初夏色ブルーノート
竹神チエ
第1話
ついてない。若葉がまぶしい午後だったのに、緑雨にかわってしまった。
明子は走っていた。買ったばかりのパンプスがぱかぱかと脱げそうになる。すぐにあがると思った雨は、次第に激しさを増していた。ふと、あのカフェが目にとまる。しかし明子はそこを通りすぎ……ややあって踵を返した。明子はドアを押し開けると、からんとベルが鳴った。
入り口の外観からイメージするより、カフェの店内は広い。夜のような気配が充満していて、深いブラウンを基調とした内装に、ランプ型の照明が飴色に灯っている。濡れた髪をさわっていると、男性の店員が明子を奥の席まで案内してくれた。
「こちらの席にどうぞ」
明子は遠慮がちに席に腰かけた。このカフェの素敵な雰囲気に酔いしれたくはある。でも、三歳の頃から顔がかわっていないと笑われる明子だ。精神的にも三歳だというわけじゃないが、大学生のいまでも洒落たカフェよりファミレスの方が好きだった。
明子は、まるで面接でも受けているかのような面持ちで、渡されたメニューの一番上にあるコーヒーを迷わずに注文した。この店でいちばん安いのが、このコーヒーなのだ。
明子がこのカフェに来るのは二度目だった。
一度目は、同じサークルの友人に誘われて来ている。
この友人はイケメンに目がない子で、このカフェにイケメン店員がいると知るや、「見に行こうよっ」と鼻息荒く明子を誘ってきた。明子だって拒絶するほど興味がないわけもなく。冷かし気分で店内に踏み込んだのだが、あいにく、目当ての店員は休みというタイミングの悪さだった。
さらには洒落たカフェらしく、呪文のようなメニューが並び、そこに記された値段は、表示通貨が間違っているんじゃないかと疑うほど高かった。
なんとか出せそうな値段はメニューの一番上にあるコーヒーくらい。このコーヒーもきっとお試し価格いうやつで、安めに設定してあるのだろう。それでも、明子の生活レベルからすると痛い出費だった。イケメン店員がいようがいまいが、もう二度と来ちゃダメだ、と思ったものの、こうしてまた来店してしまった。
明子が注文したお試しコーヒーはすぐに運ばれてきた。さっきの店員が持ってきたのだが、およそこの人が噂のイケメン店員だろう。他に若い男性店員は見当たらない。背が高く、引き締まった身体つき、ひたいを覆う前髪が重くて野暮ったいにしても、総じてイケメン認定していい彼は、友人ならはしゃいで喜んだかもしれない。
でも明子の評価は厳しかった。友人には「見に行く価値はない」と報告しようと思う。この店員は見た目こそスマートでも、態度がよろしくなかった。店内に入ってすぐのときもそうだったが、いまも明子のことをじろじろと見てくる。
雨宿りに入ったカフェだ。明子の髪は濡れているし、服も湿っている。こんな日に限って、薄手のブラウスなものだから、視線を受けて良い心持ちにはならない。
デリカシーに欠ける視線に、明子はハンドバッグからタオルハンカチをとり出すと、せかせかと髪や服をぬぐった。威嚇もかねての仕草だったが、まだ店員はテーブルの横に突っ立っている。それでも、やっと不快さを示す視線に気がついたのか、彼は「……本日のおすすめスイーツは、さくらんぼのタルトですよ」としゃべった。
注文しろというのか。ホールで運ばれてくるのかと思うほど高いのに。
「いりません」
ぴしゃりと放たれたひと言に、不躾な店員もすごすごと退散する。明子はその背をにらみつけたあと、コーヒーに口をつけた。が、すぐにまた顔をしかめる。
当り前のようにブラックだ。シュガーやミルクが欲しければ、店員に頼まないといけないのは、前回で学習している。
インスタントコーヒーに八割以上が牛乳でも、喜んで飲む明子である。ノンシュガーのコーヒーのおいしさには目覚めていない。だが店内にはあの店員以外見当たらない。明子はちびちびと黒い汁をなめて消費することにした。値段を払う以上、飲まないという選択肢はない。
カフェでは入店時からゆったりとしたピアノ曲がかかっていたが、明子が苦労して半分ほど黒い汁を克服したところで曲調がかわった。ギターの音が混ざる弾んだ曲調だ。でもどこか悲哀のこもる音の下がり方をする。
