【第二章】巴里は燃えているか

『では、ゆっくりと目を開けて下さい』


『そうです。ゆっくり、ゆっくり目を開けて下さい』


 一九九七年、秋。

 東京都品川区高輪のビルの最上階にオフィスを構える、有限会社「パーラム」は、イイダを中心とするゲーム・クリエイターの巣であった。

 会社名パーラムは、梵語で「彼岸」を意味する。設立メンバーはイイダの仲間であるYama、榑柳だ。Yumaが「彼岸主義」を掲げ、厭世の現実の先を見据える、という意味合いを込めて付けられたが、それをイイダもえらく気に入っていた。しかしこれは彼の好きな駄洒落的なダブル・ミーニングで、プログラミング用語の「パラメーター」の意味も内包する。

 イイダが彼岸の存在をデジタル世界に還元しようとする試みの前に、この会社は設立されていた。しかしながら、その数学と神話の境界の曖昧さは、彼の属する組織が暗に意味しているのを、単なる偶然とはイイダは考えなかった。蓋然性、という言葉が一番しっくりくるのではないだろうか。


 内部は小綺麗なオフィスで、煌々と蛍光灯の列が清潔な光を落としている。少数精鋭のパーラムはそれほど広くはないが、最新鋭のコンピュータが揃えられ、社員各々のデスクが用意されている。回転椅子は長時間作業にも耐えられるように、個人個人で好きなものを購入した。

 デスクは性格が出るもので、イイダの席にはレザー・フェイスのフィギュアが飾られており、彼は時々少年のような顔で、仲間だけでは飽き足らず来客にまで自慢した。会議机には乱雑に書類が積み重なっている。そこには孤島の地図や島民、塔、ドルメン、モニュメントといったコンセプト・アートから、何かしらのプログラミングの値を示すものや、黒インキの想像力が変幻自在に踊る企画書が煩雑な秩序という矛盾で、想像のエネルギーを肯定している。

 気分でも変る為のジャングルだ、と叫んだイイダが、無理矢理シダ・フローラの観葉植物を購入したが、二週間もすると、イイダ自身も含めて誰も見向きもしなくなった。


 コンピュータ・デスクに向かい、パソコンに接続したヘッドフォンで何かを聴きながら、無言のままマクドナルドで買ってきたチキンナゲットを三ケース、ぱくぱくと食べている。これは周囲がよく目撃する光景で、彼は同じものをひたすら頬張っている印象だ。

 蓬髪に無精髭、黒縁眼鏡をかけたイイダの後ろ姿を見て、Yama、榑柳。少し遅れてパーラムに参加したグラフィック担当の岩澤の三人は、ほとほと呆れ返りながら嘆息を漏らした。

 

 一昨年、一九九六年の末に、「任天堂」「エンプロイー」「メディアファクト」の三社で新設したばかりの、「リーガル・マネジメント」というゲーム投資支援会社から、新しい合同プロジェクトの提案があった。それに最初に好意的感触を示したのは榑柳だった。

 それは、デビューから二本のゲームを世に発表し、名声を欲しいがままにしたイイダが、意見の齟齬での対立で前会社を退社した後、半ば隠匿生活をしている彼を、ゲーム・クリエイションの現場に引き戻すには最適のきっかけだった。

それまでのパーラムの仕事は、小さなパビリオンなどの仕事が主たるもので、テレビゲームとイイダには距離があった。それよりも彼自身がが、あまり現場復帰を望んでいない節があったが、やはり彼はナチュラル・ボーン・クリエイターだった。

 イイダは退社後ももっと資本の大きな他の企業から引く手数多だったが、クリエイションの質としての時間の確保、冒険のリスクを容認する環境、正統な対価。この三つの側面から全ての誘いを断った。先鋭的に自身のコンテンツの権利問題に関しても意見していたので、企業のお偉いさんからは煙たがれる、といつも自虐的に笑っていた。

 それでも彼は、パーラムでのインスタレーションやインターネット・コンテンツで、新しい自身のスタイルを確立していた。

 この頃のイイダは半ば若隠居の趣で、実家に篭り弟の買ってきた『スーパーマリオ64』をプレイし続ける日々だった。そんな彼が散々「Nintendo 64でゲーム作りてー」と周囲に溢すのを、皆が見逃さなかったのだ。榑柳もその一人だった。

 任天堂の伝説的ゲーム・クリエイター・ミヤモトも、リーガルのクリエイターに「君らも好きにしろ」と激励を送り、イイダもその言葉に痺れた。様々な人々の思惑が合致した。

 結果、この企画は動き出した。


 「巨人」をモティーフにしたゲームを作る、と宣言したイイダだったが、榑柳と二人で考えた最初の企画書段階の「巨人が人を助けて、島の大地を操り、愛を貰う」というコンセプト以上は、ゲームシステムの指針はなかなか決まらなかった。イイダが上げてくる企画書は無数の「お互いの関係を重んじる人間主義」「建築の自己表現性と自然への敬愛」「ゲームは神話の神々の戯れ」「エキゾチシズム」「ルソー」「アサノタツヒコ」「伊福部サウンド」といった謎めいたコンセプチャルな言葉の羅列ばかりだった。

 そもそも肝心の巨人のデザインに関しては、不明瞭のままだった。


「僕はそれなりにDDのユニットの研究は進めていますが、なんせ未発売のハードなので手探りな所が多いですね、発表時期もここまで来ても未定ですし。それに……」 Yumaが言いかけたまま、そこで言葉を切ったが彼が続けたかったのは「肝心のディレクターが沈黙していてはね」ということは他の二人も察した。

 それでもプロジェクトは着々と進んでいくのが、パーラムだ。

「まぁ、渋谷系ゲーム・クリエイターなんて言われてる人だし、斬新な巨人像とゲームシステムを提供出来なきゃイヤなんでしょう。啖呵切ってやめちゃったアルテ・ディンカーとは制作の勝手が違うのかもしれないし、気長に待ちましょうか……。でもああいう人がホントに似合ってるのは、渋谷じゃなくて中野とか高円寺の気がするけどね」榑柳は、イイダの時代の寵児のようなキャッチコピーと、着古したジャージが似合う男の姿の乖離を楽しんでいた。


 イイダは夜になれば、「ゲームの天才」と呼ばれる気鋭のゲーム・クリエイターであるイイノの一味と、都心を我が物顔で闊歩するものの、独りでいる時はぼんやりと夢想に耽っていることが多かった。それか上手いのか下手なのか分からないギターで、RCサクセションを歌っている。

 しかし最近は榑柳が、いくらディスカッションの末に「巨人」のスケッチを提示しても、イイダは目を通しているのかいないのか分からない。最初は美大出身の彼が、乗り気で次々とコンセプト・アートを提案してくるので問題なかったが、ある日突然それが止んだ。

「そもそも散策系のゲームの先駆者だから、そこからの前進には時間がかかるのも必然でしょう。気長に待ちましょうか、その為のパーラムとリーガルですし」唯一の常識人と揶揄される岩澤はそう述べたが、イイダの絵画的才能も含め、クリエイターとしての一種の天才性を、他の仲間同様に当然のように信頼していた。

 皆が皆、多少時間がかかっても、納期に間に合えば彼の思い通りにやって欲しかったし、提唱する「バンド的グルーブ感」というクリエイションも、社員全員でグランジを演奏するようで、懊悩もあるがその反動で彼らの欣快するところも増えた。それに作品の規模に対して人数が多くないことも、制作期間に余裕を持たせる結果に繋がった。


