電子巨神の未来遊戯

椿恭二

【第一章】サウンドトラックが欲しいのかい?

 南緯十八度、東経一六八度。

 ——とある島。


 ミクロネシア諸島の、人口数百人、語源になったミクロスソネス(小さな島)にまさに相応しい大地だ。

 数十年前に殆どの島民が、文明的進行の著しい多島に移住し、アルカイックなミクロネシア人のみで構成される島だ。自然は未開拓に近く、鬱蒼としたジャングルが広域に渡って広がっている。独自の神話文明が築かれていることが考察されている。  

 然しながら排他的な側面が強く、今までに数人の人類学者と宣教師が上陸を試みたが、いずれも行方不明になっている為に、魔の島との別称を持つこともある。


 一九九七年、夏。

 イイダはジャングルの険しい道のりを最小限のサヴァイバル用品を詰め込んだ、ベージュ色のバックパックを背負い、大きなナタで自分の侵入を嘲笑うかのような、海底に沈んだ色のシダ・フローラを刈りながら一歩一歩前に進んだ。マングローブの葉先の陰からは、八分前に宇宙を旅立った激しい夏の日光が、ちらちらと辺り一面を繊細な硝子細工のように斑色に染めている。その熱帯雨林の気候は日本人には過酷で、額にはじっとりとした獣臭い汗がひっきりなしに滲んで滴っている。

 彼はそれを必死に拭いながら、コンパスで目的地に向けて開拓を進めていく。その上、汗という生命の匂いを嗅ぎつけたブヨが、嬉々として皮膚の周囲をダンスしている。連中が耳の周りを飛び回る羽音は、イイダを極めて不快にさせた。原初以来にここを訪れた者が存在するのか。仮に数百、あるいは数千年前にここを通った者がいたとしても、この巨大な自然の前ではその痕跡は最も簡単に消滅させられてしまう。


 腰に巻いたホスルターにはサプレッサーの付いた、コルトM1991が差し込まれている。イイダはこの島に上陸する前に、某国の片田舎で退役アメリカ軍人の開催する違法のブートキャンプに参加し、三ヶ月間の射撃訓練と基礎技術の講習を受けた。  

 思わぬ成功を納めた前の仕事の成功のボーナスで得た資金で、数千ドルの高額な受講料を払い受けた過酷な訓練の日々だったが、この島での目的を果たしながら、同時に命を守る為には背に腹は変えられなかった。

 精密射撃と最低限のサヴァイヴァル術の薫陶を受けた彼は、日本でコンピューターと格闘する日々よりは、贅肉が七キロは落ちすっきりとした身体になった。

 だが実際の訓練で得た成果は、「絶対に人を殺めない射撃方法」だった。そしてその技術は、彼が常に意識している、人に優しく、というテーゼを守る為に他ならなかった。


 暗中模索で進むのは、あまりにも危険すぎた。

 それは無秩序な熱帯雨林の進路妨害も原因の一つだが、更なる問題がある。この島には民兵が巡回しているのは、一部の筋では有名な話だった。移住した元島民に接触を試みたが、リークされた情報は極めて僅かなものだった。

 然程、戦闘能力の高い民兵だとは推測されない。民間軍事企業の介入も推測されるが、そのような情報は入ってこない。だが一種のゲリラ戦術の心得があるのは間違いなかった。

 然しながら軍隊を持たないミクロネシアで、何処からかの軍備弾薬の提供があり、闇の交易を行なっているのは間違いなかった。国際平和条約の網を潜り抜けながら、どうやらこの島には武装集団が跋扈している。

 恐らくは全ての提供先は共産圏だと思われるが、一種の国際問題的なデマゴギーを裏付けるペーパーはない。

 何の理由で民兵がこの島を防衛しているのか、イイダには大まかな検討はついたが、まだ確信には至らなかった。

 野鳥の鳴き声の狭間に、遠方からジープらしき猛獣のような野太いエンジン音が聞こえた。一瞬にして彼の緊張感が高まった。汗ばむ手でコルトに手をかけながら草木の中に身体を沈める。全身の神経が研ぎ澄まされて、背中の汗が冷えた。ここで一歩間違えれば、この島を訪れた先人と同じ末路を辿る。


 ここまで珊瑚礁の宝石のようなコバルトブルーの優雅な海を超えて乗り付けた一人用のボートは、巧妙に秘匿してあるのでそう簡単には見つからない筈だ。仮に見つかったらこの島からの脱出経路は失われる。民兵の巡回ルートにそこが含まれているのかは分からないが、成るだけ迅速な行動が求められているのは間違いなさそうだった。

