Ⅱ.
空間が、時計の針を回すのを
「……お前のシガーキスは随分と
顔を離したカーティスに、フィオナは呟くようにそう言った。
「生憎結婚には全然興味が湧かなくて。君のような美青年なら、男でもいけそうだけど」
「そっちの気に付き合う気はないぞ。相変わらず見合いを断り続けているのか?」
「兄が結婚しているし、俺は自由にさせて貰おうと思ってね。……いずれは、するかもな。君だって許嫁がいてもいい歳だろう」
「私もからきし興味がない」
「独身貴族という椅子は座り心地が良くて、存外やめられないものだな」
彼はその長い両脚をソファから放り出し、いつもの抜かりない体裁を脱ぎ捨てた。椅子の縁に沿って首を反らすようにして天井の模様を見る。緻密な模様が複雑に絡み合い
「それにしても、オペラ界で事を起こすなんて、後先考えない阿呆なのか」
「貴族社会、強いては政治と王室にまで通じる業界で罪を犯すは、死んでも償いきれない
「国内外問わず、誰しもがヴィクトリア女王の顔色を窺うのに必死だというのに、いい度胸じゃないか。私は感心したよ。この国にそんな勇猛果敢な
揶揄い口調のフィオナは、鼻で笑う。
「粗方、犯人の目星はついているんだろう?」
「まあね。でも証拠が未だ不十分だ。だから、舞台を用意する」
「下手な
そう
「ねえフィオナ」
「なんだ」
フィオナという男は、常に規格外の考えを
「愛、故の行動をどう思う」
「愛ィ?」
引き攣った彼の口端から、皮肉屋らしい笑いが洩れた。
「煙で酔いが回ったか?」
「失敬な。俺は君よりも飲める」
彼の揶揄いを受け流し、余裕という二文字を着たカーティスはシガーを挟む手を下ろし、一度ワインを口に含む。
「親や友に対して自然と愛を抱き、あまねく隣人に与え続ければ賞賛され、身を
フィオナは友人の話の意図を図ろうと、カーブを描くグラス越しに彼を見る。普段と変わらない。それどころか、少し楽しそうだ。
「しかし、狂気を孕む愛には誰も賛辞を送らない。それどころか悪魔のように忌避する。おかしいと思わないか? それも突き詰めた愛じゃないか」
カーティスはワイングラスを手に、腕を大仰に挙げてみせ、わざとらしく肩を
「お前はその狂気的な愛の悪魔を野放しにするだろう。ボックス席からオペラグラスでも覗いて、阿鼻叫喚に陥った惨状を眺めるお前の様子が目に浮かぶ」
「君には、勿論。俺の隣の特等席を用意してあげるよ」
「火の粉が飛んで来るのだけは勘弁だな」
呑気なようで、突き放した返事に、カーティスは軽く笑う。また深くチェアに沈むと、彼は低く穏やかな声で話し始める。
「俺は愛故の行動は嫌いじゃないんだ。リゴレットが娘の為に公爵を殺そうとしたように、愛の為に血を流すことも、愛故に振り翳す権力も、ばら撒く金も、嫌いじゃない。愛という美しい言葉がひび割れて、流れ出した黒く穢れた感情に
悪びれもせぬその堂々とした佇まい。カーティスは傲慢のマントを羽織れども、欲望の奴隷になることはない。身の内で飼い慣らしているのだ。それを見事覆い隠す
フィオナは吸い込んだ煙を口の中で転がした。
甘い、柔い、渋い。とても気持ちが良い。
「お前が好きなのは愛じゃない。狂気だ。結婚する前にその
「大丈夫。
「うわ」
フィオナは顔を顰めてみせる。カーティスが含みのある面差しで、此方を見た。
「それよりも、同じ嗜好の奴がいいけど、ね。ほら、よく言うじゃない、共通の趣味が多いと上手くいくって」
「物は言いようだな」
睡眠欲に
なんて非情な男なのだろうか。
「ねえ、フィオナ。俺は思うんだよ」
冷たい唇が、言葉を紡ぐ。
「愛という、暴力的なまでの絶対的正義の元で振り翳す力ほど、世を蹂躙する感覚を得られるものはない」
赤ワイン色の毒をその口に含み、享楽に犯された表情を色濃くする。
「俺は、それを見ていたい。その狂気の行く末をな」
狂気という甘い蜜を啜る彼の本懐は、未だ底知れぬ闇の中。
†
「よお、フィオナ」
フィオナは無言で、自分の肩に回った筋肉質な腕を払い除けた。
「今日の夜会、怪しいな」
そう言って、ヴィンテージワインを
にかりと歯を見せて笑うと、口端から金歯が鈍く光を反射する。医者の不養生とは、正にこの事だ。
「何故」
「カーティスの野郎がいつになく楽しそうだからな。今日は一段と羽振り良く、あのきな臭い笑顔を振り撒いていやがる」
「よく見ているじゃないか」
「やめてくれよ。腐れ縁とは言えど、あいつとは長い付き合いだからな。お前とも。もう、お前等の微々たる感情の変化ぐらいは見抜ける自信がある」
オスカーが笑うと口角がきゅっと上がり、大きな口が均等に広がって、隠し事などなさそうな、ただのきっぷの良い豪傑のようにしか見えない。
「まあ、今日ばかりはお前の意見に賛成だな。あいつの笑顔の裏には、欲塗れの思惑があるようにしか見えん」
二人の視線の先で、カーティスは客人に挨拶をして回っている。彼の笑顔は、誰をも魅力する麻薬だ。老若男女見境なく見惚れさせる悪魔の微笑みは、彼の密かなる計略を隠蔽してしまう。
「我が夜会にようこそ」
ほら、また。
その美しい仮面は、ヒビひとつない、精巧な出来栄え。彼の性格を知るオスカーやフィオナにとって、あまりにも完璧な
「やあ、二人共。今日は楽しんでいってくれよ」
オスカーとフィオナは揃って振り返る。
カーティスが悠然と佇み、二人に手を振る。
「お前の顔の広さは一体なんなんだ。人が多すぎる」
「フィオナは人が多いところ、嫌いだもんな」
仏頂面のフィオナを、オスカーが笑う。
「別室で休んでいてもいいけど、面白いところを見逃しちゃうだろうし。二階席にでも座っていてくれ。……ラシャド」
「はい」
「あとで、ゆっくりと話そう」
「おう。待ってるぜ」
カーティスの背後から、すっと現れた執事ラシャドが、丁寧に腰を折る。
「フィッツ侯爵、ダウズウェル伯爵。ご案内いたします」
笑えば愛嬌が溢れそうな、綺麗な造りの童顔は、無表情一色だ。感情が死んでしまっているのでは、と思うほどである。細身ですらりとした肢体は、身長こそ違えど、比較的フィオナの体つきに近しい。
「こちらで、ご
「ありがとよ」
豪奢な欄干で縁取られた階段を登り、二階席のソファに腰を下ろすと、大きな広間を一望することができた。広さを忘れさせるほどの人数がいる事実に、人混みから抜け出したにも関わらず、酔いそうである。
フィオナ達はソファに深く腰を沈めた。脚を組み、グラスの縁に口をつける。それから暫し、潮のように満ち引きを繰り返す人の浪を撫でるように眺めていた。
「なあ、オスカー」
「なんだ」
ダウズウェル伯爵の深謀 南雲 燦 @SAN_N6
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