「それにしてもイイダさん、随分長いこと帰って来なかったですね」Yumaの言っているのは、先日の社員旅行で出かけたバリ島への、取材を兼ねたバカンスのことだった。

「半年近かったからね。あんまり話したがらないけど、バリ島を経由して一人で南方に行っていたらしいよ。相変わらずの変人だよ」イイダの口からは多く語られないエピソードだが、一応は岩澤を含めた皆が知っていた。

 だが、そこが南方の何処の国なのかは、誰も知らない。

 そして、イイダが何故そこに向かったかも、永遠の謎のままであった。

「まぁ……お父さんの件もあるんだろうね」榑柳がぽつりと遠くを見て言った。

「随分痩せたし、心配ですよ」Yumaの出会った頃と比べると、イイダは性格こそぼんやりした何を考えているのか分からない男のままだったが、見た目はゾッとするほど痩身になっていた。

「そういえば帰国してからだな……急に巨人のコンセプト上げて来なくなったの」榑柳が思い当たったように回想した。「やっぱり心情の変化かな……島の名前、バルトゥ島なんてキワどいのに決めちゃったし」


——最近、イイダの父が他界した。

 社員は総出で葬儀に出席したばかりだった。まだ五十代前半で、働き盛りの若すぎる急逝だった。イイダはこれといって何も言わなかった。だが幼い頃、昼下がりに父の膝で一緒に『キングギドラ』を観た思い出を語った。言葉には出さないものの、周囲の間ではそれが何か彼の死生観に影響が与えたのは、確固たる真実のような気がした。


 パーラムは明確な仕事の勤務時間を設けていない。自宅でコツコツやり出社しなくてもいいが、仕事が遅れれば白い目で見られる。実力主義、能率主義を優先し、仕事がしたい時に、したいだけ出来る環境だ。それはかつての職場の「アルテ・ディンカー」の四角四面な規則で、発揮しきれなかったジレンマが元になっているらしかった。当然、発案者のイイダも御多分に洩れず、一般企業だったら勤務怠慢だと言われそうなくらい不規則な出退社を行っていた。

 しかし最近は、定時になると、機械仕掛けのように正確に帰宅していく。彼にしてはその規則性は珍しい光景だった。「イイダさんも彼女には弱いなぁ」という周囲の皮肉には、いつもなら軽口で戯ける彼が無表情で口を閉ざして会社を後にするので、それが逆に不気味だった。

 その頃には、ゲームデザインの芝野、プログラマーの八本、クールガイといったクリエイター仲間も合流も決定して、パーラムというゲーム・クリエイターの楽園は、一段と活気を見せ始めていた。


 イイダはチキンナゲットの箱をひっくり返すと、中に残ったカスをぽんぽんと口の中に入れた。そして手を払うと、マウスを操作して、モニター用音楽再生ソフトのトラックを1に戻した。


——気が付いたら、この音源がパソコンに取り込まれていた。


 この音源、どうしたんだっけ、と思いながら再生していくうちに、何かに取り憑かれたかのような衝撃で反復再生を続けている。

 流れてくるのは、シャーという、雑音だけだったが、このチルアウト・ミュージックの限界値。丁度、ジョン・ケージのような音楽を、ミクロネシアの島から帰国して数ヶ月以上、一日十時間以上は聴き続けている。最初はただの無音だったが、最近では一種の瞑想行為のように、その先に靄のような色が蠢いた。 

 ノイズの中の色、それは決してRGBバランスのメーターの数値には変換不可能な、不思議なものだった。直近では何かの景色が見えた気がする時もあった。それは刹那的な反復で、夢から覚めた瞬間にその内容を忘れてしまっているのに似ていた。

 デビュー作は、エンディングのない海洋探索ゲームで、ただただクライン・ブルーの世界を一人称視点で遊泳するシステムは、一種の瞑想ゲームと評価された。

 だからこのブラウン管の鉛のような深淵を覗き込みながら、コントローラーを片手にこの音だけが流れ続けるだけの、究極にミニマルなゲームも面白いかもしれない、と妄想したが、せっかく立ち上げた会社も同時に、細胞レヴェルにミニマルになり、負債を残して自然消滅するだろう。

 イイダの中で、殆どのゲームシステムの構想は完成していた。

 『ポピュラス』『Sim Earth』『Age of Empires』……。

 インゴ・ギュンターの「ワールド・プロセッサー」をよりゲーム的感覚で……。


 四十九回、海から島へ現れる巨人は、大地を上げ下げして島を造る。住居や樹木を運び島民を助けて愛を貰う。その愛で巨大化していく巨人は、他民族同志の交流と、モニュメントを作る村や島民の発展を見守るのだ。


 ここまでは、他のメンバーとも共有しているので、後は完成図に向けて開発を進めていくだけだ。

 

 そうだ……。

 移動距離、成長指数、島面積、人口、可視化された愛の数、モニュメントの建築 数……。

 巨人の痕跡を数値データ化して表示してはどうだろうか。

 やはり、ゲームは面白い。

 ところで、エンディングはどうなるのだろう……。

 それは、とうの昔に決まっていた筈だ。

 旅に出る度に、必ずそれは決まる。

 どうしてだ?

 どうして、思い出せないのだ……?


 机の棚からケント紙を取り出すと、久しぶりに3Bの鉛筆を握った。硬質な木の感触が学生時代から手放せない郷愁を誘った。

 今まではギー・ドゥボール的な、政治とのコミットによる、表現の不自由性について考えたことはなかったが、ある種の制約上で成立する芸術も存在する。それにドゥボールの「生活の地図」については興味があった。だから今回の作品では、自由に生産可能な島の地図のナラティブ性については再現したかった。


 急に美大時代の恩師からの薫陶が思い出された。大量生産の芸術家のデュシャンだ。可能ならばマルセル・デュシャンのような世界、彼の遺したオプティカル・アートの原型のような作品……。『大鏡』における、皮膜のような極限まで「薄い」世界へゲームを通じて到達できるのではないか。その「薄い」部分は人間の五感を超えている。

 そして、既存の常識を破壊していく。エルンストとダダと反戦、ブルトン的シュルレアリスムの超現実が現実になる無秩序、という秩序。この世は、「解剖台の上での、ミシンと蝙蝠傘の偶然の出逢いのように美しい」のだ。

 コンピュータは油絵のように乾くのを待つ必要もない。キャンバスサイズに制限はなく、そこでは絶対的に完璧な直線や正確な円が描ける。コピー・アンド・ペーストで一瞬にして量産可能。ベンヤミンやウォーホールの考えた、ポップ・アート、つまり複製芸術の局地だ。

 そこからイイダのコンピュータ・アートの模索は始まった。

 ここまでの美術のポストの反復の世界が介入したら、限界まで表と裏の隔たりが小さい、「薄い」死と生のように曖昧な領域の表現。そこはアナーキーでいくらでも量産と消費が可能……。それが0と1の世界なら可能な気がした。

 そう、これらの先に、ゲームを芸術として定義することは、イイダの脳内では完成形を見ていた。


 そこまでニューロンの動きが高回転エンジンのように加速すると、急に聴覚を通して、22.05ヘルツの先の音が聴こえた。実際には聴こえてはいないのだが、ノイズの先には、確かに記録された『何か』がいて、それが無形象という形象を持って姿を顕そうとしている。色彩感、質感、素材感、肉感、物質感……。

 そういったものではない、百鬼夜行。魑魅魍魎が跋扈するような無意識の部分に、『何か』は、この音源を聴き続ける中でずっと存在していたのだ。それは脳の検閲が物質的安定の現世への来訪を歓迎していなかっただけで、存在はしていたのだ。


 しかし、何故この音源の中に、ゲーム構想の『巨人』がいるのだろう?