 ジープの音が去っていくのを確認すると、彼は慎重に先へ進んだ。そこには簡易的な泥の道が形成されていた。そしてそれがこの島の唯一の村の中心部に続いている推論は、ほぼ間違いがなかった。彼は道を見失わないように迂回し、聴覚と視覚で辺りを入念に観察しながら痕跡を残さないように慎重に進んだ。

 暫くすると開けた大地が確認できた。どうやら野営地のようだった。数台のジープの横に、コンクリート製の建物が数棟ある。その前ではランニングシャツに迷彩のカーゴパンツ姿の男が数人、M16アサルトライフルを地面に置き、ドラム缶を囲みながらトランプゲームに興じ談笑している。異国語の会話は分からなかったが、それ程緊迫している様子がないことから、この島への上陸は成功したものと思われた。

 危険を冒して彼らと交戦する訳にはいかない。寧ろ自身の受けたレクチャー以上の能力を要する想定外の戦闘が予測されるし、絶対に自分の命を狙う兵士といえども、射殺するわけにはいかない。例え敵の急所を外しても、この島の治療設備では、いずれ命を落とす可能性は大いにある。


 バックパックから双眼鏡を取り出すと、周囲を観察した。そこから半マイルほどの先で火を起こしている様子が確認出来た。どうやらそこが集落らしい。ここは差し詰め、そこを守る喜ばしくない歓迎の入り口に間違いなさそうだった。

 イイダは白煙を目視しながら、更なる迂回ルートを探して、再び森林に身を沈めた。幾つかの音を生じさせる原初的なワイヤーの罠を回避しながら、性的快楽にも似た極限の緊張を味わいながら、己の存在をこの緑林と同化させて、自身が熱帯雨林の憂鬱なマングローブの一部になるように努めた。


 小一時間の潜入でいよいよ達した集落には人気がなかった。農作か狩猟にでも出ているのだろうか、驚くほど静かだった。女子供の姿すら見えない。先住民の質素な建築を予想していたが、思ったよりも近代的なコンクリートの建物ばかりだった。

 この中から目的の家を探すのは至難の技のように思えたが、解決の糸口はあった。インサイダーの情報によると、この島には一つのシンボルが存在する。

 それは引いた弓矢のようなカーブの中心に楕円形があり、その下に古代人のハンマーを模したような奇怪なモティーフなのだそうだ。

 再び双眼鏡を取り出すと、二十棟ほどの建物を入念に観察した。そのうちの一つに古風な煉瓦造りの家を発見した。煙突からは白煙が上っていて、内部に人が居るのは間違いない。

 そして玄関の軒先には、朽ちた件のシンボルの看板が掲げられていた。


 イイダにとってこれは一種の賭けだった。命を賭けたギャンブル、と言っても過言ではない。更によく観察すると、オールドファッションな玄関にはまるで似つかわしくない監視カメラが三台、死角がないように設置されていた。それが彼に確信を与えた。当然、その映像は先程の野営地に接続されているのであろう。

 彼は集落を一気に走り抜け、洪水用に高く建築された軒下に潜ると、得意のコンピュタ技術の簡単な応用のハッキングで、持参した有線ケーブルをカメラから伸びるコードと複合させ噛み合わせて繋ぎ、プログラムを介して野営地のデータベースへのアクセスを試みた。彼は小さなラップトップに映し出されるデータを見ながら、見た目が厳重なわりに、有線とは警備にしてはお粗末な作りだな、と苦笑しながらも、別回線からダミーデータを送る。

 これで野営地には無人の玄関の映像が流れ続ける。自分がここを逃げ出すまでの話だが。


 やっと少々の安堵を覚えたイイダは、ドアに顔を寄せ、耳を傾けた。微かに内部から音楽が響いてくるのを確認し、ホルスターのコルトを抜き出すと、死角から静かに木製の玄関の扉を開いた。

 室内では蓄音器から、マーラーの交響曲第一番が流れていた。

 古い蛍光灯の黴臭い甘露色の灯りの下で、壁に架けられた巨大な島の地図が、ルーブルの名画の如き存在感を放っている。そこに描かれた地図の形は、先程の古代のシンボルマークと全く同じ島の俯瞰図であった。青春時代、美術大学で油絵を専攻していたイイダは、一瞬その洗練された銅版画に目を奪われそうになった。


「客人かね?」

 彼は瞬時に緊張感を取り戻し、声の方角に銃口を向けた。

 部屋の奥に陣取った書斎卓の、深紅の布張りの回転椅子に腰掛けた老人が、ゆっくりと振り向いた。随分と頬の痩けた老人だったが、眼光にはまだ鋭さが残っていた。ヴィヴィッドで豪華絢爛な鶸色と唐紅の衣装が、身分の高さを窺わせる。その服から伸びた両手は、肘掛けに無防備に乗せられていて、彼を攻撃する様子は見受けられない。

