Ⅱ.

 空間が、時計の針を回すのをめていた。思わずそう表現したくなるような、ゆっくりとした時間が流れる。手を引っ張られて驚いていた彼も、咥えたシガーが燻されてゆくのを見て口角を持ち上げた。その艶然とした微笑みを崩すことなく、長い睫毛を伏せ、少しずつ息を吸って火を引き寄せていく。互いの呼吸が聴こえる。宙に揺蕩う幾重もの香が綯い交ぜになり、快感すら喚起させる複雑で官能的な馥郁ふくいくが立ち込めた。


「……お前のシガーキスは随分と婀娜あだっぽい。お前にフィアンセがいようものなら、呪われてしまいそうだ」


 顔を離したカーティスに、フィオナは呟くようにそう言った。


「生憎結婚には全然興味が湧かなくて。君のような美青年なら、男でもいけそうだけど」

「そっちの気に付き合う気はないぞ。相変わらず見合いを断り続けているのか?」

「兄が結婚しているし、俺は自由にさせて貰おうと思ってね。……いずれは、するかもな。君だって許嫁がいてもいい歳だろう」

「私もからきし興味がない」

「独身貴族という椅子は座り心地が良くて、存外やめられないものだな」


 彼はその長い両脚をソファから放り出し、いつもの抜かりない体裁を脱ぎ捨てた。椅子の縁に沿って首を反らすようにして天井の模様を見る。緻密な模様が複雑に絡み合いひしめき合い、隅々まで広がっている。ワイングラスを持ち上げて翳せば、揺蕩う紅の波がシャンデリアの光を四散させた。その見慣れた葡萄色は、カーティスの精巧な面貌を濡らす。神の子の血たる酒を愛し、神にそむく男達は、理性的でありながら傲慢で、ひどく色欲を煽る妖艶さを纏い、開闢かいびゃくより人間が抗えぬ甘い芳香を漂わせる。とりわけこの二人は、人を惹きつける天賦の才を持っていた。


「それにしても、オペラ界で事を起こすなんて、後先考えない阿呆なのか」

「貴族社会、強いては政治と王室にまで通じる業界で罪を犯すは、死んでも償いきれないとがとなるだろうよ」

「国内外問わず、誰しもがヴィクトリア女王の顔色を窺うのに必死だというのに、いい度胸じゃないか。私は感心したよ。この国にそんな勇猛果敢な戦士バカがいたとは」


 揶揄い口調のフィオナは、鼻で笑う。


「粗方、犯人の目星はついているんだろう?」

「まあね。でも証拠が未だ不十分だ。だから、舞台を用意する」

「下手な演劇しばいだけは打つなよ」


 そう諫言かんげんしておきながら、彼は既にどんな演目を鑑賞できるのかと期待に満ちた様子である。まるでオペラを観に行く前夜のようだと、カーティスは横目で隣に座る友人を捉えた。一回り年の違うその友人は、男にしては華奢な肢体をカーティスと同じバスローブに包み、白く細い指先でワイングラスをくるくると回している。赤い液体を流し込み、その甘露に幸せを抱いた面持ちはやたらと扇情的だ。


「ねえフィオナ」

「なんだ」


 フィオナという男は、常に規格外の考えをおこし、圧倒的実行力で成し遂げてしまう。それはこの裏家業の仕事ぶりにも垣間見える。他の者には成し得ないその奇行は、いつだってカーティスを楽しませてくれた。今回のお噺を、フィオナであればどう捌いただろう。


「愛、故の行動をどう思う」

「愛ィ?」


 引き攣った彼の口端から、皮肉屋らしい笑いが洩れた。


「煙で酔いが回ったか?」

「失敬な。俺は君よりも飲める」


 彼の揶揄いを受け流し、余裕という二文字を着たカーティスはシガーを挟む手を下ろし、一度ワインを口に含む。


「親や友に対して自然と愛を抱き、あまねく隣人に与え続ければ賞賛され、身をして愛を遂行すれば神にも近くまつりあげられる」


 フィオナは友人の話の意図を図ろうと、カーブを描くグラス越しに彼を見る。普段と変わらない。それどころか、少し楽しそうだ。


「しかし、狂気を孕む愛には誰も賛辞を送らない。それどころか悪魔のように忌避する。おかしいと思わないか? それも突き詰めた愛じゃないか」


 カーティスはワイングラスを手に、腕を大仰に挙げてみせ、わざとらしく肩をすくめた。


「お前はその狂気的な愛の悪魔を野放しにするだろう。ボックス席からオペラグラスでも覗いて、阿鼻叫喚に陥った惨状を眺めるお前の様子が目に浮かぶ」

「君には、勿論。俺の隣の特等席を用意してあげるよ」

「火の粉が飛んで来るのだけは勘弁だな」


 呑気なようで、突き放した返事に、カーティスは軽く笑う。また深くチェアに沈むと、彼は低く穏やかな声で話し始める。


「俺は愛故の行動は嫌いじゃないんだ。リゴレットが娘の為に公爵を殺そうとしたように、愛の為に血を流すことも、愛故に振り翳す権力も、ばら撒く金も、嫌いじゃない。愛という美しい言葉がひび割れて、流れ出した黒く穢れた感情にもがき苦しむさまは人間味が感じられて、私は年甲斐なくよろこんでしまう」


