クリスチャンはイヌを殺せるか?
椿恭二
クリスチャンはイヌを殺せるか?
拝啓
先生、お元気でしょうか。此処所は温暖な日々でしたが、急に寒冷雨が続きました。お身体の方は如何でしょうか。気が付けばもう師走です。きっと今年も終わりに近付きお忙しい日々を送っていると思われます。
私は元気に過ごしております。刑務所は時が止まりあまり季節感を感じませんが、当然の事ながら暖房がない雑房は、メリヤスを着て防寒するほかなく、同囚の嘆息が雪白の如く輝く様は、何とも言えない哀傷があります。
この淋しさ、それは獄中とは非装飾的である事で、自己弁護を反復している小さな社会構造だからなのかもしれません。
——「私の悪行を贖うことができよう」
そんな聖書の一節を反芻し、孤独に耐えるばかりです。
本日は、私の非常にパーソナルな記憶についてお話ししたく、筆を執りました。
どうか最後まで御一読頂けたら幸いです。
さて、こんな場所ですので色々な噂があります。
先日、約三年間ここに逗留を余儀なくされた、窃盗犯が居ました。彼は獄中でキリスト教に目覚めました。とても素晴らしいことでしょう。刑務所には教誨師といって、民間のボランティアの牧師が我々犯罪者に『新約聖書』と『西国立志編』という古い書物を元に、説法を行って下さる様です。
ここに「儀範を論ず」とういう言葉があるのだそうです。
その男は我々が刑務作業をする木工工場で——ここは口談が禁止され実に淡々と沈黙で木工の機械の音が響くばかりの場所ですが……相手を殴り殺す勢いの喧嘩を行いました。争いの発端は、ヤクザ者同士の諍いだった様ですが、無縁の世界にいる私にはよく分かりません。
彼はすぐに取り押さえられ、懲罰房に入れられた様です。ここでは喧嘩を行なった者は両成敗です。そして二度と戻っては来られません。また違う作業の工場に、飛ばされ一から地位の確立が始まるのです。
刑務官も人間ですので人格があります。
厳格な者、威圧的な者、温和な者、様々です。中には気のいい「親父」もいて、去った同囚について尋ねると、禁忌を破り教えてくれる者もおります。
彼は三日拘束衣を着せられ、三ヶ月間懲罰房にいた後に、精神病院に移送された様です。措置入院と言うらしいですが、手錠で繋がれ便器と檻しか無い保護房で、残りの刑期を過ごさねばならぬ様です。
神は弟殺しのカインに「お前は大地のさすらい人となり、流れ者となるであろう」と仰せられ、エデンの東へ追放しました。
彼は実社会でも義範を違背し、刑務所でもまた、規則を厳刑を受けたのです。
ヤクザ者というのは、真っ赤な嘘だったそうです。
手紙でこんな事を認めるのは恐縮ですが、私はこの男のそんな姑息さを嫌悪していました。
こんな場所にいると、昔の記憶ばかりが蘇ります。
私の少年期に『新世紀ヱヴァンゲリヲン』というアニメーションが大流行し、一種の社会現象と化しました。当時近所に住んでいた農家の興奮した娘さんに誘われるがままに鑑賞したテレビ放送に、釘付けだったのを記憶しています。
小学校では前日の放送を見た学友が、これもまた興奮冷めやらぬ口調で、この作品の衝撃を烈々に語っていたものです。私的にこの実に印象深い価値のある作品は、実にオーソドックスな昔ながらの設定の物語で、巨大ロボットの様な新造人間を少年が操縦し、敵襲する使徒と呼ばれる怪物と対峙し、苦悩を擁しながらも勇敢に決戦します。そして敵は主人公の少年に破砕されて行きます。
その使徒と呼ばれる外敵はまさに死の瞬間、壮麗な十字架の閃光を放ち、爆発的な血潮をまるで津波の様に飛散し消滅していきます。それは子供心に衝撃的な印象を残す光景で、未だ脳裏に焼き付いております。
何よりこの一種の神話性を包摂した作品は、アニメーション史でも未だ根強いファンを獲得しカルトと化しています。
この作品において一種のエディプス・コンプレックス的な、あるいは少年期のモラトリアム的な分析の多い中、最も私の心を揺り動かしたのは、消滅する使徒の放射する「十字架」でした。
その巨大な紫電が立ち上る様は、荘厳かつ哀切な刹那性を持っていて、そこからキリスト教の隠喩と秘奥を想起させるのには充分な表現でありました。
人類を滅亡に導く外敵が滅する姿に、何故十字架が現出するものなのか。
そこに私は奇妙な一種のシンパシーを覚えるのと同時に、ヒトが悪とするものに聖性を覚えたのは、全くの事実なので有ります。
それから私は成長していき、兼ねてからの夢であった美術大学に入学しました。当時の自分自身には、「美術でメシを食う」というまるで非現実的、或いは夢遊病的な幻影が、唯一の現実との接続方法として生きていました。