 しかし、その達観したような風貌の古代からモンゴロイドとオーストラロイドの混血の褐色肌で、生粋のミクロネシア人の面立ちの持つ、野生的な野蛮さと知性の混在は、彼にトリガーをうっかり引かせるには十分な敵意だった。

 沈黙の支配する中、老人の身に纏った民族衣装、部屋中の手の込んだ造りの調度家具、ハンドメイドで質素なプリミティヴな装飾……。それらが相まってか、まるで映画の小道具に囲まれているかのように二十世紀と逆行していく気分だった。


「貴方が酋長ですね」

 イイダは慎重に訪ねた。当然、コルトの銃口は老人の額に向けられ、引き金には指を当てたままだった。

「如何にも。ここは暑かろう、生憎クーラーというものは存在しないがね。すまぬが 我慢してくれるか」酋長は彼の銃については何も咎めなかった。

「問題ありません。ここまでの道中でこの気候にも大分慣れました」

 彼は少し躊躇したが、相手はこの島の長である。そして目的の男に争う気がない事を確認すると、ホルスターに銃を納めた。

「慇懃無礼な態度を失礼しました」深々と敬意を込めて頭を下げた。

「構わんよ。国はどちらかね、その肌の色はチャイナか?」

「日本です」

「島国の同志よ、遠路はるばるご苦労だった。ゆっくりしていきたまえ。ところで我らの島は気に入ってくれたかね」

「豊かな自然です。大分苦しめられましたが、普段からトレッキングが好きなので、なかなか楽しい道中でしたね。しかしあの民兵がいなければ、もっと美しい自然を堪能できたでしょう」

「我々の民族特有の歓迎方法でね。物珍しかったかな、日本人には」穏和な表情で語るそれが、厳戒網をくぐり抜けて来た男への、彼なりの冗談と敬意であることは明らかだった。

 やっと緊張の解れたイイダは、無性に煙草が吸いたくなった。「一服しても宜しいですか?」と尋ね、酋長が頷いたのを確認すると、カーゴパンツからマルボロを取り出し、防水マッチを擦った。蒼い炎の放つリンの匂いが、鼻をついた。

 一段落した思いで、肺を満たした紫煙をゆっくり吐き出した。

「貴方も一本如何ですか?」

 その言葉に酋長は何も答えず、目の前のグラスにヤシ酒を注いだ。

「君も呑むかね?」

「光栄ですが、酒はやりません」

 ちびり、と手焼きのグラスを傾けて口にした老人は、臓腑に染みる酒を味わいながら、極めて真摯な様子でイイダを見定めるように目を細めた。

 そして、言った。


「——巨人かね?」


 イイダは図星だったが、それに対しての驚愕はなかった。

「話が早いですね。それ以外にこの島には何もないでしょう。ここはただのミクロネシア連邦の、小さな島の一つに過ぎない。何故、そこまでして様々な学者がここを訪問し、そしてあの民兵に殺害されたのでしょうか。守るものといえば巨人しかない。貴方がそこまでして、たかだか神話を隠匿する理由は何でしょう?」

 そんなに早く酒が回るとは思えないが、酋長は機嫌が良さそうに快活に笑った。それは何処か異国の青年風情を嘲笑っているかのようだった。

「若者よ、隠匿ではない。守っているのだ、俗世の欲望から」

「その理由を教えては頂けませんか?」

 酋長は長く白い髭を撫でると、暫く思案した。

「この島の名前は当の昔に失われた。しかし、古代人はここをこう呼んだ」


——バルドゥ島。


「かつては様々な種族の往来する島だった。その中には遠方から海を超えた、チベット僧も含まれていた可能性がある。その人々、或いは彼らの思想を知る者が、この島をそう呼んだらしい。彼らの聴聞と大解脱のプロセスと光明への導きの言葉に擬えて、我々に与えて下さった。然し巨大な島だったこの地の殆どは、遥か昔に海に沈んだ。否、人間の業が沈ませたのだ。巨人に触れて島は海底に消えた、そしてチョニエ・バルドゥ、死と次への生の意識の中間地点としての場所になったのだ」

「しかしそれは解脱の思想では? それがこの島の古代の巨人神話なのですか?」

 イイダの事前の調査で分かっていることは、極めて限られた歴史書と人類学の文献からの引用だったが、ことこの島と巨人となれば話は少々ややこしくなることは、既に察しが付いていた。


