初夏色ブルーノート

枕木きのこ

初夏色ブルーノート

 思っていたよりもずっと早く仕事が終わってしまい、人の少ない電車に揺られながら昼前の街並みを眺めていた。ひとつ、ふたつと駅をやり過ごしているうちに、家には帰りたくないなと思って、私はかねてからブックマークしていたカフェのホームページを開いて、電車を乗り換える。


 降りたことのない駅で、見知らぬ商店街を抜ける。国道に突き当たってオフィス街が広がる中、ビルとビルの隙間の整備されたわずかな道を進んで行くと、例のカフェが顔を覗かせた。

 カフェ「フィーネ」は、ネットの一部界隈で話題の店だった。口コミや評価数は少ないものの、隠れ家的と言うべきか、都市伝説的と言うべきか、やたらとうわさが歩き回るタイプの場所だ。


 幸い、入り口には「オープン」の札が掛かっていた。ひとつ呼吸を置いてから扉を開くと、つい先ほどまでだれかがいたのか、甘い紫煙の香りが通り過ぎていった。


 カウンターの向こうで、マスターと思われる初老の男性が洗い物をしていた手を止めてこちらを向く。口角を上げるだけの笑みを見せ、

「いらっしゃい」と声を掛けた。

「大丈夫ですか?」と問いかけると、

「お好きな席に」と返して、彼はまた洗い物を再開する。


 テーブル席がいくつかある。ほかに客はおらず、私は無意識に入り口から一番遠い隅の席に腰を落ち着けた。それから、——あ、と思った。

 智昭の好みが、いつの間にか習慣になっている。と、気付いてしまったのだ。



 ——この一番遠くの席から、出入りする人を観察するんだよ。あ、今の人は連れの女性を全く気にしなかったな、とか、店内BGMに「おっ」と思ったな、とかね。そうやっていろんな人をここから眺めるんだ——


 

 マスターは洗い物を終えると、ゴム手袋をごみ箱に放ってから、一度出入口のほうを経由して、ゆっくりとこちらに歩いてきた。


「思い出の曲はありますか?」

 

 メニューの提示はなく、傾いだ顔で覗き込むように私を見て、彼は言う。ネットでかいつまんだ情報通りの問いだったが、私はだからこそ動揺してしまい、

「あ、えっと……はい」

「どんな曲でも用意できますが……、できればジャズが好ましい」

「ジャズ、ですか」


「ジャズは、もの悲しくも美しい。——思い出もそうでしょう?」


 逡巡ののち、私がマイルス・デイヴィスの「イット・ネヴァー・エンタード・マイ・マインド」をお願いすると、マスターはそれをひとつ褒めてからカウンター内へ戻っていった。

 この曲は、智昭が好きだった曲だ。

 そして私は、智昭が好きだった。



 ■



「明子、ついてる」

 

 テーブルの向こうから伸ばした彼の手は、指先から甘い香りがした。その指が私の唇をかすめて、戻るときにはクリームを載せていた。

 ゴールデンウィークを過ぎてしばらく経ったものの、土曜日のショッピングモールはひどく混雑していて、フードコートのクレープ屋さんで買ったクレープを、こうしてのんびり座って食べて居られるのは奇跡と言ってもよかった。周囲は家族連れや恋人同士、友人グループなどがざわめいていて、彼はあまり会話をしたがらなかった。私は彼のこういうところが好きだった。


 大学で知り合って、地元が近いということで親しくなった。彼の通った高校には私の友人がいて、その逆も然りだった。同じお祭りに行っていたこともあったし、同じ図書館を使ったこともあった。私たちが恋人になるのに、時間も理由も要らなかった、のだと思う。


「ありがと」

「うん」


 そのままクレープを平らげると、

「もう行く?」と彼が言った。

「うん」と今度は私が返事をする。


 智昭は決して明るい人間ではないのだと思う。しかしそれは根暗だとか、そういう単語で完結する意味ではない。常に何かを考えていて、常に何かに配慮している。決断を相手に委ねたがるし、——聞き取れないかもなと思うと話しかけない。彼は少し、やさしすぎるのだ。それが、三年と少し付き合ってきた感想。


「二人とも早々に内々定貰えてよかったよね。このまま順当にいけばいいけど」

 帰りの電車を待っているときに、智昭は私の買った服が入った紙袋を右に左に持ち替えながら言った。私はいくつかの志望を断られた末、小さな会社の事務員に落ち着いたが、彼は大手企業に勤めることが決まっていた。幸いと言えるかどうか、結果的に私たちの職場は一駅となりに位置する。

「うん」

「残りの大学生活、どうやって過ごそうかな」

「うん」

「明子、少し眠い?」

「うん」

「じゃあ、とっておき」


 リュックからイヤホンを取り出すと私に受け取るよう突き出してくる。私がそれを耳に入れていると彼は携帯を操作し、やがて曲が流れ始める。彼のほうを見ると、イヤホンを外さなくて済むように、文字で曲名を教えてくれた。初めて聴く曲だった。