——断片的な会話。

——メビウスの環の破れ。

——トポロジー。


「通常の言語を越えて、言語の彼方にもあるということを明らかにするのだよ……」

「その破れから来訪神は現れる。あるいは高神ならばトーラスの穴かもしれない」


——あんたは誰だ?


 急に鉛筆が操り人形のように、勝手に動き出した。自動書記だ。手の筋肉に与えられる刺激は、シナプス回路がテロリストに占拠されたように、己の意思が全く望んでいない挙動を始める。それは驚異的な速度を持って、人型らしきものを描き出そうとしている。

 黒炭の線は、牧場から解放された馬のように、ケント紙の上を縦横無尽に駆け巡る。イイダは身を委ね、茫然自失でその様子を眺めるしかない。確かに描いている。だが同時に描かされている。秩序は粛然とした儀式で破壊されていく。

 西洋紙の上の黒馬と巨人の、偶然の出会いのように美しい。

 絵が出来た。 

 そこには一体の、実に可愛らしい巨人のイラストがあった。

 寸胴な身体に、細長い手。足は五つ指でニンゲンと同じだが、極端に短い。腹部の少し下には臍らしきものがある。そして、小さな顔のその表情は、シンプルな、初めてコンピュータを使った子供の落書きのような、ポップ・アートの茶目っ気のあるものだった。


——これが、神話の巨人の姿……?


「説明しただろう。巨人は例え絵画に媒体を変えても生きる。つまりそれが君のシナプスとニューロンを介して個人イメージに翻訳されても、その本質的な骨格は変わらない。巨人の力は伝播するのだよ。その可愛らしい姿は、君の対称的思考そのものなのだ」


 『駄目ですよ、目を開いては。まだ、治療の途中です』


 無言でデスクを立つと、榑柳の元に向かった。

 彼はイイダの強ばった顔に、一瞬疑問を覚えながら尋ねた。

「イイダさん、どうしました?」

「巨人のデザイン、これでどうかな?」ケント紙を差し出した。

 榑柳は長期間放置されていた仕事の、急な提示に驚いたようだったが、まじまじとそのスケッチを眺めた。

「ゲームコンセプト、プログラミング、グラフィック……何か問題はありそう?」イイダは少し心配そうに尋ねたが、これしか答えがないような気がして神妙な面持ちで答えを待った。

「これはなんとも可愛いですね、凄くシンプルで。マリオやリンクのような複雑な個性もないし、斬新だと思います」素直な感想だった。今までに二人で暗中模索し複雑化していく、練り上げてきた巨人のイメージからの大きな方向転換だった。

「無垢なものになってしまった、とっても無垢なものに」イイダは照れ臭そうにニコリと笑った。

「良いじゃないですか、イノセントな存在だからこそ、このシンプルな造形なんですよ」

「でも、巨人をそんな単なるイノセントな存在にしていいのかは分からないんです。もっと複雑な存在な気もするんです……。カオティックで空虚な……」

「カオティックですか……それは憎悪のような?」

「神話の巨人って、そういった善悪はないですよね?でも、それではゲームとしては成立しないんです」

「ゲームにするならキリスト教的なシンプルな二分化でいいと思います。例えば、この巨人はLoveなんです。人々を助ける愛」榑柳がスケッチを指差した。

「その逆にはHateがいるんですね。そしてそれは破壊の限りを尽くす。ものをブッ壊して、人をブッ殺すゲームは最高ですからね!」

「そうです、イイダさんには、そっちの巨人も描いてもらわなくちゃ」

「やります……いや、どうもやらされそうですねー」

 ここまで会話した榑柳は、帰国後にどこか上の空で、一種陰鬱として様子がおかしかったイイダの、いつものお茶目さが戻ってきたようで安堵した。彼が何かを乗り越えて、そして次の壁に向かい、それを越え更なる高みに向かおうとしているのは、天才のヴァイタリティの回復として、素直に嬉しかった。

「分かりました。それらをベースに、みんなでシェアしてブラッシュアップしましょう」

「ありがとう」イイダはこの「描かされた巨人」に一抹の不安があったが、久しぶりに心からの笑みが溢れたような気がして、少々気恥ずかしかった。

 そしてもう一枚、彼は憎悪を表現しなくてはならない。これは難儀だった。

 一瞬、それを言おうか躊躇ったが、因果律の永久機関の歯車に、自分が組み込まれている錯覚の拭えない彼は朴訥と続けた。

「僕ね、最近、天から声が聞こえるんですよー。天の声、それ、組み込んだらどうですかね?」

「面白そうですね。例えば説明的な操作方法のチュートリアルを省いて、それを天から啓治のようにして、物語形式で説明するのも斬新ですが……でも、大丈夫ですか?イイダさん」 

 彼の突拍子もない言動と発言、そこから生じるアイディアの斬新さは今に始まったことではないが、その声の嵐の前触れのような不穏なざわめきは榑柳に不安感を与えた。

「多分、疲れてるんす」

 イイダは、眼鏡を額にずらすと、半眼の瞼を擦った。


 ゲーム制作も佳境を迎えたある日、イイダは自宅のアパートに帰って、暫くテレビを眺めていると電話が鳴った。

 電話の相手は、友人……なのか分からない友人のイイノだった。

「イイダさん、ご飯行こうよ!」その声は少年のように快活だ。

「別に良いですよ」いつものことだったので、イイダは付き合う方も大概だ、と思いながら二つ返事をした。

「じゃあ、明日の朝五時にマンダリン・ホテルね!」

「朝五時!?」

 そうだよ、じゃあ明日ね、と言って電話は切れた。

 翌朝、仕事に疲れも取れないまま、渋々始発に乗り込んだ。なんで俺はこんなことをしているのだろう、と各駅の度に反芻しながら、方向転換して帰宅しようとするが、何故かどんどんと目的地に向かってしまう。

 到着したホテルはモーニング・タイムだった。

 レストランの席を陣取った目的の男は、遠方からでも一目で分かる。

 長髪で身体が大きく、態度も大きいからだ。

 イイノは、一九九五年に株式会社「ワープ」を設立して、独創的で斬新なゲームを発表し続ける、気鋭のゲーム・クリエイターだ。昨年は「プレイステーション・エキスポ」でセガサターンのロゴをスクリーンに大写しにする事件を起こして、ゲーマーと世間を大いに騒がせたばかりだった。

 イイダは「ゲームの天才」とマスコミで持て囃されるこの男を、一度も天才だと思ったことがない。寧ろ、自分の方が天才だと思っている。夜の恵比寿の街中を闊歩していると、メディア露出の多いイイノは、よく酔っ払いやファンにサインを求められた。悔しいのでイイダは色紙の上に、彼よりも大きく自分の名前を書き込むと「俺のことも覚えとけよ!」と叫んで二人で遊んでいた。