「神話か。このミクロネシア、マリアナ諸島には神話の巨人が受け継がれている。それは原初の巨人だ。彼のヒトの身体から天地や日月が生じたという。とある洞窟では男女の巨人が居たという物語も語り継がれている。そしてこの島の巨人は四十九回現れた。だからラマはニンマ派の中有に擬えたのだろう……。その神話というのは果たして単なる虚構なのだろうか。古代人の見た朧な夢なのだろうかね?」

「神話はメタフィジックに、現代を語る物語だと認識しています。あるいはそれが現実社会の出来事か、と問われた時、それは単なるユング的な古代人の集合的無意識の一種でしょう。神話の構造分析は集合的無意識の分析によって拡張しますが、同時に近代科学の論理と同じように厳密で、その相違点は知的過程の相違ではなくて、各々が対象とする事物の相違にあるのではないでしょうか?」

 答えの曖昧さは自認する通り、限界のリアリズムと形而上学の狭間だったが、イイダは神話が現実そのものだとは信じていない。もっとナラティブが自己に存在するのが人間なのである。これらの知識は、あくまで自身の仕事のモティーフに過ぎない。これまでの彼の作風が、一種の神話性の内包の分析は当たっている反面で、彼はそれらの批評行為に対してシニカルだった。

「なかなか話が分かる。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。——我々は神話を追っているようで、実は追われているのだよ」

「ありがとうございます。では、少々私の仕事の話をします。少々抽象的ですがご勘弁下さい。——私はまず、深海に巨人の手跡や足跡を想像しました。次に原始時代の孤島にホモサピエンス・サピエンスの築いた、巨人の身体の一部を模した石像を想像しました。その先に、いよいよ巨人そのものに関心が移ったのです。そこでミクロネシアの、生きた巨人に行き着いた」

 これらはイイダが過去に表現してきた作品の中で示したものの一部だった。彼自身の中では相互性を持ったようにフラグメントを登場させたが、それは個人の脳内で完結した物語のバックグラウンドに過ぎない。それを作品に理として成立させるためには、是が非でも最後にこの島の「生きた」巨人が必要だったのだ。


 老人は、目的を察してか、薄く笑いながら壁の例のシンボルマークに目をやった。

「このシンボルは何だと思うかね?」

「全てが謎に包まれた島ですから分かりません。貴方達が一切の研究を拒むからです」イイダの声は少し皮肉が混ざっていた。彼はまだ、生意気な年頃の青年だった。

 それに対しても、やはり微笑を崩さずに酋長は続けた。

「では、教えよう。シンボルとサインの差異を語るには、君は長期間の滞在を余儀なくされるであるので割愛する。——さて、かつてこの島の人間は力を持ちすぎた。そして巨人への祝祭の巨大なモニュメントを次々島に建築した。そして最後は多種多様な民族が統一言語を持ち、天空への塔の建造を試みた。それが巨人の怒りに触れた。怒り、というのは語弊があるかもしれない。巨人には感情や倫理、モラリズムの概念は存在しない。統一言語を持った人類の神への挑戦は往々にして失敗する。業だよ。人間のカルマだ」

「『創世記』第十一章ですね。私はピーテル・プルーゲル信者なので」

「そう、あの美しい塔はラングの寓話だ。巨人に触れた。空は唸り、嵐が咆哮し、雷が人々を撃った。そして倒壊したバベルの跡地に巨人が倒れ、海に残った島の形状が、まさにこのシンボルだ」

「そんな神話は世界中に分布しています。私の国にもダイダラボッチという神話の巨人がいます。甲州という大地を掘り返して、かの有名なマウント・フジを作ったのだそうです。巨人と国造り神話の因果関係は世界中に分布し、これといって目新しいものでもないでしょう。民兵で軍事武装してまで守る神話とは思えない」


 酋長は笑った。嘲笑でもない、嗜虐的でもない。深淵の底の混沌の鉛を飲み込んだ笑いだった。

「知っているのだろう。神話はヴァリアントの総体なのだよ」

 その破顔一笑した皺の数だけ、敵はいた筈だ。

「本音を話したまえ、日本の青年」

 イイダは黙した。自分の求めているものは、最初から彼にはお見通しだったようだ。それ故にここで答えを誤ると、自ずと道は塞がれる。張り詰めた緊張の糸に耐えきれなくなった彼は、思わずコルトを握りしめた。グリップは手汗で湿った。