私は世界放浪とカウンター・カルチャーという、六十年代の懐古趣味に倒錯していきます。唐突にインドに出かけたり、蓬髪に無精髭で民族衣装で装飾したりという、極めて逆行的かつ退廃の生活の中、睡眠薬、コカイン、そしてヘロイン中毒と化して、切れてしまった薬を求めて売人を探し、深夜の街を奔走する狂気の時代が幕を開けました。
幻覚、幻聴……。
現実は余りにもうねうねと波打ちながら、どんどんとロゴスの世界を離れていきました。
私は懺悔しに行った教会で、一人の少女に出逢いました。
その少女は昔写真で見た、若い頃の私の祖母にそっくりでした。
長い黒髪の彼女は裸体のまま座禅を組む様な格好で、目を閉じ座していました。その頬には爪先程の大きさのアラビア数字を、上下左右に組み替えた奇怪千万(機械線版)な図形が刻印されていました。両腕の指は十本とも第二関節の辺りで切断され、そこから襞になって飛び出した神経が、巨大なパイプ・オルガン底面に接木されていたのです。
そして成熟していない乳房の下はポッカリと空洞になっていて、私はそこに我武者羅に潜り込んだのです。
——そして賛美歌を聞いたのです。
当時の私の英雄は伝説的な麻薬中毒者作家である、ウィリアム・S・バロウズに他なりません。
初めて彼の代表作であり、文学的に最も価値のある作品の一つである『裸のランチ』を読んだ時、その凶暴かつトランセンデンタルな幻覚性、錯乱し蠱惑的なイマージュに満ちたエクリチュールに、自らの体験の肯定を感じ感涙したのを忘れません。
否、忘れてはいけないものなのだ、と感に耐えませんでした。
——此れこそが、自分の存在の肯定なのだ、と。
そんな中で彼の別の作品『麻薬書簡』においてアレン・ギンズバーグという詩人の友人に、「僕たちは十字架に架けられる準備をしている。」と手紙を送りました。
詩人としての敗北。
それは詩人としてのゲームの敗北であるのかもしれないです。
我々は余りにも虚空に対して無知なのであります。そして神は我々の中にこそ住んでいる。そして宇宙的な神が一体何処に向かおうとしているのか、その超越性は我々には分からないのです。
この感動的と言っては余りにもチープな激情を含有した書簡の中で提示された、いつか私も架けられる運命にある「十字架」は、今も息を潜めて眠っている気がするのです。
そして家族、友人全ての私に関係する人々からは狂人とされ、卑怯な騙しと裏切りによって、強制的に精神病院に拘束されました。この人間性を剥奪された運命の最中で、バロウズの十字架を真っ先に想起させられたのは、言うまでも有りませんでしょう。
私は芸術活動としての実験映像が好きなのは、先生もご存知かもしれません。
昔、金沢の美術館で一度だけ鑑賞した、マシュー・バーニーという作家の『拘束のドローイング9』という作品がここでは思い出深いものです。
この著名な現代作家が日本を舞台に作品を創るという事件は、美術界ではかなりの衝撃であったのは、当時の美術家の騒然とした事からも伺え、様々な考察が行われました。
私の印象はこの作品はバーニーが日本をケレン味たっぷりに描いた、不思議なオリエンタリズムであるというものでした。
ビョークという歌手を役者として、捕鯨船、阿波踊り、石油精製所を赤裸々に外国人の視線で見つめる作風は、実に奇妙でありながらも興味深いものです。
特に解体される巨大な生命である鯨のイマージュは、強烈な船舶の遊泳と共に、悲痛なヒューマニズムを想起させました。
マシュー・バーニーが語った言葉を借りるならば、「拘束のドローイング」とは抵抗力の発達に不可欠なもの、創造性の媒体として提示するものなのです。千利休が茶室という空間性を狭小する一方で、それにより人間の知覚の超越が無限の可能性を産むのです。
想像力の媒体として私の精神における拘束とそのシンボルである「十字架」の震源地はここにもあったのです。フィルムに焼き付いた聖痕の様であります。
現在、刑務所という身体における一種の「拘束 restraint」についてこの作品には、かつての私の大学時代の恩師が講義で触れていた、聖書の思想を想起させるのには十分過ぎるものがあります。
——監獄で思想をする。芸術をする。
我々は絶えず罪に傾き、罪に溺れます。
拘束される現実で、一体何を拠り所に生を感じるのか、私は考えます。
私の伯母が敬虔なクリスチャンでした。彼女は私の従姉妹にも信仰をするように勧めていた様です。イエス様と聖母マリア、その愛を大変に耳触りが良く語っていました。
——信仰と救済、そして愛。
拘束、という言葉は耳にした事がありません。それが普通のことであるのかは、私には分かり兼ねます。
