Ⅱ.

  †



 喝采が沸いた。スタンディングオベーションだ。オペラハウス全体が歓声に揺れている。大きく反響する賞賛の拍手、ブラボーとの声、感嘆の言葉。そんな様々な音に混じって、フィオナは、その余韻を思わせる長い息をついた。ベルベットのオペラカーテンが下りると共に、講演が終わる。


「実に気分がいい」

「それはようございました」


 フィオナは目許から離したオペラグラスを、ジャスパーの差し出した小さなクッションに乗せ、ロイヤルボックスの上質なソファに腰掛けたまま、ゆるりかんと両掌を打ち合わせていた。

 全三幕にも及んだオペラ『リゴレット』は、その怒涛の展開を繰り広げ、あっという間に終幕した。


「楽しい時ほど、早く時間が流れてしまう」


 下の階の客がぞろぞろと出口へと向かう姿を、フィオナは頬杖をついて見下ろした。白磁器のような頬の上で、綺麗な指先がタタン、タタンと、ピアノを弾くように降りては離れる。メープルシロップのように酷く甘ったるい愛憎の余韻にでも浸っているのか、将又はたまた、蟻の列を眺めるかの如く、ぼうとしているだけなのか。その深い葡萄色の瞳からは、何も読み取ることはできない。


「お前達は? どうだった」

「素敵な作品でした。色々な形の愛が全て絶望への引き金となっていたと思うと、震えますね」

「私もそう思うよ。良いシーンばかりだ。リゴレットが烈火の如く怒りに狂うシーンも、娘の死に絶望するシーンもな」

「呪いやら誘拐やら、終いには殺人……。せわしいお話でした」

「私は四重唱が気に入りました」

「過激だなんだと検閲ギリギリだったようじゃないか。確かに四重唱は良かった。人格が滲む歌が纏まっていく様は、なかなか見ものだ」


 フィオナは、たん、と肘掛けに両手を置き、押すようにして腰を上げた。背筋が伸びた、凛とした姿勢。薄ら笑みさえ浮かべ、劇中の登場人物が死ぬ度に肩を揺らしていた、先程の悪魔のような彼女はもういない。


「さて。フレッチャー殿に挨拶でもして、帰るとするか」


 執事を引き連れ、ロイヤルボックスを出て、フィオナはカーブを描く廊下を歩く。

 今や、オペラも交流の場と化した。フィオナが歩けば、貴族達の視線がその一身に集まった。彼に近付きたくてしょうがないらしく、そわそわとした仕草が目立つ。ただ残念なのは、彼が放つ近寄り難いオーラと、彼を守る様に歩く執事達の存在があることであった。


「おや、ダウズウェル伯爵ではないですか」


 立ち止まり、フィオナは振り向く。ひび割れ、脂肪の付いた、重いテノール声。


「ウォーレス伯爵」


 でっぷりと太った男が、片手を挙げながら此方へと近づいて来る。だらしのないつらに、垂れたまなじり。ドリューウェット公爵よりよっぽど醜悪な太り方だ。反吐が出る。

 しかし、フィオナの貼り付ける仮面は見惚れるほどにみやびな笑顔だった。


「ご機嫌いかがですかな。今回のオペラ、なかなかに清良せいりょうな作品でしたね」

「そうですね。歌手の方達がまた良かった」


 世間話もそこそこに、ウォーレスはフィオナに付き従う執事達に視線を向けると、明白あからさまに眉根を寄せた。


「まだそのような執事をお使いになられているのですかな」

「……何か、問題でも」


 フィオナの表情はぴくりとも動かなかったが、なぎのように静まり返った瞳は寧ろ、獰猛な怒りを帯びていた。


「以前も申し上げたやも知れませんが、そのギルバート殿とやら、褐色の異国の民ではございませんか」


 フィオナがステッキをつき、身体の真正面にウォーレスを据えた。紫紺の虹彩が、切れ味を増す。嫌悪と軽蔑が、そうさせている。


「ジャスパー殿もどちらのお生まれで? 少々貴族に仕えるバトラーらしからぬ風情ですね。グレン殿はまだ良い方ですが……」


 彼が言い終えるよりも、フィオナの仮面が剥がれる方が先であった。普段は淑やかな口上を紡ぐその唇から、からからと乾いた嘲笑が零れ、右の目を覆う様に置かれた掌からは、驚くほど冷たい眼差しが覗いていた。


「貴殿は、いつまでそのような戯言を?」

「いえいえ、戯言ではございません。私が上質なバトラーをご紹介致しましょう。貴方の様な高貴なお方が、そんな下賤の者をお使いになられる必要はございません」


 この鈍さは彼の命取りであり、フィオナの怒りの引金を引くには十分であることを、彼はいつまで経っても学習しない。彼は派遣会社というものを仕切っている。貴族に執事を提供する、といった仕事もあるのだろう。だがしかし、フィオナにそれを提することは、愚かとしか言いようがない。