「サウンドトラックが欲しいのかい?」


 図星だった。コルトを握る手が震えた。

 酋長は立ち上がると、部屋の隅の蓄音器に向かった。静かに乾いた指でその電源を切り、マーラーを黙らせると、木製の丹念な生命の樹々の伝統装飾の彫物の施された引き出しを横にずらす。くり抜かれた壁に埋め込まれた、近代的な鋼鉄製の隠し金庫が現れた。首の貝のネックレスの下に隠して、肌身離さずように架けられたチェーンの鍵で鉛と秘奥の扉を開けると、羊皮紙で包まれた一枚のレコード盤を取り出した。

 酋長は胸の辺りでレコードを抱えると、お前の目的はこれだろ、といった視線を送った。

 イイダは興奮と畏怖の念に打ち震えた。まことしやかに囁かれる伝説のレコードが、今まさに自分の眼前にあるのだ。自分の闖入も不確定な現在、この老人に隠匿する時間はなかった筈だ。それは間違いなくこの世に一枚しか存在しない本物だった。

「ここまで生首にならずに到着したとは、若人よ。熱心にもどうやら軍事訓練まで受けているようだ」

 酋長の渇いた瞼に一瞬の微笑が走り「褒美だよ」と続けた。

「光栄です」平静を保つべく表情を殺していたイイダだったが、声の緊張は朴直だった。

「聴きたいか?」相手の興奮を察したのか、酋長が蠱惑的な声色で誘う。

「勿論です」声の掠れ具合で、やっと自分の失われていた喉の渇きを思い出した。

「レコードは人間の聴覚を超えた周波数まで記録されている。戦争の世紀を超えて産まれた新たなる記録媒体は、神話との相互性が高かった。これはラカンの思想書を抜け出したメビウスの帯だ。このフィジカルな連続性を持つアナロジーな技術と巨人は食い合わせが良くてね。22.05ヘルツ以上の高音域にも彼人は潜んでいるのだ」

「では、0と1という飛散性の世界には変換不可能。生きた巨人そのままはではデジタル・ツインにできないと?」

「そうは言っていない。翻訳は言語的制約があるが、神話は構造さえ保てば、その本質的な意味を改変することなく他言語に翻訳可能だ。時にその転換のプロセスの先の顕現の可能性は、音楽にも舞踏にも変わりえるだろう。生きた巨人も然り。仮にそれが0と1という数式言語でも問題はないだろう」

「クロード・レヴィ=ストロースですね」

「左様、彼は最後までこの島に辿り着けなかったがね、まさに『悲しき熱帯』だよ」

「しかしピーター・ゴールドマークの発明が、12インチ、33回転の中に生きたままの巨人の全てを保存可能にしたとは到底思えないのですが……。アナログ媒体なので比較は困難ですが、せいぜい容量は40MB程度でしょう。人間の脳の容量だけでも150TBと一説では言われています。完全な容量不足です」

 青年期にバンドを組んでソノシートを出した経験まであるイイダには、俄かに信じがたい事実だった。あくまでもそれは、自分の拙い演奏が記録されたのが精一杯で、巨人という「Live」した存在が記録されているとは科学的に到底信じがたい。


「巨人が実態のある巨大なものである、という定義は何であろうか。それが神話的存在ならば、単なる容量に変換し保存することは意味を成さない。神話に人間の脳の持つロゴスの作用は適応されないのだ。神話が認識されるのは、パロールを通じてだが、それはディスクールに属して神話が言語の内にあるのと同時に、通常の言語を越えて、言語の彼方にもあるということを明らかにしなければならないのと同じだ。巨人がラングの持つ可逆的時間を備えた構造であり、ディスクールの『何か』を伝える上で、そこで大きさ、という概念は通常言語の中では意味を持つが、対称的思考の中では意味がない」

「では、一体どのように記録保存してるのですか?」

「トランセンデンタルへの直感が我々には潜んでいる。そう、そこにあるのは人間の心の対称性の運動と、そのプリセットされた超越認識の構造原理だけだ。相対性理論における時間の伸縮が数学的に発見された事と、このサウンドトラックの完成の観察のプロセスは極めて近しいが、一切の相互関係はない。神話はメビウスの帯だ。そこに死と生の境はない。裏は表で、表は裏だ。よって想像界でいくらでも伸縮可能に保存されてきたが、それはホモサピエンス・サピエンス以降のヒトの脳内機関に、神話を特異認識する部位が存在するからだろう。アナログ・レコードの規則性と特定のヘルツの記録方法の解明を行い、その中に人間が発見可能なスピリット世界を盤面に刻む事が可能ならば——」