 トランペットの音色が、頭の中を四方八方駆け巡っていく。



 ——男の声で目覚める。それから、それが終電を知らせるアナウンスだと気付いて、思わず立ち上がった。

「おはよ」

 待合用のベンチからこちらを見あげる智昭は、ひどく落ち着いた笑顔だった。

「え、え?」

「——帰ろっか」


 そうだ、彼は聞き取れないと思ったら、声を掛けない男なのだった。

 

 おかげさまで終電を逃して、結局タクシーを呼んだ。無駄にお金がかかるから、と適当な言い訳をして、私の住む実家より手前にある彼のひとり暮らしのアパートに転がり込んだ。今まで何度か来たことはあったけれど、予期せず泊まることになったのは初めてで、なんだか少し、緊張する。

 智昭は私をベッドに座らせて、自分は床に座った。それからいくつか話をして、しているうちに、私は——あれ? と思った。


 彼のする話は、楽しかった話や、揉めた話。しかしそのどれもが、まるで「思い出」のように語られている——と気付いたときには、もう遅かった。


「ブルー・ノート。ざっくり言うと、ジャズやブルースで使われる半音下がった音のこと。でもそれが、心地いいんだ。人生もそうかもしれない。下がる、というけれど、下がっても、必ずしも悪いわけじゃない」


 そう言えば彼はフードコートで、「私」との未来のことは言わなかったな、と思い当たってしまった。あれは、自問だった。

 そしてたぶん、彼はこれから初めて、自分の意思を、決断を、私に対して口にする。


「明子のことは好きだ。とても。それから、今後もずっと。たぶんね。でも。でも、僕は明子のことをずっとこうやってやさしい目で見守ってあげる自信がない。クリームをつけてかわいいな、じゃなくて、だらしないな、と思ってしまう。眠くなって終電を逃して、疲れさせちゃったな、じゃなくて、全くもう、って、呆れてしまう。そうやって思ってしまう自分が、とにかく嫌なんだ。明子を許せなくなっている自分の図々しさを、自分の中で消化しきれない。——きっと明子はやさしいから、それを許容してくれようとする。でもそうさせてしまうこともまた、僕にとっては許せないことで——」


 と、彼は訳の分からない話を、何も映らないテレビに向かって訥々と漏らした。

 ベッドから彼の後頭部を眺めていると、なんだかドラマでも見ているような非現実感が私を包み込んだ。だって、順風満帆のはずだったから。私と彼の間には、幸せや愛以外のことは何も存在しないのだと、過信していた。筋書きがあって、華やかで、永遠に終わらないとさえ思っていた。

 でも違った。

 二人の間に流れている音楽は、私たちは、どうしようもなく、そして決定的に、半音ずれていたのだ。


「別れよう」


 はっきり口にされたとき、私は何も返せないまま、家を出た。今までどうやって歩いていたか、そして今この瞬間どうやって歩いているかもわからないまま、数時間かけて家まで帰った。帰る家があってよかった、と初めて思った。



 友人に話すと「忘れろ」と言われる。

 家族は何も聞かなかった。

 大学構内ですれ違う彼とは、目も合わなかった。

 ひととひととの別れは思いのほか唐突で、そしてあっけないのだと、大学生活の最後に知った。



 ■



 曲が終わる。静寂が店内に訪れ、私の意識も身体に戻った。


「お待たせしました」

 すっと横から伸びた手が、カップを置く。湯気が立ち上る。マスターを見あげると、その向こうに例の口元だけの笑みが見える。


「特別なブレンド。少し冷めてから飲むのが一番ですよ。そうですね、それから、五分か、十分」


 軽く頭を下げると彼はカウンターの奥へ戻っていった。

 やはり今日、来てよかったな、とぼんやりと考える。


 においは思い出を刺激する。

 音楽も、味も、風景も、手触りも。すべての感覚は記憶につながる。

 

 このコーヒーを飲み干した時に、私は何を思うのだろう。何かを思い出すのだろうか。あるいは、なにかを忘れるだろうか。あきらめるだろうか。それとも、焦がれるのだろうか。


 途方もない思いの中、少し冷めたコーヒーを一息に飲み込んだ。

 千円札を乱暴にテーブルに置いて、私は席を立つ。


 扉を開いたとき、——そうだ、すれ違ったあの香り、——あの香りは智昭が吸っていた煙草の、指先に残ったあの香り——、そう思い、店を振り返ると、マスターが「クローズ」の札を「オープン」に裏返しているところだった。


 終わりフィーネ、と名付けられたその店を、常に「ひとり」のために開くその店を、私はしっかりと目に焼き付けた。


 もう思い出すことも、術もないのだけれど。


 そう思うとなんだか心が軽くなって、私は先ほど聴いたばかりの、彼のとっておきの曲を口ずさんだ。



 智昭と別れてから何もかもが楽しくなくて、何も手につかなくて、そんな状態だからついに仕事もクビになって、私にはもう何もない。


 せめて。

 せめてあの香りが智昭そのもので、彼もずっと、同じ思いで生きていてくれたのなら、——そして、同じ結末を選んでくれたのならいいなと思いながら、私は、——酩酊に似た、全てへの不確定さを感じる。



 白昼の路地裏で、そっと眠りに就いた。

 あの頃、駅のホームで眠ってしまったときと同じ、心地のいいジャズの音色の中で。

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