第2話

 いま、思えば。


 あの怪我はひたいを切り、血がたらりと滴った程度だったと思う。でもあの日の明子の目には、ともくんの顔がなくなり、血が噴き出しているように映った。


 ともくんは泣いてなかった。口をきゅっと結び、ゆっくりとひたいに手を伸ばす。「いだい」。じわり、と涙がせりあがる。血が鼻筋から口へとつたう。


 そのとき、明子は……、明子は逃げだした。


 なぐさめの言葉もかけず、人を呼びに行くこともしなかった。親に何があったか話さないまま、何事もなかったかのように夕方のアニメを観て、いつもより早い時間に眠たくなったと早々に布団にくるまった。


 翌日に、どうしてともくんと遊ばないのかと問われたとき、明子は、ともくんとはケンカして、きらいになった、と説明した。そうして、ともくんが県外の家に帰ってしまうまで、彼とは一度も会わず、明子はひとりで遊び続けた。


 やがて、山の鳴き声がウグイスからセミにかわって。


 おかあさんの里帰りでともくんも戻ってきた。何度か、いっしょに遊ぼうと明子を誘いにきたが、明子は、「男の子とは遊ばない」と拒絶してともくんを遠ざけた。翌年も翌々年も。そして、ずっと顔をあわせることなく月日は過ぎていった。


 あれから進学をきっかけに住む場所もかわったというのに、記憶は思い出すたび生々しく、あのときの血と、「いだい」の言葉を、ありありと蘇らせる。怪我をした彼を見捨てて、自分だけが逃げたあの選択。思い出すたびに、明子をさいなむ。


 この罪悪感は、「ごめんなさい」といわずにいたことに起因するのだ。逃げたことは仕方ないと擁護する自分が明子のなかにはいる。子供だったし、血に驚いたのだ、ああしても許されるじゃないかと。けれど、その後にあやまらなかったのはどうしてなのか。チャンスは何度もあったというのに。


 ともくんに逃げたと責められるのが怖かったのか。でもともくんは、明子が自分を放って逃げたとは誰にもいっていない。彼は明子と喧嘩したあと、ひとりで転んだのだと説明している。そんな大人の会話を、明子は耳にしていた。


『びっくりさせてごめんね』


 そうだ。彼から手紙までもらっている。クレヨンで書いた文字。帰宅の前に、ともくんは「アキコちゃんにあげて」と母に手紙を渡している。


 それでも明子はともくんをさけた。会わずにいることで事実を消そうとした。さらには記憶を追いやることで、ともくんそのものまでも消そうと。


 だが記憶はふいに蘇り、あの日がまだ過去になりきっていないことを知らせる。それは苦さと血の味がする。聞き覚えのあるあの曲、半音下がるメロディが、過去へ過去へと明子を引きずり落としていく……。


「――ますか?」


「え?」


 明子は空になったカップを強く握ったままでいた。あの店員が、もう一度いう。


「おかわりいりますか? サービスしますよ」


「あ、いや」


 明子は店員から視線をカップに戻したのだが、鼓動の高ぶりに、再び店員の顔を見上げた。野暮ったいと心内でけなした前髪が横になでつけてある。そうしたことで、ひたいと、ひたいにあるそれがはっきりと見えていた。明子の固まった視線に、店員は笑った。


「ああ。この傷、目立ちます? 子供の頃、怪我したんですよね」


 明子が黙ったままでいると、笑みを浮かべていた店員は、ふいにあせりだした。


「いや、根に持ってるんじゃないよ。その顔は思い出したみたいだけど」

「ともくん?」


 やっと出た明子の声は、かすれていた。


「そうそう」

「な、んで?」

「ああ、なんでわかったかって? だってアキコちゃん顔かわってないからさ」


 はは、と笑う。


「なんか嫌な感じで会えなくなったでしょ? ずっと気になっててさ。でも、『アキコちゃん、どうしてます』なんて、度々おばさんたちに聞くのもストーカーみたいだしさあ。あのときは怖がらせてごめんね。ばんそうこう貼って終わったんだけど、跡は残っちゃって。まあ、いいんだけど。ああ、そうそう。おれ、いっしょに遊んでた時、偉そうだったよな。アコ姫、ぜんぜん魔法使えてなかったじゃん」


「その、あの」

「ああ、ごめん。べらべらと失礼しました」

「そ、そうじゃなくて」


 明子は、すぅ、と息を吸った。ともくんと目を合わせる勇気はなかったけれど。


「ごめん。あの怪我、跡が残ったんだね。イケメン店員のおでこに傷をつけてしまって。大変申し訳ない!」


「イケメン店員?」


「あと」明子はぎゅっと目を閉じて吐き出した。


「逃げて、ごめん。山にひとりおいていって、本当にごめんなさい。そのあとも無視してごめんなさい。ずるくってごめんなさい!」


 からん、と入店のベルが鳴った。ともくんは、口早にいった。


「うん、ぜんぜんいいよ。ちょっと接客してくるね」

「へ」


 決死の覚悟だった明子に比べて、ともくんの反応は軽かった。軽すぎて、明子の懺悔の念が行き場をなくす。明子の罪を突きつけるために、わざわざ、ひたいを出してきたのかと思いきや、そんな気はなかったようすだ。ただ思い出すかどうか、明子を試したのだろうか。