「まだ具体的な方法のソリューションではありませんね。これではまるでアカシック・レコードだ」

「ケイシーほど浮世離れしていない。我々の多神教的宇宙は、高神と来訪神と残余のスピリットの複合系だ。非対称の高神の飛び出したボロメオの輪の破れの修復にこそ、対称性そのものとも言える巨人のような来訪神は現れる。メビウスの帯の切れ目は巨人によって補完され、我々の対称性は保たれる。あるいはトーラスのトポロジーでこそ生きる巨人は、メビウス縫合形のトポロジー、つまり高神に破られた切れ目を、人間の言語では認知不可能な対象として、隠され、イメージの提供をしない事によって対称性を回復することでも存在する。そのレコードの中に潜む、言語認知不可能なヘルツにこそ想像界はある。そこに巨人は秩序や規則を超えた存在として、ホモサピエンス・サピエンスの潜在的認識能力の可能性を、耳殻で認知できないヘルツの上で再現することで存在が記録される。マイクログルーブの45度の溝は回転し続ける。ライブでもスタジオでもない。エクリチュールでも民族誌でもない」


——我々の記憶そのもの。


「それが補完されている。反復するが、巨人は可逆的なラングだ。時間は不可逆だが、レコードは現実の時間軸とは別に可逆可能な二重性のメディアだ。しかもそこには、可逆的時間のラングを超えた『何か』が、耳殻が認識不可能な高ヘルツに記録されている。その長い長い記憶……それは最早、ヒトの域を超えているのだよ」

「抽象的な表現ですが、実際には一体何が記録され、どう巨人を生かしているのですか?」

「反復は好きかね?」

「気に入った音楽は繰り返し聴きます、俗世への反抗の意味もありますが」

「では、安易に分かるだろう」

 イイダは一瞬、思考を巡らせたが専門外の上に、この老人がまだ様々なことをを隠匿しようとしているのは明らかだった。


「……ところで君の生業は何だね?」

「パソコンとメディア関係です」

「ほう、まさにデジタルの申し子だね。では君はこの巨人をデジタル化する事が可能だと考えるのかね?」

「ええ、十分に可能です。アナログ・レコードの電子化は一般的です。それが仮に記憶であれ、物質化している限りね。メビウスの帯のトポロジーの応用で、まず人間の常識的概念では認識不可能な裏と表の境のない架空世界を、擬似的にシミュレートします。三次元的ユークリッド空間の再現はコンピュータでは既に発見されていますから、問題はないでしょう。あるいは、巨人の存在、それが高神であった場合によってはトーラスの穴のトポロジーでも、同様の応用が効きます。一般的な人間の認知を超えた世界を、数式上で再現して巨人によって切れ目を埋めて相対性を維持する。その人間のコミュニケーション・ツールという言語活動の限界を超える——ここは少し時間を下さい。しかし必ず1と0への変換は可能です」

「そうであろうな……人間はそうして神話を紡いできた。巨人の流布が口伝であった時代から数万年、メディウム——つまり媒体というものは大きな変容を遂げてきた。声、文字、書物、楽譜、オルゴール、フィルム、レコード、磁気テープ……」

「そして次はデジタルです。繰り返しますが、私の目的は巨人を0と1の世界に還元することだ」イイダの言葉には覚悟が漲っていた。


「——しかし君はそれを儂と祖先と家族達が許すと思うのかね? それが仮に愚行だったとして、この島が沈んだように世界の破滅が再来しないと、君は確約出来るのかね?」族長は眉を顰めた。

「貴方達の破壊への信仰心は盲目的ですが、物質に偏向した我々の世界ではファンタジーとして興味深いものがあります。しかし今の時代に破壊願望は、違った様々なメディアが欲望を満たし叶えてくれます。形而上学に即してタナトスの解放を望む巨人信仰は、所詮、隠秘学的な単なる狂ったスピチュアリズムですよ。それを極めて排他的に信仰し、上陸しただけで人を殺める民族が、いくらでも複製可能なデジタル化を許すわけがないでしょうね。独自の発展をした来訪心の信仰対象が、まるでウィルスのように拡散する世界は望まれない」

「如何にも。だが、儂も時代を考える。このままではいずれかは我々の民族も滅ぶ。そうすれば独自発展した信仰も滅ぶ。遺跡の中ではレコードというメディアも劣化する。その時に生きた巨人も共に滅ぶのならば、今のうちに電子データにしておくのも悪くはない。そうすればこれを聴きたい君の欲求は満たせるし、我々の希望も叶う」

「もし、それをコピーしたら? 電子データの複製は一瞬ですよ」

「十年近く前、この島に上陸した人類学者がいた。彼は我々との契約に従って、これを磁気テープ化する——あれは構造自体がメビウスの環だから面白かったが……そして代わりに、私はサウンドトラックを聴く事を許した。だが、その複製テープを倫敦の学会で流そうと画策した前夜、テムズ川に水死体で浮かんでいる所を発見されたそうだよ。九箇所の銃痕と共にね」

