ハッピーエンド
鹽夜亮
第1話 岐路の最中
肩こりを感じながら、俺は目を覚ました。また交感神経が悪さをしたらしい。身体中が痛い。眠っている間に緊張している、といえばどこか笑える話だが、実際そうなのかもしれない。覚めきらない頭のまま、ふらふらとした足取りで階段を降りる。
「おはよー」
「おはよ」
化粧をしている母に挨拶をして、ホットコーヒーを淹れる。インスタントだ。以前は拘っていたが、最近はこれで満足するようになった。特別美味しいわけはない。だが、コーヒーではある。くるくるとカップを軽く回しながら、溶けていく粉を眺めて、お湯を足す。
灰皿と煙草を掴んで玄関の外へ出ると、くしゃみが出た。春がきたと言えればなんと綺麗だろう?実情は黄色い花粉の到来である。煙草に火をつけ、コーヒーを啜る。この時間は一番の幸せだ。目線を左に移せば、黒色の愛車が花粉にまめれて大層汚れているのが目に入る。洗っても翌日の朝にはこれだ。…そう思いつつも、俺は今日洗車機に愛車を放り込むことを決めた。
「いってきまーす」
「気をつけてね」
ご機嫌な挨拶と共に、仕事へ行く。すぐ馴染みの煙草屋で二箱買い足して、一服をして。ルーチンになったそれは、俺にとって日常の幸福に他ならない。
職場が近づくにつれて、心臓が跳ねるのがわかる。喉はありもしない異物を吐き出すかのようにえずきを繰り返している。そういえば今朝も何も食べていない。せめてもの情けにゼリーを流し込み、俺は車を進めた。
「おはようございますー」
「おはよーう。今日は大丈夫か?」
「まあまぁです。大丈夫です」
上司との会話を終えて、自分の仕事を始める。営業職から裏方に転属して、もう一年が経った。早いものだ。少なくとも、俺にはこちらの方が向いているのだろう。孤独に、ただ目の前の事物と己にだけ向き合いながら、ゆっくり成し遂げていく今の仕事は、性に合っている。
半日の仕事を終え、喫煙所で一服をする。美味しい。吸っていると、続々と元営業職だったころの同僚たちが集まってくる。
「お。生きてるじゃん。いつぶりだ?」
「半年ぶりくらいですかねー」
その言葉に先輩はカラッと笑う。
「まるでレアモンスターだな」
「しかもゾンビなんで、死んでも生き返りますよ」
「倒しても経験値は少なそうだ、落とすアイテムは煙草か?」
「でしょうね」
喫煙所での軽妙な会話は楽しい。このために仕事に来ている、と言ったら過言だろうか。
「今は半日勤務か?」
「そうです。吸い終わったら帰りますよ」
「そっか。…営業、戻ってこいよ」
「それは無理ですねぇ」
煙草を揉み消し、去っていく先輩の背に、呟きは消えた。…
仕事終わりは家路を急ぐ…というほど急ぐこともない。会社を出て、最寄りのコンビニで一服する。そこで一時間程時間を潰すこともしばしばある。別に家が嫌いなわけではない。ただ、帰宅すると、もう他に何もできなくなってしまう気がして、どこか勿体なく感じるだけだ。もしかしたら元気を持て余してるのかもしれない。元気など、ないはずなのに。
帰宅して、眠る。半日といえど、今の自分には十分な疲労を感じる。夕暮れ時、彼女から夜電話しようとメッセージが入っていた。ああ、それもいいだろう。二つ返事で了解の旨を送って、長湯に浸かった。ぬるま湯は優しく、安定しない自律神経を癒してくれる。柔らかに宥めるように、交感神経の昂りが鎮められるのを感じる。…
日付が変わる頃。ベッドに入ると、ちょうど電話が鳴った。
「お疲れー」
「おつかれさま」
電話越しの声に張りはない。疲れているのかもしれない。
「あのね」
言葉が途切れる。ため息が聞こえた。ああ、そうか。来る時が来たか、と俺は少しだけ目を瞑る。
「あのね…」
「……うん。ゆっくりでいいよ」
泣き声が聞こえる。予感は、徐々に確信へと変わっていく。不思議と、心が痛むことはなかった。そうなるものだと、俺は知っていたから。
「あの…ね。お別れ、しない?」
予感は当たるものだ。俺は自分の第六感を信じている。それが悪いものならば、尚更だ。
ほら、こうしてまた、一つ。
「…………そうしよっか。辛かったね。ごめん」
泣き声が聞こえる。夜の闇に飲み込まれず、その中でも悲痛に、孤立した泣き声が。電波に乗せられて、胸の痛みを投げつけるように、耳元で響く。
眠るまで、何かを話した。覚えていなかった。常用する睡眠導入剤は、度々俺の記憶を飛ばした。ただそれが、いつも通り作用しただけだった。朝起きると、元彼女から普段通りのメッセージが来ていた。ああ、そうだ。確か友達に戻る、と言ったんだっけ。あれは俺なりの慰めだったんだろうか。それとも甘えだったんだろうか。わからない。
返信をしないまま、俺は煙草を買いに、車を走らせ始めた。…。
ハッピーエンド 鹽夜亮 @yuu1201
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