 イイダとイイノは一文字違いなので、よく間違われる。

 そして、イイダの方が年上なのに、何故か兄貴肌だ。それは誰に対してもそうだった。


「おはようございます」

「キタキタ」

「こんな朝っぱらから何食べるんですか?」まさか、いくらこの奇人でも朝からフルコースは食べないだろう。

「お粥」

「じゃあ、僕もそれで」

 始発で都心までわざわざ出てきて、どうして男同士で粥を食べなければならないのか、さっぱり分からない。だが、この男が嫌いではない。あくまでも、嫌いではない。そう、嫌いではない。

「最近、何聴いてんの?」音楽に造詣が深く、才覚もあるイイノが尋ねた。

「ボアダムスとかKLF」

「ふーん。良いの? それ」

「イイノさん、YMO好きだからねぇ。後、ビートルズでしょ?」

「なんで、良いじゃん」

「僕は別にそうでもないから」

「じゃあ何?」

「パンクに決まってんじゃん! スターリンだよ!」

「平沢進さんとか鈴木慶一さんとかラジオに呼んでる俺の方がよっぽど凄いな」

 テレビやラジオでのパフォーマンス的な発言でメディアを騒がせるイイノだったが、殊更それを自慢する気はないらしい。

 そして、この粥も別に美味くない。

「半年近く行方不明だったじゃん。何してたの?」

「旅行」

「良いねー旅行。俺も行きたいよ、タトゥイーンとか」

「イイノさんはダゴバで少しは修行したら?」

「どうよ? 新作は」粥の匙を進めながら、イイノがぼちぼち切り出した。

 この男はイイダと同じで、ゲーム、表現という行為にはどこまでも真摯で情熱的な男だった。

「まぁね、追い込みだから」予定ではαダッシュ版が出来るのには、そう時間はかからない。

「まだまだ見えない部分が何ヵ所かあってね。そこはかなり慎重になってる。ナレーションの天の声が聴こえる、みたいな。なんていうの『実況ワールドサッカー3』みたいなのを、もっと神話的にやりたいんだけど、声優が決まんないんだよね。オノ・ヨーコみたいな声がいいんだけど」

「女優の緒山たまえさんなんか良いじゃん。優しい天の声っぽいよ。NHKで『日曜芸術紀行』やってるし、イイダさん、ファンでしょ? 緒山さんの」

「いいねいいね! でもイケるかー?」

「とりあえずオファーだけしてみなよ。意外と興味持つかもよ。サウンドデータに関してもDDの大容量で作ってるでしょ? 俺はサターンだけど」最後の一言は、例の衝撃的な事件のことだろう。

「DDの構想ってさ、大容量の書き込みだよね。やりたいことを全部詰め込めるってのはさ、やっぱり共感するよ。ヤマウチさんが64以降の家庭用ゲーム機のヴィジョンが欲しい。それがなければゲーム文化は衰退するって」任天堂の社長のヤマウチとの会合でDDの発売時期の相談をしたのは、つい最近のことだった。

「元々イイダさん、芸術畑の人だからね。それに今はビデオゲームの青春期なんだよ。青春ってダメダメじゃん。でも、俺らみたいな人間はさ、悪いところは治せないんだよ。だから良いところを思いっきり伸ばせば良いわけ」

「まぁ、悪いところをいまさら治しても、伸び代なんかたかが知れてるしね。逆にその治療が面白いものを作って、世の中を楽しくするっていう僕らの信念のバイアスになるね」

「俺もさ、今はインタラクティブ・シネマなんて言って持て囃されてるけど、その伸び代がどこまで続くかは分からないな。意外にもお互いに二十年後はインディーズでぼちぼちやってるかもしれないし」そこでイイノは長髪を掻き上げて、苦笑いした。

「確かに。僕も『グラフィック・シンセサイザーのファイン・アート系の作風』って大層な世間や批評家の評価も分かるけど、僕のは自分の好きなカルチャーや芸術を詰め込んだらこうなるよね、ってゲームばかりなんだよね。——でも今はもっと大きな……」


 そこでイイダの脳裏に、あのノイズが流れ、曖昧模糊な色が万華鏡のように回転して見えた。


「どうしたの?」イイノの匙の動きが止まった。彼は些細な動きから人の心を読む。

「——いや……売りたいんだ、できるだけ多く。というか売らなきゃいけないって感じ。なんか誰かに命令されてんだよねー」イイダは務めて冷静に答えたが、あまり売り上げを紙の上の数字では気にしない彼にしては珍しかった。

「ゲームは産業だし、そもそもビジネスだからね。でも売れるエンタメなんて理論じゃなくて、集団制作の必然の幻想でしょ。今イイダさん良い仲間がいるんだから。それに今の異端が未来のスタンダードになる。そういう意味では、俺とイイダさんは同じ軸で評価されるべきだと思うよ」

 普段は一切言葉にはしないし作風も異なるが、イイノは根が同じだというシンパシーに似た何かを感じている。それはイイダも同じだった。

「ゲームを作る時、外側にあるものや、自分の中に無秩序に存在している記憶や体験を、作る過程で整理しているんだと思うんだけど、今回はその外の部分が強烈なんだ」

 イイノは表面的なイイダの言葉は当然理解しているようだったが、もっと言葉の深淵にあるものを見つめようとしているらしい。

「イイダさん、結局、外側なんだよ。俺はさ、想像はデザインだ、テクノロジカルで子供の遊戯を超えたクリエティブジャンルとしてのゲームだ、なんて大層なことを言ってみたけど……」

 そこで、ぼんやりと、ここではない想像の水平線を望んだ。

「——最後は人と人なんだよね」


 一九九九年、冬。

 イイダはフランス、カンヌで行われるゲームの祭典「ミリア・ゲームズ」に作品を出典する為に、単身渡仏した。

 プロデューサーの舛田は四苦八苦だったが、新たなるプログラマー佐々山の参加によって周辺が整理され、音楽も浅田によってエキゾチックなものが完成し、ゲームデザイナーの芝井の最後の参加が期待され、開発は順調に進んでいた。


 そのβ版が、カンヌで関係者以外に初めてのお披露目となるのだ。かの有名な国際映画祭の開催されるホテル・バリエール・ル・マジェスティクスは、五ツ星ホテルに相応しく豪華絢爛だった。シンメトリックなアールデコの外観は、磨き抜かれた大理石のように白い。椰子の木が等間隔にガス燈のように並んで、宿泊客を歓迎している。百メートほど近くのプライベートビーチは、コバルトブルーに輝く地中海の光を乱反射して、一流の蒐集家のコレクションの宝石のように美しかった。

 海外クリエイターが大半の中、日本からの参加者はイイダが歴史の中では殆ど初めてだった。レッドカーペットを気合いを入れて、大島渚よろしく借りてきた祖父の着物姿で歩いた。ここが勝負所と言わんばかりに、わざわざ持ち込んだ赤い褌を、人知れず履いて望んだ。


 見本市会場に並ぶ、海外クリエイター達の制作するゲームは、オール・ジャンル、多種多様で、イイダを大いに刺激し興奮を隠せなかった。日本では『バイオハザード』や『シェンムー』が大流行だったが、海外では『レイマン』が話題になっており、イイダも中々気に入ったゲームだった。これからは、グローバル展開で、どんどんとゲームも国際化、アート化していく希望と、イイダの示唆した通りゲームというコンテンツの、未来への展望は明るいことは間違いがなさそうだった。