「脅しですか?」イイダは自分の目的の果てに、己の肉体が東京湾から引き上げられるところを想像した。

「いいや、我々のネットワークを甘く見ないで欲しいというだけだ」

「勿論です。この島の民兵への軍備提供には共産圏の黒い噂もあります。私だって命は惜しい」それはイイダの正直な想いだった。ここでいくらハッタリを咬ましても、一体どのようなシステムと組織で、巨大なネットワーク網が世界に張り巡らされているのかは全く検討が付かなかった。

「質問です。では何故、専門の施設に永久保管を頼まないのですか? 例えばニコラ・テスラ研究所は、未だに歴史的価値のある資料開示をも行わない。そのようにして特定の機関がサウンドトラックを永久保管すれば良い」


 酋長は薄く開いた瞼の、皺と眼球の境が無くなった遠い眼で、ここではない場所を眺めているようだった。それは人生の回想をする老人のそれだ。

「公明なアルバート・アインシュタイン博士は、原爆製造に関して大統領に手紙を書いたそうだ。ナチスドイツの降伏を迫るためには、新型爆弾が必要不可欠だ、と。そうだ、君の国に落ちた、あの放射能を撒き散らす悪魔の兵器だよ。我々も君達民族の過去の侵略を含んだ太平洋戦争と、マーシャル諸島の水爆実験を経験している。その歴史を恨みもしないが、肯定もしない。それが人間の性だ」

 会話の回流から逸脱した謎掛けの意図は、イイダには幸いにも理解出来たが、それが現実だとは思えなかった。

「仰る通りです。もし仮に、貴方の民族の信仰通りの巨人の破壊力が、仮にこのサウンドトラックに内包されているとします。形而上学に縋りすぎた憐れなロジックだと批判しても良いでしょうが、私は敢えてそうはしません。信仰の自由の保障ほど美しいものはないからです。そして酋長、貴方と共有する国家論の問題です。特定の国家が財産を著しく偏向して所有する事には私も反対です。それが例え後に原子爆弾を産むきっかけになるラジウムの発見であったとしても、世界中の実験室で共有されましたからね」

「矢張り違うな。君と儂は、いや、我々の民族とは」

 明確な回答を出した筈のイイダは、虚をつかれた気がした。彼らの神話的思考に敬意を払い、自身の無神論の感情とのパラドキシカルな想いへの着地点を探した筈だった。

「共有こそが危険なのだ」

「いえ、全ての知的財産は共有されてこそ、価値を増すものです。正しい進歩の為には、一つでもオープン・ソースを増やすべきなんです。公共性こそが学術のスタンダードを保ちます」

「君は国家というナショナリズムの幻想に囚われてはいないか。——君の祖国で二年程前に大規模なテロリズムが起こったね、君はその原因を何だと思う?」

「終末思想と誤った密教信仰に縋った結果の、国家転覆未遂という凄惨な現実です」

「では君は、その教祖が法廷で、自らの教団とテロリズムの教義の正当性を訴え、自身がキリストだと語ったらどうするのだい?」

「馬鹿馬鹿しい。日本人の正義がそんなマネを許す訳が無い」

「いや、これは善悪の問題ではない。もし仮にそういった明確な教義の下で、国家に殺害された教祖は不滅のカリスマを得るだろう。その瞬間から特定の信者には、特定の書物が聖書と化すだろう。その時に君はその書物を共有出来るかね?」

「理論の飛躍です。特定の条件の下でアーカイヴ化して、後世の宗教的テロリズム研究の資料にすれば良いだけの話です」

「良き種は宇宙が撒く、悪い種子は人間が撒く。代々続く、我々の古の言葉だ」

「私は悪い種ではない、仮に件の教祖の本を読んでも、微塵も心が動かされませんね。私がサウンドトラックをデータ化したとします。私が欲しいのは、想像力にフックをかけるための巨人です。信仰の対象にはなり得ない。自分の仕事をコンパイルする単なる材料です」 


 好々爺だった酋長が、急に敵意を露わにしたように、嗜虐的に笑った。

「如何にも生意気な小僧、愚鈍で無知な若造、宗教を失った日本人の凡庸さの権化……。しかし君に賭けてみたい、という良からぬ妄想が、今儂に産まれているのは否めない」

 イイダは知的な老人になじられて苦笑したが、このまま取引が順調に進めば構わなかった。

「良いでしょう。お望みの通り公表はしないで、電子データ化の望みを叶えましょう。それで百年は寿命の持つ媒体には出来ます。それに手前味噌ですが、私は戦後民主主義の申し子ですから、永久平和と約束は守ります。しかしサウンドトラックの巨人の痕跡については便利に使わせて貰います。そうすればオリジナルは貴方の民族で守り抜ける。損得勘定で計算して下さい。悪くないディールです」イイダは無理にでも交渉のテーブルに話を戻そうとする。

