Ⅱ.

「ダウズウェル伯爵」


 綺麗なソプラノが鼓膜を揺らした。


「エレノア殿。招いてくれてありがとう。今日のオペラは惚れ惚れしたよ」


 打って変わって和やかな雰囲気を纏い、フィオナはエレノアの手の甲にキスを落とし、にこりと殺人級の笑顔を弾けさせた。先程の凍てついた降魔ごうまの相が嘘だったかのような眩しさだ。

 エレノア・フレッチャー。彼女の舞台はチケットが直ぐに完売するという、売れっ子オペラ歌手。歴史あるこの有名劇場のプリマドンナでもある。可憐な容姿に加え、素直でおおらかな性格もあり、社交会でも人気の女性だ。


「こちらこそ。お忙しい中、足を運んでいただけて光栄ですわ。カーティス様も。オペラ好きと伺っていたもので、是非観ていただきたくて」

「本当に良い舞台だった。君の歌、素敵だったよ。しかも演目も素晴らしい、また観に行かせてもらうよ」

「勿論です。カーティス様も、本日の舞台を楽しんでいただけていたら幸いですわ」


 遠くから駆けてくる足音が、会話を遮る。


「エレノア、ここにいたのか! おお、ギャロウェイ伯爵に、ダウズウェル伯爵ではないですか」


 エレノアの側に駆け寄ってきたその男は、二人の姿を見とめると、一瞬驚いたものの、すぐに畏まった挨拶をした。


「この劇場の経営者マスターをしております、テオ・セヴィニーと申します。本日はお楽しみ頂けたでしょうか?」


 精悍な顔付きの、爽やかな男だ。歳はカーティスよりも少し年嵩だろうか。重ねた歳以上に毒と貫禄を食って、捻じ曲がって成長したカーティスなどより、よっぽど真っ直ぐに育ったようだ。言いたいことが伝わったのか、フィオナの視線を、笑顔のカーティスが視線で殺し返す。


「ええ。とても満足しました。また二人で観に来たいね、フィオナ」

「ああ。オペラハウスもセンスが良い。気に入りました」


 二人の言葉に嬉しそうに頬を上気させ、彼はにっこりと微笑む。


「エレノアがご招待したんだそうですね。是非、また足を運んでくださるのをお待ちしております」


 フィオナは、嬉しそうに頭を掻いた彼の左手に光るものを目敏く見つけた。確か、彼女も同じものを持っていたはずである。


「お二人はご結婚なされているのですか」


 フィオナが訊ねると、彼等は揃って顔を赤らめ、わかりやすく照れた。


「いえ、実は今月、籍を入れさせていただきまして……。結婚式を控えているところなのです」

「それはめでたい。何か祝いの品を送ろう」

「フィオナ様、カーティス様。もしお暇でしたら、結婚式にいらしてくださらないでしょうか。その、本当にもし宜しければ、なのですが……」

「勿論ですよ。楽しみにしていますね」


 ぱぁっ。笑顔が咲く。白く小さな蕾を持つ、そう、ラズベリーの花のように。フィオナはその愛らしい表情を見て、優しく微笑んだ。


「まあ、嬉しいです。こちらこそ楽しみにしております。後日招待状を送りますわ!」

「では、この後用事があるもので、我々は失礼させていただく」


 別れを告げ、二人は共にカーティスの馬車に乗り込んだ。豪奢でありながら、気品溢れる造りのキャビンは彼らしさが滲む。


「フィオナは容姿が随分目立つし、バトラー達はこぞって身長が高いから、見つけやすくていい」


 腰を落ち着けたと思いきや開口一番それである。フィオナは前髪をかきあげ、窓から外の景色を見た。夜の帳を下ろし、暗澹あんたんとした静寂しじまに呑み込まれた街。と揶揄されるこの街は、フィオナの瞳には随分美しく映っていた。街灯は少なく、オペラハウスから離れるに連れて外を出歩く人も次第に減ってゆく。それは少々物悲しい。


「カーティス……。楽しむのはやめてもらおうか。悪趣味だぞ」

「いいじゃないか。オペラついでにあんなエンターテイメントが観れるとは思わなかったよ」

「以前からいけ好かん男だった。折角のいい気分が台無しだ。……で」


 お前は何をしに。


 フィオナとは異なり、カーティスは喜劇を好む。滑稽さを滲ませる風刺的な部分が、心底面白可笑しいのだと言う。彼が好きなのは、恐らく会場の皆々が笑っているところではない。それよりももっと深く、もっと本質的な部分におもむきを感じている。フィオナよりもよっぽど性格タチの悪い男だ。


「お、し、ご、と」

「だろうな」

「首、突っ込んでみるかい?」

「できれば関わりたくないんだが」


 カーティスの家が見えた。大きく、荘厳なる屋敷だ。フィオナの屋敷と、雰囲気はどこか似ている。馬車がゆっくりと門を通り、庭を通過して、扉の前に着ける。


「イアン。ありがとう」

「滅相もございません。今夜はごゆるりとお寛ぎくださいませ」


 扉を開けてくれたのは、ギャロウェイ家が執事、イアン・K・ブランシェ。先代の頃より仕えるベテラン執事で、何をさせても一流の腕を持つ。綺麗な白髪が入り混じる髪はさっぱりとワックスで固められており、髭も品よく手入れされている。すらりとした高身長ではあるが、体術も心得ているようで、歳を感じさせぬ若々しさが溢れていた。柔和な表情ばかりを浮かべるが、彼の眼光には時折、年季の入った常人を逸する鋭さを感じる。やはり裏家業を営む家の執事は、並々ならぬ執事でないと務まらないと言うことだ。