 夜に開催されたパーティーでは、海外勢とディスカッションを繰り広げながら、豪華な食事を前にして、ぱくぱくと新鮮な牡蠣ばかりを食べていた。

 謙遜はしたものの、自作の評判はなかなかなものだった。自由度の高いゲーム性と、南国の島のナラティブは、特に世界的な視野で見ても興味深いものだったようだ。クリエイター同士の切磋琢磨と、日本のゲームを世界へ提示できる同時の喜悦が、母国から一万キロの「偉大なる海」に囲まれた大地でイイダを包み込んだ。


 ——日本のゲームを、世界へ。

  これはイイダの夢だった。


 カンヌでの数日の滞在で、大凡の仕事と観光を済ませた彼は、パリへ移動した。

予約した石造の十九世紀初頭に建てられた由緒ある一流のホテルに滞在しながら、ガイドブックを捲りながら芸術の都での観光地を選んでいた。二、三時間かけて行った、電話回線へのLAN接続には四苦八苦したが、何とかネットワークに接続したイイダは、業務連絡と自慢の言葉をつらつらと書き連ねたメールを多方面に発信し、窓から遠方に見えるエッフェル塔を眺めながら、煙草を吹かしていた。


 イイダがルーブルの前に散歩道に選んだのは、十八区のモンマルトルのラビュット(丘)だった。ここはキュビズム誕生の地として有名だった。十九世紀、売れない貧しい画家や詩人達が芸術集団を組み、農村風景の残された安アパートで葡萄酒に酩酊しながら、各々の表現を模索していたのだ。それは日本では武蔵野の発見や、新宿の ゴールデン街に似ている気がした。

 アンヴェール駅で、メトロを下車した外は数日前に雪が降ったのか、その珈琲色に変わった残滓が寒々しかったが、規格的に保護された均一な高さの、歴史の記憶を内包した重厚な街並みは暖かった。サクレ・クール寺院に向けて地図と景色を眺めながら、歩みを進めた。

 小さな商店の看板一つにしても、日本のように自己主張が強くなく、クラシックなフォントで流麗なフランス語が赤や白の庇の上で踊っている。信号は地中から立て看板のように、細やかに伸びており、電線が邪魔して億劫な東京とは印象が違う。それよりも手入れの行き届いた、今は束の間の休息を楽しんでいる街路樹の方が遥かに高かった。少し視線を上げれば、壁や手摺り、プランターの飾られた窓一つにまでアールデコの緻密な装飾は施された建物は、安っぽく模倣したフランス料理店とは大きく異なっていた。

 ソル通りに残された、都会とは思えない黄銅色の煉瓦造りの壁に囲まれた、奇妙で小さな葡萄園の周りはそんなに人通りが多くなく、そこだけがまだ百年前のままの農村地帯のままのようだった。ここで採れた葡萄で出来たワインを、先人の芸術家が嗜んでいたと思うと、そのロマンチシズムに胸が踊った。

 晩年は、ここでのんびりアパルトマンを借りて、油絵でも描いて暮らした。イイダはそんな夢想に耽っていた。


 帰り際、メトロ駅の近くで小さなカフェを見つけたイイダは、少し休んでいくことにした。何となく気取った彼は、わざわざテラス席でガスストーブの前に陣取り、旅行者向けの通訳本で覚えたてのフランス語で、フレンチコーヒーを注文した。


「Voulez-vous vraiment partager une table?」


 近づいてきた男に、急にフランス語で話かられたので、イイダは答えに窮したが、どうやら相席を求めているらしいので、素直に「vous voilà」と旅のお供の載った付け焼き刃の言葉を披露した。

 無事に発音が通じたのか「Merci」と笑顔で男は答えたので、イイダは内心はしゃぎながら、俺の世界進出も近いな、と訳の分からない確信を抱いた。とはいえ、なかなか会話は続かない。

 男は歳の頃で、三十くらいだろうか。自分とあまり変わらない気がした。黒いトレンチコートを着こなした痩身で、如何にもパリジャンといった趣きだ。顎の細い顔には、日本人がかけると安っぽく、ナードで野暮、あるいは場末のコメディアンになりそうな、セルロイドのフレンチフレームの眼鏡が、高い鼻筋の上に乗っている。その先の一重の眼と瞳が輝いている。口元が紳士的にほぐれているが、それがどうにも外行きの顔のような気がした。


「観光ですか?」男が今度は英語で話した。

「仕事と観光の両方です」それなりに堪能なイイダは安心して答えた。

「パリは楽しんでいますか?」

「良い街です。老後はここで絵を描いて暮らしたいです」

「国はどちらですか?」

「SamuraiのJapanで、私もSamuraiです」

 男はイイダのジョークに素直に笑ったが、何か目の奥に翳りがあった。コーヒーカップを口に運んだが、その瞬間もイイダから目を逸らさなかった。

「——日本は良い国ですね、四季折々で山の幸も海の幸も美味しい」

「カンヌの海の幸もなかなかでした」

「いえいえ、私はマルセルです。宜しく」

「デュシャンと同じ名前ですね」

「ええ、あなたが望めばアルチュールと呼んでも、カミーユと呼んでも、ジョルジュと呼んでも、アントワーヌと呼んでも、フランソワと呼んでも構いませんよ」

 これがフランス式の冗談なのかな、とイイダが微笑んだ瞬間、男はメニューを手に取るとそれを開いた。

 そこに一枚の紙片を、高度なマジシャンのテクニックのように挟んだ。


 ——『後ろを見るな、着けられている』


 日本語で、そう書いてあった。

 イイダの背骨の骨髄を、パリの冬が駆け巡った。それは一瞬にして、腕に回り鳥肌を産んだ。自分の目が泳いでいるのを、視界の歪みで理解した。

「私の目を見たまま、話を続けてください。イイダさん」

 男は急に流暢な日本語で喋り始めた。それは映画の吹き替えのようにスムーズなものだったのでイイダは驚いた。

 乾燥した口と喉に、コーヒーの苦味だけが嫌らしく絡みつく。

「後方四十メートルの車の車内から、双眼鏡で監視されています。安心して下さい、読唇術は持っていないようです。彼らの目には、あくまで私とあなたはストーブの前に居合わせた、その場限りの友人に写ります。だからここからの会話は、そうですね、サウンド・ノベルの世界のように楽しんでください」


 ——何が起きている……。

 ——この男は信用できるのか?


 その言葉が喉から出そうになった瞬間に、マルセルが全てを察したかのように続けた。

「心配には及びません。あなたの周囲の組織で、あなた側の人間は少ない。ただ一期一会のように会話を楽しむだけで良いのです。それ以上は求めませんよ、あなたの安全以外にはね」

 イイダは見透かされている錯覚を覚えた。この男の素性は不明。そもそも監視者がいるのか自体が怪しいが、仮にマルセルと名乗る男が誇大妄想狂の詐欺師だとしたら——仮に自分がそうだとしたら、こんな手の込んだことはしない。それよりも、彼のメニューに紙片を滑り込ませるテクニックは素人ではなかった。


「昨年、ミクロネシアに行きましたね」

「何故それを……」イイダがその旅路を話した人間は存在しない。

「今から説明します。フランス政府は八十年代に、ヨーロッパの統一教会の問題を巡り、反セクト法を成立しました。そこから人権侵害や犯罪性の規制に基づき、ある一定の宗教団体に監視システムを設けています」

 帰結点の見えない始まりだったが、このままでは身の危険を察したので、取り敢えず話を進めた。このマルセルという男に悪意がないことを信じる他なかった。

「……日本でも創価学会やエホバの証人について議論されています。これについては明確な回答は出ていないようですが」かつて、こういった会話を盛んにしていた錯覚があった。