「矢張り、君は愚かしい。何も分かっていないようだな。これはシンプルな文化的遺産保護や純粋経済活動ではないのだよ。先ほど話した通り、巨人は媒体を変えても生きる、つまりそれが君のシナプスとニューロンを介して個人イメージに翻訳されても、その本質的な骨格は変わらない。巨人の力は伝播する」

「それでは、私の仕事にならない。私はサウンドトラックを0と1の芸術に書き換えるのです。マテリアルを超えたデジタルという電子の世界です。それが暴走するのは、サイエンス・フィクションの中だけですよ、酋長」

 深海、原始、超えてきた壁のその先にイイダは、この未知の巨人の力を据える必要がどうしてもあったのだ。それでないと、己の想像力のバイアスが機能しなくなる。

 それは信仰ではない。寧ろ形而上をコンピュータ化する反神秘主義的活動だ。それ故の死に物狂いの努力だった。彼は神話を内包した自身の作品にだけは、限りなく正直な存在でありたかった。

 新たなるコンピュータ・アートの神話の誕生。それはまたの名では、芸術という呪詛だった。


「そうか……どこまでも愚鈍だな、君は。物質世界と精神世界の線引きも、小さなモニターの先で曖昧な未来の到来か。根負けしたよ。だが従えんな。我々は守るべき人がいる。尊い祖霊、家族、友人、村人、そして見知らぬ日本人という隣人……」老人はいよいよ、異国から来た青年の狂気の熱意に呆れ返り、嘆息した。

 青年の誇大妄想的な一種のエゴイズムが、歴史の暗流を守護し続ける酋長に認められるわけもなく、彼は既に交渉のテーブルを降りていた。


 イイダは覚悟を決め、静かにホルスターに手を掛けコルトを抜いた。

「瞳孔が開いているぞ、日本のか弱い青年よ」下手な威嚇が通じる相手ではない。

「レコードをこちらへ」

 彼には迷いがなかったが、絶対に老人を、人を絶対に殺めないと誓っていた。

「君が撃てん事は目を見れば分かる。さあ、これを手に取りなさい」

 酋長は全てを見透かした哀感の混じった笑みで、机越しにレコードを差し出した。

「……全ては君に出逢うまでの、『役割を演じる遊戯』だったようだ」

「次に電子データをお届けするときは、銃のない歓迎を期待しています」

 しかし、一瞬躊躇したのか微かに胸に引き寄せると、イイダに尋ねた。

「最後に、聞いて良いかね?君はコンピュータで何の仕事をしているのだ?メディア関係と言ったが……」


「ゲーム・クリエイターです」


 酋長の表情が一変した。

 次の瞬間だった。イイダの耳の辺り髪が焦げた。それから一瞬遅れて銃声が内耳に届いた。モスキート音に似たの高い周波数によって、鼓膜が完全に麻痺した。それから硝煙の臭いが鼻腔を突くまでは更に数秒を要した。

 酋長が金庫から取り出し、レコード盤の下に隠していた拳銃の銃口がこちらに向けて、火を吹いたのだ。この老人は、鼻から日本の青年を信頼などしていなかったのだ。彼が二発目の発射を試みた瞬間、イイダは素早くトリガーを引いた。

 そして、冷静さを欠いた発砲の末、サプレッサーの乾いた銃声と共に、酋長の腹と胸に三発の穴を開けた。そこから胸から止めどなく流れる鮮血が辺り一面を深紅に染め上げた。

 イイダは慌てて駆け寄ると、酋長の動脈にそっと震える手を当て死亡を確認し、何とか銃弾と血液の付着を逃れたレコードを、一心不乱にバックパックに仕舞った。彼は老人の放った銃声で民兵が集まるのを危惧して、直ちにその場を後にした。


 ジャングルを、死に物狂いで駆ける。


——コロシテシマッタ。

——俺は殺人者だ。


 イイダは、絶対に破らないと決めた非暴力の魂の契と引き換えに、一枚のサウンドトラックを手に入れた。

 一体そこには何が記録されているのか……。

 もしこれから、仮に自分がこれからどんなゲームで人を幸福にしようとも、クリエイターは常に社会に銃を向けて、プレイヤーを殺さざるを得ない事を悟った。

 そしてこの島には、もう二度と訪れまいと誓った。

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