 フィオナは心なしか低い声で、お前達は下がっていろ、と執事に命じた。少々不安が残る中、彼らは静かに主人から距離を取り、成り行きを見守る。


「ウォーレス伯爵。いつまで古い価値観に囚われているのですか? そんなもの、掃いて捨ててしまいなさい」

「私は特に囚われておりませんよ……この感覚が通常と言いますか。他のご貴族様方はこの様な執事をお使いにならないですし」


 頭を掻きつつ、さもフィオナの為と思っているところが余計癪に触る。フィオナの奥歯がギリ、と鳴った。


「貴方は通常、と言うが。では、世の常とは何か。この私めにいて頂こうか」


 答えに詰まる彼を鋭く一瞥し、フィオナは続ける。


「浅はかな考えですよ。私は別に、貴方の考えを否定する気は毛頭無いが、私は私の信条を通させて貰う」

「あ、浅はかでしょうか」

「ああそうだ。お前は考えが足りない、ただあし以下だ」


 彼の返答が火に油を注ぐ結果となり、益々事態の雲行きは怪しくなっている。


「あーあ。あれは相当怒り心頭だね、フィオナ。彼の事業生命ももうついえるかな。貴族社会でやっていくには、人間関係も大切だぞー」

「これは、ギャロウェイ伯爵」


 自分とジャスパーの肩に両肘を乗せた伯爵に、首だけ少し回してギルバートは挨拶をした。今日も派手なジャケットを着こなした彼は、フィオナとウォーレスのいさかいを余興か何かの様に捉えているに違いない。にやにやとさも愉快げに笑い、ギルバート達と共に静観するようだ。


「彼は本当にお馬鹿さんだね。フィオナの怒りを買って静粛された輩が、今まで何人いたと思っているのか。奴が怒りを抑えているなんて奇跡に等しいじゃないか」

「このオペラのお陰ですね」


  「ああ」と、古くからの知己の友は察しが良いご様子。


「これが公然の場でなく、ご主人様の許可さえいただけたのならば、私めが嬲り殺しておりましたものを」


 ジャスパーが低く唸るように言う。


「ダウズウェル家の毒牙は顕在、と。まあ、彼の言葉は君達にとって、一言一句が宝物になるんだろうね。宝石箱に取っておきたい、とでも言いたそうな表情かおをしているよ」

「私方の為にあそこまで言ってくださる主人は、この世にまたとございません。フィオナ様の為ならば、我が身をして、何でも致しましょう」


 そう答えたグレンに、カーティスは爽やかに笑む。


「彼が主人だからこそ君達が執事でいられる事と同じように、君達が執事だからこそ、彼が主人でいられるのかもしれないよ。確かに、彼が酔狂すいきょうであることには変わりないが。奴があのような混沌カオスな思考回路を持っていなければ、ダウズウェル家の今の成功はなかっただろうしね」


 そんなことを話している間にも、フィオナの頭に血は登るばかりで、完全に怒り心頭。今や誰の言葉にも耳を貸さないだろう。周囲もこの争いに気付いたようで、騒ぎが大きくなっている。しかし、フィアナが我を忘れることはない。彼の身体は熱くなる一方だったが、それに反して頭は冴え、冷静であった。


「貴様。尚、私に口答えする気か」

「口答えなど、滅相もございません。ただ、私は貴方様を慮る一心にございまして……」


 何が伯爵を怒らせたのかわからない彼は、しどろもどろである。


「その肥えた醜い面でよく言えたな。そのめしいた目でよく見ろ、我が執事の琥珀の様な滑らかで美しい肌を。他の誰も纏えぬ魅惑的な佇まいを、純金を溶かし込んだかのような淑やかなゴールドの瞳を。誰がどう見ても、価値の差は歴然としている」

「あ、え……」

「時代も世界も、お前の言う通常とやらも、今に廃潰することを覚えておくと良い。貴殿が今後も、この社会で生きていきたいと考えるのならばな」


 何の恐怖からかは分からない。ただ、全身の毛穴は開き、じわりとかいた汗が鳥肌が立った首筋をつたった。恐怖と緊張で顔面が蒼白になる。


「話は終いだ。お前の言葉は耳障りな不協和音のようだ。……すっかり興が冷めた。即刻私の前から失せろ」


 そう唾棄した時。


「やぁ。フィオナ」

「カーティスか、何用だ」


 伯爵が逃げ去って行く様子を舌打ちをして見送るフィオナは、カーティスの方を見向きもせず苛立った声で返事をした。


「今日の夜、うちに遊びに来ないかい」


 「いく」と半分やけくそ、半分条件反射で二つ返事する様を笑って、カーティスはフィオナと共にオペラハウスの出口に向かって歩き出す。


「今はご機嫌が優れませんので、後日改めてご挨拶にいらっしゃった方が宜しいかと」


 貴族達がこぞって、我こそはと社交の挨拶をしようとするのを、執事達がことごとく断わりながら、廊下を闊歩する。

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