「そうですね、宗教の派生の定義は曖昧ですから、一概に法律学では定義できません。しかしながら、表面上の立案の目的は、統一教会に類するセクトの規制でした。しかし内密には、ある一人の人類学者の死亡事件も関与しているのです。死亡、というのは語弊があるかもしれません。実際には明確な殺人です。その学者は六十年代の『野生の思考』の発表以前から、フランスにおける人類学の研究者として、モース、メルロ=ポンティ、サルトルとも関わりがあったとされる人物です。コレージュ・ド・フランスのセミネールへの参加や、『ダン・モデルヌ』への僅かな寄稿も行っていたようです。彼の初期からの研究はミクロネシアの神話でした。あまりにも研究対象から飛躍しすぎた理論のために、晩年はアカデミーでは相手にされなかたようですがね」

「それは……」

「——そう、彼の研究は巨人です」


 異国の大地での、彼の新作ゲームのモティーフとの奇妙な符号。ずっとあるパペットの糸の存在を、やはりイイダは感じなるを得なかった。

「彼は八四年、ロンドンに招かれて講演を行う予定でした。しかし講演会前日、テムズ川の下流において死体で発見されました。銃器を使った明確な殺人です。フランス政府は国際問題として、すぐに調査を開始しました。射殺事件でしたが犯行は素人によるもので、英国政府が関与しているとは思えませんでした。我が国は彼が異端かつ聖書学にも精通していたことから、セクトによる犯行の可能性も視野に入れて捜査しました。然しながら、ヨーロッパ圏で神学論的に反アジア信仰に対しての、ラディカルな動向を持ったセクトは確認出来ませんでした。ヨーロッパにおけるセクトの活動の関与は極めて低い。単なる物取りの通り魔的犯行……それがフランス政府の当初の見解です」

「その話はどこかで……」

 断片的な会話が、大脳辺縁系からの浮上を試みているようだが、そこには屈強な門番がいる。

「あなたは今、この話を無理に思い出す必要はない」

「——思い出す?」

 マルセルはその問いには答えず、眼鏡を直した。

 同時にここまで情報開示するこの男には、一種の安堵感を覚え始めていた。

「話を続けます。死亡した人類学者の妻から、思わぬ情報が寄せられました」


 ——『夫はバルドゥ島に、巨人を調査しに行った帰りでした』

 

「このバルドゥ島、というのはご存知でしょう? あなたが昨年上陸した島です」

 そこまでの記憶は明確だ。バリ島旅行の帰りに滞在したのだ。

「この妻の証言で活動拠点がヨーロッパではなく、アジア圏のセクトの可能性が浮上しました。しかしいくら調べても、この島に関する情報は得られませんでした。ミクロネシア連邦の島々の何処か、という以上の特定は困難を極めた。そこに突然の朗報が舞い込んできたのです。それは対外治安局の情報局に接触を求めてきた、インサイダーの存在です。性別と名前は伏せますが、仮にAとしましょう。Aは共産圏の諜報機関の人間でした。彼が自分の亡命と引き換えに、アジアにおけるセクトの洗いざらいの情報を提供する、と申し出たのです。当然、フランス政府は彼の亡命を許可しました。彼のネットワークと情報網は、喉から手が出るほど欲しいものでしたからね。つまり、どの武力行使を行おうとするセクトに、どの共産圏の国が軍備提供しようとしているのか把握が可能だったからです。密告者の膨大な情報は念密に精査されました。そこでミクロネシアのとある島への、銃器の輸出が確認されました。そこがバルドゥ島でした。我々は諜報活動を行いましたが、装備のどれもが旧式で早急な宗教的クーデターの可能性は低い、との判断がなされました。しかしいずれとも監視は続けていました。共産圏のとある国が、キリスト教を隠れ蓑にミクロネシア諸島にアジア支配の軍事拠点を求めて……例えば天然要塞としてあなた方の帝国陸軍が最重要拠点においたように……。つまり、仮に核施設配備を行えば、二度目のキューバ危機にもなりかねない」

「冷たい戦争……」

「そうです、これがセクト法立案、成立、施行のもう一つのエピソードです」

「セクトの拡大が武装の理由……?」

「さて。よって、上陸者は入念な監視下にあったのです。しかしながら、最後の上陸者は、簡単な軍事訓練を受けた三十代の日本人ゲーム・クリエイター。そう、あなたです、イイダさん」

 心臓の萎縮を覚えた彼は、あの島の上陸の隠匿は不可能だったことを悟ったのと同時に、そこにフランス政府が介入しているとは夢にも思わなかった。

「そこまでバレているのですか……。確かに私はあの島に行きました。アメリカで簡単な銃器の取り扱いの訓練も受けました。民兵が複数存在していました。仰る通り、軽機関銃等は旧式で、特別な軍事訓練も受けていない様子でしたね。それに彼らは軍事蜂起する、というよりは何かを守っているようでした。それは巨人神話に纏わる何かの筈です」

「守っている? そこは北センチネル島のような場所でしたか?」

「いや、文明的な生活は送っていました。しかしマルセル、僕にはどうしても断片的な記憶しか思い出せないのですよ……あの島の人々から何かを受け取った気がするのですが……」

「成る程……そのことについては、今はまだ結構です」

 マスセルはコーヒーをごく自然に啜った。


「ところでイイダさん、あなたの新作ゲームは巨人をモチーフにしていますね。実に面白そうなゲームです。ミリア・ゲームズや海外ディベロッパー、クリエイターからの評判も上々。そしてあなたは牡蠣がお好きなようだ」

「そこまで監視したのですか!」一瞬、諜報活動に恐嚇したが、マルセルからは何故か敵意を感じない。

「ええ、この国にいらした時から、全ての行動を見させて頂いています。あなたを守るためですよ」

「何故そんな……僕は一介のゲーム・クリエイターですよ! 一体何から守るんです?」声こそ荒げたが、やはり目的はわからないままだ。

「米国での軍事訓練の記録、バルドゥ島への上陸、そして巨人……」

 自己矛盾……。確かに何故、一介のゲーム・クリエイターの自分は命の危険を冒して、あの島へ向かったのか。それは本当に巨人伝説を追うだけだったのか。

「話を戻しましょう。そうすればフランス政府があなたを監視した理由が分かります。そのインサイダー情報の中にはセクトだけではなく、多くのカルトの動向も含まれていました。当初の目的はカルトのフランス国内への進出防止の為の監視でしたが、そこにこんな記録がありました。『ハルマゲドン信仰を行う巨人崇拝』の組織……一見すると、科学的研究機関という名目上での活動を行なっている、単なる自主研究団体のようです」

「丁度、オウム真理教のような?」

「ええ、初期のヨーガ・サークルや、ハルマゲドン信仰という意味では似ているかもしれません」

「彼らはチベット仏教の歪曲でしたね。ヨーガや水中クンバカ、LSDを使用したキリストのイニシエーションといった、身体的な修行形態が主たるものでしたね。麻原彰晃はカギュ派を元にしていたようですが、シヴァ神信仰というよりは、信者の教祖へのカリスマへの洗脳による依存が強かった印象です」数年前の自国のテロリズムを反芻した。