どうやら伯母とその周囲には、クリスチャンのサークルが形成されているらしいのです。そこの仲間たちと従姉妹を連れて世界中に巡礼の旅に出かけていて、その思い出話をよく聞かされました。
エルサレムに行った時のお土産で、乾した果実を貰った事もあります。聖母マリア様のネックレスを嬉しそうに見せてくれた事もありました。私の従姉妹はいつも隣で退屈そうにしていたのですが、今となってはその曇った顔の方が印象深いのは何故なのでしょうか。
私の祖母は、この伯母と暮らしていました。特に珍しくもない、極めて現代的な二世帯住宅です。
先程お話しした通り、私は美術大学へ進学しました。その最も原初的な芸術活動は何か、と問われた時、真っ先に思い浮かぶのが祖母と過ごした時間です。
祖母は手毬を創りました。
小学校の保健の先生だった彼女は退職後に趣味で始めたらしいのですが、独学で学んだその技法は一流となり、晩年はいつの間にか家には生徒が集まる手毬教室になっていました。私はそんな祖母やその友人に囲まれて、ずっとずっと絵を描いていました。祖母には絵心もあり私に手解きをしてくれました。そしてどんな絵を描いても必ず褒めてくれました。
私の芸術的な感性は祖母の遺伝だと思います。同時に信敬の念も深くあるのです。
祖母の手毬は惑星を想起させます。
時空を超えた宇宙的な力が掌の球体に再現されているのです。後に大学に進学した時、筆入に入れていた小さな手毬を尊敬していた教授に見せると、大切にしなさい、と仰ってくださり、大変嬉しかったのと同時に、人の心を動かすものだったのだ、と感慨深かったものです。
私は祖母を愛していました。祖母は肺が悪かったのです。そして私が高校生の時、此の世を去りました。彼女が死を迎える最後の日々は今でも悲傷の記憶です。
私は通っていた画塾の帰路、ほとんど毎日の様に祖母の家に通いました。
肩を叩き、皿を洗いました。その位しかできる事がなかったのです。もうその頃は鼻孔から酸素を送る呼吸器無しでは歩けませんでした。玄関まで私を出迎える数歩が、大きな苦痛だったのです。
日に日に、祖母は弱っていきました。
私は別れを覚悟していました。
そもそも私が本日の手紙を差し上げるきっかけとなったのは、メキシコ人の同囚(彼は絵を描きます)にアール・ブリュットについて説明していた事に、端を発します。
彼は麻薬の密輸をして二十年を越える監獄生活を余儀無くされています。ある種、懲役刑とは時間を奪う罰です。私は彼の人格性と、犯罪と罰に対するアンヴィヴァレントな現実に哀切と阿呆らしさを感じます。
決して罪の肯定ではなく、世界との接続を剥奪する刑務所に対するアンチ・テーゼです。
私はそんな彼と狭隘なグラウンドをトボトボ歩きながら、我々囚人に許された、拘束された人間のもった表現に於ける、「生命への帰属性と監獄への頑強な抵抗」について思考していました。
彼は敬虔なカトリックでした。そんな話の中で彼は「十字架」をモティーフにしたい。それが今の心情の吐露だ、と語りました。そこで私はハッとしたのです。拘束には十字架が重大な問題である事。そしてメキシコ人の彼にとっての宗教とは現実の問題である事に、気付かされたのです。
昔、講義で恩師が語っていた事が、記憶の秘奥から有り有りと浮上してきました。
それはこんな事だった気がします。
キリスト教とはとても不思議な宗教です。イエス様という人の思想と、それを基に発達したキリスト教は、時に我々が思いもよらぬ表情や性質を見せるものです。
今手元にある聖書を引いてみます。
マタイによる福音書6章26−29節です。
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値ある者ではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」
イエス様の御言葉が何と自由で生命力に満ち満ちている事でしょうか。彼の言葉がまるでバロウズの語った様に、虚無と超越に誠実なのは、私に実に深い感動をもたらします。地上の力に拘束されない。翼が生えた様な軽やかさ。
何と素晴らしいのでしょうか。
もし私がイエス様に敬慕があるとするならば、この自由な精神に他なりません。然し人間はイエス様を十字架に磔にしました。きっとそれは彼があまりに自由だったからなのではないか、宗教に無知な私はそんな風に思うのです。
最近読んだ宗教の本に、この様な事が書いてありました。
キリスト教はイエス様という自由な精神を、十字架の刑に処してしまった所から誕生したのだそうです。つまりキリスト教とは内部に秘鑿した絶対的自由と、それを強烈に抑止し拘束しようとする力の、鬩ぎ合いの宗教なのだそうです。