「まずは風呂に入ろう。その後ゆっくり、酒でも飲みながらオペラの感想を語り合おうじゃないか」

「いいね。赤ワインの気分だ」

「気が合うね、俺も赤がいい。ラシャド、用意を頼んだよ」

「畏まりました」



  †



「なるほどね。じゃあ、テオ・セヴィニーも狙われる可能性があるわけか」

「ほぼ確実だろうね」


 事の発端は一ヶ月前。

 ホグストン劇場が火事で全焼し、焼け跡から次期支配人であったハメット、その妻と子供三人の遺体が発見された。自然災害。当時はそう処理されていたが、それから間もなくしてヴァリデッティ劇場の団員が次々に辞職し、オペラ劇場界第一線から撤退。隣町のフォートブル劇場も同時期に衰退し、既に其処は更地さらちに成り果てたという。帝国警察が更に捜査を進めたところ、劇場の経営者が退かなければならない事態が幾つも発生していた。


「フォートブル劇場の衰退は覚えている。鰻登りに業績を伸ばしていた劇場だった筈だ」


 フィオナが空いたグラスを持った手を軽く宙に浮かせれば、ラシャドがすす、と前に歩み出てワインを注ぎ足した。

 こうやって、カーティスがフィオナをよく屋敷へ招き、フィオナも毎回了承するものだから、執事達はフィオナの指示にも慣れだものである。逆もまた然り。フィオナの執事達もカーティスへの服侍を忘れない。

 ラシャドが部屋を去る。二人だけの静かで心地良い空間がその場を支配した。


「勢いのあった劇場の突然の廃業はインパクトが強かったね。これらの事件、どれも傷害事件ではないから後回しにされているようなんだけど。まあ怪しいよね」

「アルヴィンが言ってたのか?」

「あいつが易々と俺に話すと思う?まあ、オスカーがあの大声で話すお陰で、駄々洩れだったんだけど」


 カーティスは最近お気に入りだと言うキューバ産のシガーに火をつけ、じりじりといぶした。口内で転がした煙を吐き出し、フィオナに開いたシガケースを差し出す。


「吸うか」

「貰おう」


 ブランドマークを揃えてケースに行儀よく並ぶシガーを、嬉々として吟味する様子の彼を、カーティスは眺めた。うーんと唸りながら、彼は話を続ける。


「実に面倒な案件じゃないか。お前がわざわざ引き受けるものでもないだろう」

「それが、残念。関わってくるんだよ。正直端金だが、先行投資ってやつさ。最近仕事もひと段落ついて暇だしね」


 しきりに燃えていた薪が、弾けた部分に熱の残滓を持ったまま、煤けた煙と共に落ちて砕けた。そして、パチ、パチ、と音を立てて繰り返される。


「音楽業界は永劫的に発展するし影響も大きいからな。特にカーティスのような外交官にとっては、花を添えるのと同じ役割の音楽は大切だろうな」


 オペラは最上の娯楽でもあると共に、貴族の社交場としての役割がある。特権階級を称する者達の生活とは切っては切れぬ密接な関係だ。貴族がオペラ座やオペラ作曲家のパトロンになる事も屡々しばしば。趣味や仕事柄関わりがあるだけでなく、カーティスもそのパトロンのうちの一人で、莫大な金額の寄付を行なっている。


 暫く逡巡していた指先が、一本の葉巻を選び取った。


「選ぶと思ったよ」


 よく分かってるな、とシガーを咥えた口でくぐもった返事と笑いを洩らし、火を付けようとシザーカッターをライターに持ち替えようとした手が横から攫われる。玉響たまゆらな沈黙が降りた。


 フィオナの視線が自分の手を握るカーティスの手へと移り、腕を伝って、首筋を撫でてからその銀眼へと這うのが分かった。怪訝に眉根を寄せる、フィオナの薄い掌と指先の感覚をカーティスはたのしんだ。細い。繊細で脆く、実に美しい。力を込めればすぐに指の数本を使えなくしてしまえそうだ。

 彼は何も訊ねることなく、静かに、カーティスの次なる言葉を待っている。揺れる暖炉の灯りに照らされた瞳は熟れた柘榴ざくろを思わせた。二十になろうかという青年のものとは思えぬ、古雅こがで悠然とした佇まい。瞳の奥に宿す静かさの、なんと明鏡止水なことよ。


 肘掛けが軋んで椅子が鳴いた。芳醇なアロマと珈琲の香りがフィオナを抱き込んだ。少しだけ短くなったシガーの先が少しの灰色を残して赤々と燃え、フィオナの咥えるVを描いた先端をじりじりと焦がしていく。深みのある甘い芳香が混ざり始める。


 ──シガーキスだ。

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