「そうですね、類似する部分はある。しかしこのカルトの巨人崇拝は謎が多い。そもそもデュメジルによってヨーロッパでの崇拝は否定されています」

「しかし、今ではダイダラボッチという民話に姿を変えていますが、日本では大己貴神の出雲の国引きなどが元で、その尊意観の信仰の零落とも言われています。古代には信仰は存在したのでしょう」

「スリランカのスリパタもそうですね。しかし、彼らの場合は外的な信心の崇拝ですからね、だがそのカルトが殊更熱心なのが、巨人神話の収集とアーカイヴ化のようですが、資料によれば影で行っていたのは、その崇拝と救済です」

「それが何故カルトだと? 神話のアーカイヴは人類学上欠かせない。伝統宗教の教義を借用しながら、そこに教団独自の教義をミックスするのが基本的なカルトの手口では。例えば教祖がキリストの生まれ変わりだ、不治の病を治すヒーリングパワーがある。これらが我々日本がオウムから学んだことです。例え崇拝だとしてもカルトと判断するのは早計では?」

「そこは追々分かります。さて、言わずもがな、かつてミクロネシアは日本統治下でした。第一次大戦中に、ドイツ領だった島々を占有しています。そこで南進論の意図の実現が行われ、人類学的研究も進みました。南洋省の海軍大佐で、柳田國男の実弟の松岡静雄の『ミクロネシア民族誌』は研究者の間では熱心に読まれました。太平洋戦争の日本の国連脱退から一時的に、ミクロネシアの民俗学、人類学研究は停滞し、回復したのは独立以降の七十年代です。だが、その間にも日本とミクロネシアには往来があり、今でもハプログループD1a2aY染色体も認められますし、借用語彙もあります。十五世紀のスペイン統治でキリスト教が布教したので、ミクロネシアの新興のセクトの可能性を疑ったのですが……しかしながらそれはありませんでした。なので精霊信仰は影を潜めましたが、バルドゥの巨人神話はその名残なのかも知れません」


「——来訪神、メビウスの環……?」

 過ぎる断片的な単語の羅列。まるで、シュルレアリスムだ。


「どうかしましたか?」

「いや、何でもないです……ただ、僕はあそこで大切な会話をした筈なんです。でも、そこがドーナツの穴のように、すっかり抜け落ちているのです」

「それは……イイダさん、ここからの話に関係しているかもしれません」

 マスセルは何かの糸口を知っているようだ。

「大日本帝国には天皇崇拝だけではなく、異端な信心もありました」

「例えば『古事記』や『日本書紀』を経典にした神道天行居のような?」

「ユダヤ陰謀論は、当時としてはかなりニッチな層の信仰だった筈です。だから霊的国防を唱え、お上に叩かれても仕方がないでしょう。しかしながらある一部では、この謎めいたこのカルトとの同一性も窺える。それは古典の現代への還元です。国防の中心は科学技術です。ドイツは工業組合から継続して現在でも技術大国ですが、日本も当時はある側面では科学技術が高かったですね。それを後世に残せない独自進歩だったのは残念ですが」

「それは八木・宇田アンテナの発見のように、ですか?」

「残念ながら革命的電波通信技術の発見は、軍事兵器採用には叶いませんでしたがね」

「僕もある意味では科学というゲーム畑の人間です。先鋭的な技術は戦争が生産しますが、その応用は平和的であることを望みます」

「平和、ですか。現在、我々は原子力発電の販売国家ですし、かつてマーシャル諸島では約二百回の水爆実験を行なっています。無慈悲で凄惨な現実ですし、その情報公開は一部のままです。暴挙な科学技術の横暴な行使を行う権威主義崇拝を否定し、オルレランの乙女を英雄として心の拠り所にする我が国は、いつの間にかその信念を忘却の彼方に葬ったのですよ。全くのパラドックスです」マルセルは会話を、意図的に早計な解答に帰結しないようにしているらしい。

「成る程、段々話の筋が見えてきました。フランス人の精神性の逆転の発想ですね。そのカルトは科学信仰を建前にして、裏では巨人神話を崇拝対象として利用し、ハルマゲドンの訪れで世界変革を狙っている。これはサリン事件と、チベット仏教の同一進行の構造に似ている。彼らはそういった意味でカルトであり、その中で科学と宗教の表裏を失わせようとしている」

「そういうことです。話は前後しましたが、この巨人崇拝カルトが活動を開始したのは、まさに第二次世界大戦の中期なのです。そしてそれは、帝国陸軍に協力していた学者集団だったようですが、資料も記録もありません」

「まさか、神道天行居のように巨人という古典と、国防という科学を一体化させようとしていたとでも?」

「詳しいことは不明ですが、そのカルト組織の巨人崇拝が、未だに続いているのだけは確かです」


——ミクロネシアから日本へは、カルトのコネクションがあった?

——では、自分がゲームに落とし込もうとしているのはカルトなのか?


「イイダさん、随分と顔が青ざめていますよ。これでは背後の車に勘付かれる」

「あれは一体誰で、何故私を監視しているのですか?」

「振り向いては駄目ですよ。あの人々は、バルドゥ島の酋長が世界中に駐在させていた諜報員です。ただ杜撰な素人仕事ですね。日本が拠点のカルトとは別の組織です。理由は不明ですが、昨年の夏、酋長が何者かに殺害されました。そこから急激に弱体化しています。頭脳を失って指揮系統が上手く機能していないのです。日に日にバルドゥ島民は、キリスト教圏の近隣の島への移住を開始しています。武装解除も進んでいるので、数年もすれば危険性はなくなる。共産圏の国も手を引き始めている」

「中心がなくなった……マルセル、僕にはそんな印象を受けます。守るものがなくなったのかもしれません。これは実際に上陸した印象ですが、彼らは必死に何か、物質的な何かを守っていたような気がするんです」

「その可能性は極めて高い。酋長が誰に、何故殺されたのか。一体守っていたものが何なのかは不明ですが……しかし現在でも日本のカルトとは情報の共有関係にはあるようですが、バルトゥ島民が欲しているのは消えかけた固有の巨人信仰で、残党は復権を望む一部の存在だけだと推測しています。彼らはカルトからの指示で動いている。しかし本来島を守るために世界に進出したネットワークですので、具体的な目的までは知らされていないのだと考察しています。ただ言えることは、別母体のカルトはもっと虎視眈々と動いています。恐らく彼らにとってバルドゥのスパイは単なる捨て駒でしょう。その証拠にロンドンでの民俗学者殺害を行なったのは、方法からしてみてもこの素人集団だと推測できます。彼が殺された理由は、その巨人と関係しているのは確かですが、講演のスピーチ原稿は残されておらず、コートのポケットに入っていたのは、無闇な銃の乱射で修繕不可能にまで壊れたカセットテープだけでした」

「テープ……しかしバルドゥ島から、僕は生きて生還しているんですよ。どうして彼らは僕が巨人に関係していると分かっているのでしょうか?そもそもフランス諜報局の監視体制は?」

「話せる限界がありますが、まず監視衛星情報があります。上陸者さえ分かれば、後は我々には造作もない事です。あなたは上陸前に元島民と接触しましたね。例えば彼の口座に三十年は遊んで暮らせるフランを振り込んだら、いとも簡単に日本人の観光客について熱心に教えてくれるかもしれません。そこから、パスポートの渡航履歴でミクロネシアを訪れた日本人の足取りを追うのは簡単でしょうね。しかもその男は米国で射撃訓練に参加し、日本では著名なゲーム・クリエイターだった、なんてエピソードは如何ですか?」