「異教 paganism」の伝統では、神や精霊は常に躍動し、変化し、超越的な世界に属する高次元な力でメタモルフォーシスしていくダイナミックな力に重要性があったのです。
そしてそれを誰も拘束しようとはしなかったのです。
キリスト教の歴史はまさに十字架に磔にするように、それらの力に拘束を与え、同一性をもたらそうとする、何世紀にも渡る二つの原理の激動の戦いであったのかもしれません。余りにも生々しい記憶に他ならない、と私は痛感します。
闘いのないところに創造はない。
自然に成長してきたものに価値はない。
盲目的な思想に価値はない。
拘束を突き抜けてきた力でなければ、この世に真実をもたらすことはできない。
私はこの本を読み、その考えに鑽仰したのです。
——イヌ、二匹のイヌが居たのです。
犬種はゴールデン・レトリーバーというものだと思います。
一匹はラブという名前だったと思います。もう一匹は忘れました。ただ一匹が「愛」を由来とした名前である事実は、忘却の彼方に押し去ることはできません。
それは大層立派な大きなイヌでした。祖母と伯母の家にはこの二匹が居て、家の中を闊歩していました。伯父も伯母も従姉妹も、イヌを溺愛していました。まるで子供の様に溺愛していました。甘えさせていました。
そしてイヌとイヌを慕う人々のサークルがどうやらあったようです。同時にそのサークルはクリスチャンのサークルと密接に結びついている様だったのです。イヌは伯母の、クリスチャンの自慢でした。そのイヌ達は汚穢な体毛をばら撒いて、走り回っていました。
祖母は肺が悪かった。
祖母は本当に、本当に酷い咳が止まらなかった。
——私は何も言えなかった。
祖母の家を訪ねると、母も弟も嬉々としてイヌを撫でていましたが、私は内心このイヌを殺してやりたかった。
結局、祖母はイヌより先にあの家を去りました。そして二度と戻りませんでした。
私には理解できないのです、
あのイヌを許していた伯母が。
——クリスチャンはイヌを殺せない。
汝隣人を愛せよ。
私にはそう高らかに語る伯母が、分かりません。
——だから、伯母を殺しました。
グラウンドをメキシコ人と歩きながら、彼が拘束、そして十字架にデリケートな信仰の世界を生きているのと同様に、私にもまた宗教は現実的な問題だったのです。
祖母と伯母が不仲だったのは、祖母の死後知りました。薄々気付いてはいましたが、暗黙の了解が身内の中に蔓延していましたので、私も詮索は出来ませんでした。
ただ死後に遺品整理に立会い、祖母の手帳を罪悪感を感じながら覗き見た時、
そこに……赤い字でびっちりと「殺される」と有りました。
其処だけが真っ赤に塗り潰された、異様な煉獄の頁でした。
祖母は一体誰に殺されるのか。
そしてなぜ殺されるのか。
それは分かりません。
悪寒。
温厚な祖母の、見てはいけない何か……。
私と祖母が、伯母には異教の存在、サテュロスに見えていた筈です。
羊の頭部を持つ半身半獣の異教の精霊ですが、悪魔とされました。
手毬を編み、無意識を具現化する。
それはまさに異教の創造力だったのではないでしょうか。
だからこそ我々は伯母に拘束を受けたのかもしれません。私と祖母はまさにキリスト教の同一性の強制というイヌとの静黙な戦闘を行なっていたのだ、と私は思います。
丁度、十字架に架けられたイエス様のように……。
伯母のグロテスクな信仰は、愛を語りながら、イヌを殺せなかった。
私は彼女がキリストを語る事が、救済を語る事が許せないのかもしれません。
そして何も、何も出来なかった私自身もまた、許せないのです。
先生、人間はこんなにも残酷になれるものなのですか。
襲い来る怪物が新造人間に殺された後十字架を放つのが何故か。
バロウズが十字架に磔られる運命を受け入れたのは何故か。
『拘束のドローイング9』で十字架が大きなファクターであるのは何故か。
今は、分かる気がします。
私がこうして筆を走らせているのは、復讐なのです。
そうしてこれは、私の祖母への悲歌なのです。
恐らく誰にも忘れられてしまう記憶を、今こうして先生にお伝えする事で、たった一人でも良いので真実を記憶していてもらいたい。
そんな私の、エゴイスティックな願望です。
こんな私をイエス様は許してくれるのでしょうか。
先生と私が信じる愛、
そして自由は、今もまだ息をしているのでしょうか。
敬具
クリスチャンはイヌを殺せるか? 椿恭二 @Tsubaki64
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