 悪びれもせぬその堂々とした佇まい。カーティスは傲慢のマントを羽織れども、欲望の奴隷になることはない。身の内で飼い慣らしているのだ。それを見事覆い隠す紳士いい男の体裁。いつか、その正体が暴かれてみて欲しいものだ。

 フィオナは吸い込んだ煙を口の中で転がした。

 甘い、柔い、渋い。とても気持ちが良い。


「お前が好きなのは愛じゃない。狂気だ。結婚する前にその嗜虐しいぎゃく症を治しておくことだな」

「大丈夫。被虐嗜好者マゾヒストを捕まえるから」

「うわ」


 フィオナは顔を顰めてみせる。カーティスが含みのある面差しで、此方を見た。


「それよりも、同じ嗜好の奴がいいけど、ね。ほら、よく言うじゃない、共通の趣味が多いと上手くいくって」

「物は言いようだな」


 睡眠欲にほだされて眠りにくその時のように、燭台に灯る焔を消すかの如く、彼は人の希望を吹き消す。食欲に負けて腹を満たすように、人の命をほふる。罪の内容に唆られることはなく、揶揄い甲斐がないならば息する価値すらあらずと判断を下す。

 なんて非情な男なのだろうか。


「ねえ、フィオナ。俺は思うんだよ」


 冷たい唇が、言葉を紡ぐ。


「愛という、暴力的なまでの絶対的正義の元で振り翳す力ほど、世を蹂躙する感覚を得られるものはない」


 赤ワイン色の毒をその口に含み、享楽に犯された表情を色濃くする。


「俺は、それを見ていたい。その狂気の行く末をな」


 狂気という甘い蜜を啜る彼の本懐は、未だ底知れぬ闇の中。



 †



「よお、フィオナ」


 フィオナは無言で、自分の肩に回った筋肉質な腕を払い除けた。


「今日の夜会、怪しいな」


 そう言って、ヴィンテージワインをめるこの男は、オスカー・エヴァンズ・フィッツ侯爵。豪快な性格と大柄な見た目に反して、侯爵でありながら指折りの名医者という、才人である。勿論彼も裏社会の人間で、フィオナ達が怪我をすれば世話になること屡々しばしば

 にかりと歯を見せて笑うと、口端から金歯が鈍く光を反射する。医者の不養生とは、正にこの事だ。


「何故」

「カーティスの野郎がいつになく楽しそうだからな。今日は一段と羽振り良く、あのきな臭い笑顔を振り撒いていやがる」

「よく見ているじゃないか」

「やめてくれよ。腐れ縁とは言えど、あいつとは長い付き合いだからな。お前とも。もう、お前等の微々たる感情の変化ぐらいは見抜ける自信がある」


 オスカーが笑うと口角がきゅっと上がり、大きな口が均等に広がって、隠し事などなさそうな、ただのきっぷの良い豪傑のようにしか見えない。


「まあ、今日ばかりはお前の意見に賛成だな。あいつの笑顔の裏には、欲塗れの思惑があるようにしか見えん」


 二人の視線の先で、カーティスは客人に挨拶をして回っている。彼の笑顔は、誰をも魅力する麻薬だ。老若男女見境なく見惚れさせる悪魔の微笑みは、彼の密かなる計略を隠蔽してしまう。


「我が夜会にようこそ」


 ほら、また。

 その美しい仮面は、ヒビひとつない、精巧な出来栄え。彼の性格を知るオスカーやフィオナにとって、あまりにも完璧な外面えんぎは逆に可笑しく、その奥に何やらはかりごとがあることくらいは、察せるのである。


「やあ、二人共。今日は楽しんでいってくれよ」


 オスカーとフィオナは揃って振り返る。

 カーティスが悠然と佇み、二人に手を振る。


「お前の顔の広さは一体なんなんだ。人が多すぎる」

「フィオナは人が多いところ、嫌いだもんな」


 仏頂面のフィオナを、オスカーが笑う。


「別室で休んでいてもいいけど、面白いところを見逃しちゃうだろうし。二階席にでも座っていてくれ。……ラシャド」

「はい」

「あとで、ゆっくりと話そう」

「おう。待ってるぜ」


 カーティスの背後から、すっと現れた執事ラシャドが、丁寧に腰を折る。


「フィッツ侯爵、ダウズウェル伯爵。ご案内いたします」


 笑えば愛嬌が溢れそうな、綺麗な造りの童顔は、無表情一色だ。感情が死んでしまっているのでは、と思うほどである。細身ですらりとした肢体は、身長こそ違えど、比較的フィオナの体つきに近しい。


「こちらで、ごくつろぎください」

「ありがとよ」


 豪奢な欄干で縁取られた階段を登り、二階席のソファに腰を下ろすと、大きな広間を一望することができた。広さを忘れさせるほどの人数がいる事実に、人混みから抜け出したにも関わらず、酔いそうである。

 フィオナ達はソファに深く腰を沈めた。脚を組み、グラスの縁に口をつける。それから暫し、潮のように満ち引きを繰り返す人の浪を撫でるように眺めていた。


「なあ、オスカー」

「なんだ」

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ダウズウェル伯爵の深謀 南雲 燦 @SAN_N6

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