「……あれはバリ島からの帰りで、仲間にも話さずに一人で向かったのですが……実際の方法は分からなくとも、国家というのは侮れないですね。恐ろしい時代だ」

「どんな人間も必ず痕跡を残すものです。あなたが悪いのではない、今はネットワークのインフラ整備の過程ですが、すぐにもっと苛烈な監視社会が産まれるでしょう」

「まるでオーウェリアンだ、彼こそが現代の予言者ですよ」イイダは嘆息した。

「あの世界の政府によるプライバシーの喪失感は、現代人は既に皆が共有していますよ」その中で生きるしかないのです、マスセルは苦笑いで続けた。

「A語彙群の中では、神話は絶滅するだろうね。僕はビッグ・ブラザーの為にゲームを作る気はさらさらないですよ」そう言ってイイダも頭を掻いて、苦笑でコーヒーカップに手を伸ばした。

「まさに、しかし情報が世界を可視化もする。現在、対外治安局は日本の公安と相互の情報交換を行なっています。それでも件のカルトの全貌は見えてこない。それだけ機密性の高い組織で、どうやら特定の場所に居を構えていないらしく、各々が独立したメンバーが動いている。推測ですが恐らく彼らを繋いでいるのは、インターネットという虚構の世界ですね。これでは今までのカルト対策は根本からのイノベーションが必要になってくる。そんな時代の到来の予感でしょう」

「マルセル、あなた方が僕を探し当てたことまでは分かりました。では一体、彼らはどうやって情報を得て、僕を監視しているのですか? 単なるカルトにストーキングが可能だとは思えません」

「対外治安局のデータベースに、何者かのハッキングの痕跡が見つかりました。国際社会への情報漏洩の観点から、最重要機密はスタンド・アローンに記録されています。アクセス可能な人間もごく僅かで、ID認証が不可欠です。ただ、調査中の案件については、非常に強固なセキュリティで共有されていますがネット上にある。そこを狙われた。痕跡の発見までには間がありましたし、その時点では所詮危険思想の宗教団体だと甘く見ていた失態も認めます。彼らはその間に断片的な情報を統合し、あなたを発見した。このカルトはそんじょそこらの宗教団体ではない。非常に高度なデジタル技術を持った集団です。同時に、亡命したA氏も、自宅で何者かに殺害されました。これは人類学者殺人は異なり完全にプロの手口でした。これらが同一犯の犯行かは調査中ですが、そこから日本国の出入国はオーウェリアン並みに厳重です」


 ——彼らは動き出そうとしている。

 ——そう、あなたの日本でね。


「マルセル、あなたは一体……」

「私には無数の名前がありますが、その一つがニコラ・ブルバキです。専門は計算機科学ですが、少々の小遣い稼ぎに、政府の汚れ仕事もパート・タイムでこなしています」

「本当に存在するとは……」

「そんな大層なものでは」

 マルセルに対する当初の不安は消えていた。フランスは己の命の守護に尽力していたのは素直に嬉しかったが、同時にそこには様々な利害関係が混在し、そのコンテクストの中に自分が放り込まれてしまったから恐ろしさもあった。

「さて、少し気分を変えましょう。私はあなたのゲームの熱心なファンなんですよ。前作二本とも最後までプレイしました。こう見えても熱心なゲーマーなんです。ゲーム界の鬼才と謳われるイイダさんと、こうして向き合ってお話しできるのは心から光栄です」マルセルはこの日一番の、照れ臭そうな微笑を見せた。

「ありがとうございます。間口の狭いゲームばかり作ってきましたので、そう言ってくださる方は少ないので嬉しいです。——しかしながら今回の旅で分かりましたが、フランスのゲーム文化は興味深いです。これからどんどん技術的進歩も、フランス人の内包するアート性も期待されますね」自信のあるゲームを作ってきたが、芸術の都で歓迎されるのは光栄で、イイダもまた照れ臭かった。

「良いプログラミング技術と、それを応用したエンジン、利用するディベロッパーとクリエイター。これらが育つ土壌を作るのも、私の計算機械科学の仕事の一つです」


 フランスのディベロッパーがAAAタイトルのトピックになることは稀だったが、イイダは全く別の事件を思い出していた。それはこのオンライン世紀のゲームの神話だった。

「フランスといえば、去年発売したElectronic Poetの開発した『Ultima Thule Online』のハッキング事件が記憶に新しいですね。アメリカの臨界前核実験予告の発表の三日後、ステータス画面の攻撃コマンドの『Peace』から『War』への変更が不可能になり、フィールドサウンドが全て『クラオンヌの歌』に切り替わり、地上の至る所にピース・マークが出現、『失われた大陸』にキノコ雲が出現し滞在するプレイヤーが全滅……。当時、世界中でプレイしていた数十万人がその瞬間を目撃した。そのクラッキングを行なった集団が、サーバを解析したところフランスからのアクセスだったことが判明。しかし、未だに犯人は不明のまま。オンライン・ゲームの神話ですね」


「実はその犯人は、私です」


「あれが、君の単独犯……」


 ——楽しいですよ、虚構世界をハッキングするのは。


「イイダさん、このままフランスに残りませんか? この国はあなたの命をカルトから絶対に守ります。ゲームはこの国でも開発できる。ゲームに国境はないのですよ」

 自身の命を天秤にかけた時、その選択は正解でもあった。件のカルトの拠点が日本であるならば、狙われた自分がおちおち帰国するのは自殺行為だ。

「メリットは数え切れに程にあります。経済的な援助といったことは元より、医療面、人権面、そして文化面でも全面的かつ完璧なサポートを保証します。祖国の地を踏むことが許されない、などと難しく考えないで下さい。帰国の際には身の安全も保証します。ホテルに帰って一本メールを打つのです。僕はフランスで画家になる、と。いつものジョークみたいにね。その後のことは我々に全てお任せ下さい」


 これは禁断の果実だ。

 日本のゲームを捨てた新天地での新しいクリエイション。

 そこは、安全と表現の保証された世界……。


 我々にお任せ下さい。

 あなたの「失われた記憶」についても。

 恐らくあなたは、既にそのカルトと接触している。


「僕はマルセル、君とフランスに感謝します。しかし戻らなければならない」

 マルセルは微笑を崩さなかったが、この日初めて目線を逸らした。

「僕には未完成のゲームと、仲間が待っている」

「流石、奇才ゲーム・クリエイター。あなたがこの国に残れば、我々はもっと良い友達になれたでしょうね」

「僕も残念です」

「では、お別れですね。もう二度と会うことはないでしょう。ただし監視は続けます、あなたがこの国を安全に出国できるまでは、必ず我々が守りますのでご安心下さい」

 マルセルが、すっかり湯気の消えたコーヒーを残して席を立った。

「——bon voyage」

 そう、イイダに一声かけると、椅子を立ち機敏な足並みで雑踏に消えた。

 イイダは先程彼に言っていた車を探したが、どれもが凡庸な外国車ばかりだった。

 巴里の陰謀の万華鏡は、何時迄も反復した妄想を産んだ。

 一週間後には、自分は再び日本に帰る。

 その時に、巨人を巡る全てがまやかしで、自分の過去は忘却の彼方へと消え去り、テレビゲームは無事に完成する。

 ただ、ぽつねんと残されたパリの夕闇と、市井の始めた夜の身支度だけが何処までも虚しかった。


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電子巨神の未来遊戯 椿恭二 @Tsubaki64

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