聞いたことがある。どこでだっけ。
そうだ、あの頃、耳にした曲だ。たしか――と舌にのるコーヒーの苦味が刺激となり、もやがかった記憶がたぐりよせられていった。あの日々が鮮明になる。唾液と共にわきあがった感情に、明子は思わず戻しそうになった。
あのとき、明子は五歳だった。
その頃、明子は同じ年頃の男の子と愛を誓いあうほど仲良くなっていた。
「ともくんは、あたしのかれしだからね」
「うん、わかった」
「じゃあ、ちゅーしましょう」
「いいよ」
ちゅっ、の結果、まだキスのよさはわからないと、ふたりで「オエ」となって、きゃあきゃあと騒ぐ。
ともくんは、出産にあわせて帰郷した母親についてきた子で、たぶん、ふたりで遊んだ期間は二週間もなかっただろう。でも明子にとって幼少期となると思い出すのは、いつもこの日々の出来事だった。
そうして、この初恋の顛末に苦味と痛みがわいて、思い出すたび、明子はその記憶を押しやり、消そうとする。今日も、あの瞬間が鮮明に思い出される前に記憶を飲み下そうとした。
だが、容赦なく奏で続けられる曲の調べが、この日は彼女を逃さなかった。追いやろうとするたびに絡みつく、引きずっていくように下がる音。とろんとした調べ、懐かしい光景、蘇る音。ともくんのおかあさんは、この曲を好んで聴いていた。胎教にいいとかなんとかで……。
ともくんもこの曲がお気に入りの曲らしく、よく鼻歌を歌っていた。アニメソングでも童謡でもない曲をくちずさむその姿に、都会から来たという情報も重なって、明子の目にはともくんがとてもあか抜けたお洒落な男の子に映っていた。
家の近所には、ゆるやかな傾斜の山林があった。
手入れなどひとつもされてなかったが、さながらジャングルのような茂みは、明子たちの冒険心をくすぐった。古びた栗の木にテイカカズラが登り、星の花びらが降りそそいでいた。日陰にはシダの葉が広がって、斜面にはフキが群生している。
「ここ、おちたら、ひとくいワニがいるからね」
ともくんが指さしたのは、ヨモギやクローバーが茂る明るい場所だった。いまからその場が想像の川になるのだ。川にはフキの葉をちぎってきて踏み石にした。緑葉の川に点在するフキの葉を踏み、無事に向こう岸のウツギの木まで行けば、明子たちの冒険は成功だった。
ここ数日、明子は「アコ姫」だった。アコ姫は、いじわるな魔女に閉じ込められていた。そのアコ姫を救い出したのは「勇者トモ」だった。
ふたりはこれから力を合わせて、いじわるな魔女を退治しにいく。勇者トモは剣を持っている。アコ姫は魔法が使えた。でも魔法は勇者トモには不評だった。めちゃくちゃ強い魔法だから、剣が活躍できないのだ。だからアコ姫は、いまは魔法を封印している。
「よし、いこう」
「いこう」
笑いながらフキの葉を踏んでいった。緑の川に落ちそうになって悲鳴をあげた。手をつないで助けあい、小さな葉にふたりで乗った。片足が落ちたときは、アコ姫の魔法で回復してあげた。そのときだけは魔法が使えることになったから。
「やったー」
無事に向こう岸に到着した。白い花を咲かせるウツギの枝をくぐり抜け、満開のノイバラが花びらを散らしはじめている斜面をゆく。バラの鋭い棘に気をつけながら株を追い抜けば、いじわるな魔女がいる洞窟があるはずだった。でも。
「あ」
先をいっていたともくんが、足を滑らせた。ざざざと傾斜を転がる。からだごと明子の顔にぶつかってきた。明子も転げ落ち、がくんがくんと衝撃がくる。一瞬、なにもかもが凍ったように音がしなくなった。
間の抜けたように、ホーコケキョ、と鳴いた。さわさわと音が戻ってくる。
まだ動揺したままだったが、明子は自分の状態をたしかめる余裕が生まれた。見ると、手のひらに緑色の草の汁がついていて、ひざは軽くすりむいている。うっすらとにじむ血に、泣きべそをかきながら、ともくんに文句をいってやろうと顔をあげた。そして。
明子は、ぞわりとした。
ともくんのひたいが、真っ赤になっている。
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