湖底残映
葛野鹿乃子
湖底残映
私は湖のほとりを歩いている。
夜露に濡れた草叢を踏み歩くと、足裏にしっとりとした感触が吸いつくようだった。
湖は夜を溶かしたような暗い色を湛え、白い満月が浮いている。風も立たない凪いだ湖面は、鏡のように月夜の空を映し取っていた。
湖の周りには何もない。広がる草原の向こうに森らしき影があるだけだ。
湖のほとりをひたすら歩む。足が草を払う音がさらさらと、生温い空気に触れて消えていく。
湖の外径を巡るように歩んでいくと、人影が前方に認められた。
近づくほど人影がくっきりしてくる。薄汚れた外套を目深に被り目元を隠していた。彼は湖のほとりにひとり佇んでいたが、私が近づくと身体をこちらへ向けた。
月明かりに頬が青白い。どんな表情をしているかはわからないが、口元はただ引き結ばれている。
私は独り言のように口を開いた。
「町は今、見えないのだろうか」
すると彼は、涼やかな青年の声で答えた。
「夜でも見えますとも。よくご覧なさい」
青年は人差し指を湖へ向けた。彼の指の先へ視線を向ける。湖をよく見下ろしてみた。鏡のように夜空を映している湖面が、角度を変えると半透明になる。薄青い水の膜の下に町が揺らいでいた。
「昼間であれば、もっとよく見えます」
「昼もここにいるのかい」
「ずっとここにおります」
「ずっとここにいるのかい」
「この町が湖の底に沈んだときから」
私は問いを重ねることをやめた。私が彼について知りたいことはいくつもあったのだが、いくつもの問いが沸いては喉の辺りで詰まった。そうするうちに何かを訊く気が薄れてしまった。
青年はひたすら湖面を見つめている。
青年の頬は青白い。青白い月光に染まっているからか。
私も湖面を見下ろす。夜空の水底に沈む町が窺える。
この湖には、町が丸々ひとつ沈んでいるのだという。
そうした伝説の類があちらこちらに流布していて、私は興味本位でこの湖へと足を運んだ。
伝説を信じる者は少なく、真に受ける者はからかわれたり馬鹿にされたりもしていたから、実際に人が訪れることは少ないのだろう。
夜色の水の膜の向こう側に、いくつもの建物がある。白い石の壁、色とりどりと思しき屋根、石畳の道、看板も街灯も植樹も、地上に存在していたであろうそのままの姿で存在している。どこも崩れていないし、海藻が町の合間に生えてもいないし腐食も見られない。時を止めたかのように、在りし日の町の面影をそのまま留めている。
「美しいでしょう。湖に入ると、もっと町の美しさを感じられましょう」
青年は自慢するような声色で言う。
「青く澄んだ水の中の町をひとり漂うと、私は伝説と一体になったかのような高揚と清閑を得られるのです」
私は湖面の月を見つめて想像する。
澄んだ水の中にある白い町を泳いで巡る。そこには人も魚もいない、音すら水に閉ざされた深閑とした場所だ。水を纏いながら町の合間を通れば、私も彼のように高揚と清閑を得られるだろうか。
私の唇が自然と動く。沸き上がるような高揚に、声音に自然と熱が篭った。
「それは、とても静かだろうね」
「とても静かです。自分の身体の感触も熱も、すべて冷たい水に呑まれて、湖と一体になるのですから」
そうなれたらどんなにいいだろう。
私は胸の内から沸く高揚を抑えきれずにいる。それは指先までも支配し、私を湖の中へと導こうとする。
私は靴を脱いだ。裸足になった方が、水の感触を直に感じられて心地良かろう。
「私も入ってみようと思う」
私がそう言うと、青年は初めて口元を笑ませた。気がつけば、青年の頬を雫が一筋滑った。青年の外套はすっかり濡れて水が滴っていた。まるでずっと水に浸かっていたかのようだった。
私は青年のその笑みに見送られ、湖の中へと身を投げた。
水の跳ねる音が湖面を穿つ。すぐに爪先から頭の天辺まで水に包まれて冷たくなった。
錘を纏ったように湖底へと沈んでいく。
そこには町がある。白い石造りにとりどりの色の屋根が、素朴だが美しい都だ。
水の青はやがて私と交わり、私は水面を通して差し込む月光を仰ぎ見た。私は石畳の地面に横たわり、遠く揺らぐ湖面を見上げる。
身体中の熱が奪われ、私は湖と一体になった。
沸き上がる高揚さえ水に溶け、冷えて消えていく。
あの青年もきっと、既に水に溶けていたのだろう。
湖底にあるのは沈んだ町か、それとも幻か、あるいは別の世界の都なのか。
ただ湖面からは、沈んだ美しい町が見える。
そうして私の死骸は、湖底に沈んだいくつもの骨とひとつになった。
湖底残映 葛野鹿乃子 @tonakaiforest
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