 明子は赤面してテーブルの一点を見つめた。自分はちゃんとあやまれたのだろうか? あやまりさえすればすっきりすると思い込んでいた後悔が、おろおろと迷子になってしまった。なんだか全部が冗談になったように感じる。


「どうぞ」


 かしこまったままぼう然としていると、ともくんが、ホイップがのったカフェモカを置いた。


「頼んでない、ですけど?」

「気にせず、どうぞ」


 立ち去らずに飲むのも待っているようなので、明子は仕方なく、モカをひとくち飲む。含んだ優しい味に、思わず笑みがこぼれた。


「よくあの苦いの全部飲み干したね。苦行のような顔してたけど」


「……見てたんだ」


「うん。あの子、昔遊んだ子に似てるな、って思ってたから。ごめん、じろじろと観察してました。本当、アキコちゃんって顔かわってないよね。そのまんま」


「あー……、雨は?」


 明子が話題をかえると、ともくんは、「ああ」と笑顔で、「もうあがったよ。それ飲んだら、すぐ帰る?」と、明子を見つめて小首をかしげた。


 その顔に、かつての勇者のおもかげはあまりない。なんというか、かなり遊びなれている気配がする。本当にあのともくんだろうか? 自分とキスした? でも、ひたいの傷が、あの日を示している。


「か、帰る。ここ、場違い感がすごいから」

「そうかな」

「高いし。これ……サービスだよね?」


 明子が、この甘いコーヒーの値段はいかほどかとびびりながら問うと、「うん、最初のコーヒー代だけでいいよ」と、ともくんは朗らかに答える。


「大丈夫だよ、アコ姫にぼったくるわけないじゃん」


 よく遊んだよねー、と目を細めたともくんに、さっとあの頃の記憶が重なり、ああ、ともくんだ、と明子の心はぱっと晴れていた――いつも思い出すたび、チクチクとさいなむばかりだった記憶が、突如、甘ったるい色をおびてゆく。


「あの、ありがとう、ごちそうになります」

「うん」

「昔のことは、本当にごめんね」

「おれが女の運の悪さに目覚めた瞬間だったよね」

「ほ、本当に」

「冗談だよ」


 からかうように笑うと、ともくんは仕事に戻っていった。


 明子は放心しそうになって、しゃきっとしようと頭を振る。すっかり彼のペースに放り投げられてしまった。ぐるぐるする。まったく根に持たれていないようすに、明子はどうしたらいいのかわからなくなってしまった。


 ともくんから、あのときは本当につらかった、ひどい目にあったと恨み節でも訴えられたほうが、明子としては安心できたように思う。こうなると、もはや猜疑心すら生まれる。油断させておいて、手ひどく復讐されるのではないか?


 だが、再会したともくんは底抜けに明るかった。テーブルの向こうで目が合えば、手すら振ってくる。客が少ないとはいえ、これでいいのかと心配になるほどだ。


 やがて明子は店を出ようと席を立った。と、すぐにともくんが気づいて近づいてくる。


「また来てよ」

「で、でも」

「ここ叔父さんの店なんだ」

「叔父さんの店?」


「うん。だから、だいたいいつも、おれいるよ。手伝いしてるから」

「でもこの前は」

「え?」

「いやいやいや、なんでもない」


 うっかりイケメン鑑賞に来たことがバレたら困ると、明子は慌ててくちをつぐむ。なんだか身体が熱かった。もう早く出てしまおう、と会計へと急ぐ。


 会計を済ませた明子に、「アコ姫は近所に住んでるの?」と、ともくんは聞いてきた。明子は、「さあ、まあ、どうかな」とはぐらかして彼の視線をさける。ともくんは出ていく明子についてきて、ドアを大きく開けてくれた。からん、とベルが鳴る。横を抜けようとした瞬間、彼が耳元でいった。


「次は苦い思いさせないからね」

「へっ」

「最初から砂糖入りの出すよ。ミルクも。甘いやつ」

「コ、コーヒーね」


 ともくんの顔は、きょとんとしていたのか、にやっとしていたのか。よく確認できないまま、明子は通りに出た。閉まるドアの向こうでは、後ろ髪を引くように店内にかかっているジャジーな曲が、どこか楽しげに誘いをかけていた。


 よくよく考えると。

 彼の名前を明子は覚えていない――ともくん、としか。


「ちょっとチャラい?」


 昔はかわいかったのに、と思う明子だが、その足取りは軽かった。

 雨はすっかりあがっていた。もうずっと前にやんでいたのだろう。


 街角の花壇では、鮮やかなジャーマンアイリスが並び、その奥では蕾をつけた紫陽花の濡れた葉がまぶしくつやめいている。季節は次々と変わっていく。自然とあのメロディを口ずさむ。踊るように軽やかに。くすっと笑ったあと、明子は思った。


 またあのカフェに行こう。次もひとりで。

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初夏色ブルーノート 竹神チエ @chokorabonbon

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