もすべてを投げ打ってお仕えする覚悟でおります」
「くれぐれも、軽々しく文字通りに投げ打ったりはしないでくれよ。――さて」
テオーリアは立ち上がり、大きく伸びをした。
バルジがそれに反応し、ばさりと一つ羽ばたいてから、まるで人のそれのように首をかしげる。
「余はこれから自室で書きものがある。もしよければ、このまま続けて話し相手になってくれないか?」
リューリィは少し考えてから答えた。「……せっかくのお言葉ですが、殿下のお部屋にお招き戴くことは、肝心の日まで大切にとっておきたいと思います」
「肝心の日? ……ああ」
誕生日の夜。
「そうだな。その日を楽しみにするとしよう。では、部屋の前まではついてきてくれ。それはれっきとした護衛の任務だ。やってくれるな?」
「喜んで」
そして二人はバルジの部屋を出て、夜の皇城の廊下を歩いていく。暖かい夜だった。
そうこうしているうちに、この暖かさは暑さへと移り変わっていく。いまくらいがもっとも過ごしやすいかもしれない。
「……白蛇の処遇は」とリューリィが歩きながら言った。「やはり洗脳、でしょうか」
「そうなる可能性が高いな。取り引き次第では、朱月を介して然るべき契約をするということにもなるが。……気になるか?」
「彼女に同情をするつもりはありませんし、彼女を抱えることについての不安もありません。ただ――うまく言い表せない感情があるのは確かです。自分以外の魔人と直接関わったのは初めてのことで、それゆえに心が乱れているのかもしれません」
「あの者にもあの者なりの、これまでの人生と言い分があろう。余はただの人間で、そなた達の特別な立場を心底理解することはできないのだろうが――いずれにせよ、我が国はあの者に対し、もうこれまでと同じ自由は与えられない」
「仕方のないことだと思います」
うむ――とテオーリアは返す。それでその会話は終わりになった。
そして二人は、テオーリアの部屋の前に辿り着く。
「そなたは今夜も下宿舎に戻るのか?」と振り返りざまテオーリアは言った。
「はい。いまはあの場所が、私の暮らす場所ですから」
「夜道には重々気をつけよ、と他の者には言うところだが、そなたに言っても冗談にしか聞こえぬな」
「この身を案じて戴けることはこの上ない喜びです。――それでは、私はこれにて失礼致します。おやすみなさいま――」
「待った」
テオーリアは唐突に言った。頭を下げていたリューリィは、そのままの姿勢で意外そうに主の顔を見上げる。
「誕生日のお楽しみ、もし良ければ、一つだけ先取りさせてはくれまいか」
「と、おっしゃいますと」
「――出会ったばかりの頃の、夜の別れの挨拶。久しぶりに聞きたい」
その意味するところをリューリィは察する。
そして困ったように、照れたように小さく苦笑いを浮かべ、うっすらと顔を赤くする。
やがて意を決したという風に軽く深呼吸をし――背筋をまっすぐに伸ばして、リューリィはささやかに、しかしはっきりと言った。
「――おやすみ、テオーリア」
「ああ、おやすみ、リューリィ」
リューリィは深い微笑みを残し、一礼して背を向け、去っていく。
その姿が見えなくなるのを確認してから、テオーリアは扉を開け、自室へと帰還する。
窓を開けると、やや強めの風が部屋に流れ込んできた。
テオーリアはいったん目を閉じてそれを全身に浴びる。
それからそっと目を開き、眼前に広がる夜の城下を見下ろした。町はまだ眠るには早く、人々の息遣いがいまにも聞こえてくる気がした。
――うん。
テオーリアは誰にともなく頷き、我が身を省みる。
どうやら無事に十七回目の誕生日を迎えることができそうだ。
たくさんの者に感謝をしなくてはならないし、たくさんの者に誓わなければならない。いままでのことと、これからのことを。
どうか母上、天から見守っていて下さい。
テオーリアは何があってもくじけず、為すべきことを為していきます。心から信じ、頼ることのできる者達と共に。
テオーリアは机に向かう。
書くべき手紙はそれなりに長く、それなりに重要な意味を持っているが――大丈夫、時間はちゃんとある。
私はただ、己を出し尽くせばそれで良いのだ。
そして彼女はペンを取り、他の無数の人々と同じように、次の一〇〇〇年を紡ぐための小さな一歩を踏み出したのだった。【完】
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