第3話

「――ぐ、ぶはッ!」


 突然の水攻めに溺れそうになって、慎一は発作的に目を覚ました。

 すると、なぜか視界が上下逆転している。空が下に、地面が上にある。

 ついでに顎と首が痛かった。


「ゴッ、ゴホ、ゴホッ! ……うう、これは、一体……」


 激しく咳き込んで身を屈めようとするが腕も脚も動かせず、体は真っ直ぐ伸びたまま。縄で縛られ、宙吊りにされているらしい。実に懐かしい締め付け具合だった。


(確か、生徒会室で、ロッカーに呑み込まれて……それで、えーと……ここ、どこだ?)


 慎一がぼんやり鈍い頭で考えていると、


「やっと起きたわね、この変態ッ!」


 凛と気品ある声が乱暴に投げ掛けられる。それも、なぜか英語で。


「え……えっと、君、は……?」


 慎一は相手に合わせて英語で訊いた。見上げ、改め見下ろした先では、紅髪蒼瞳の美しい少女が、なぜか眉を吊り上げて仁王立ちしている。


 そして、不可思議なことに、少女は随分と古風な服装だった。


 ここで古風というのは、まるで演劇で使われる衣装のような、百年以上前のヨーロッパの貴族が普段着として着ていたような意匠ということ。シンプルな装いで仕立ても良く、少女の上品な雰囲気とも非常に好く合っていたが、現代を生きる者としては、どうしてもチグハグ感が勝ってしまう。


 加えて、少女の背後には女性が二人と男性が一人――いずれも若く、こちらも日本人の外見ではない。


 さらに、その背後には大きなお屋敷が建っている。意匠から察するに裏側だろう。


 つまり、現在、見知らぬ大きなお屋敷の裏で、見知らぬ人物たちに囲まれ、きつく縄に縛られた上、宙吊りにされている、ということになる訳だが……。


(んー……つまり、どういう状況……?)


 俄かに混乱し、独り渋面を作っていると、


「ききっ、『君は……?』ですって? 私に、あ、あ、あんなことまで、しておいてッ!」


 どうやら怒らせてしまったらしく、少女の顔が鬼の如く赤くなる。


「あの、状況が一向に理解できないのですが……宜しければ、説明して頂けませんか?」


 極力相手を刺激しないよう、慎一は丁寧に発言したのだが、


「あんたねぇ――ッ、記憶喪失の振りしてれば有耶無耶にできるとでも思ってんじゃないでしょうねッ! そうはさせないんだからッ! あ、あ、あれだけのことをしておいてッ、許される訳ないでしょッ! あんたなんか、あんたなんか――ッ!」


 少女が顔を真っ赤にして、蒼い瞳を潤ませて、周囲も憚らず喚き散らす。


 しかし、依然として何のことだか皆目見当も付かなかった。


「――なぁ、お嬢、もっとちゃんと状況を整理した方が良くないか?」


 後ろで様子を窺っていた青年が両手を頭の後ろで組み、どこか気の毒そうに発言する。

 身に付けた白シャツはくすんで草臥れ、ブーツとズボンには黒い土が付いている。短く刈り込んだ髪と瞳は薄茶色で、そばかすの浮いた顔は日本人のそれより随分白かった。


「そうだぜ、ベティ。女の敵なら即死刑でも仕方ないが、こいつにも何か事情があるのかもしれねえだろ?」


 続いて擁護したのは背の高い女性。少し癖の強い茶髪を後ろで小さく纏め、調理師のような白い服を着ている。実際に料理人なのかもしれない。


「あっ、あんたたち……まさか、こいつの肩を持つつもり……ッ!」


「いや、そういう訳じゃないが……どうも様子がなぁ。少なくとも、ベティが考えてるような輩には見えねぇんだよな……」


「オイラも同感だ。お嬢の部屋に侵入したのが事実だとして、その目的が全く見えねぇ。直ぐ傍まで侵入しておいて、この結末は余りにお粗末だ。それに、こいつの胸ポケットには正規のパスポートが入ってたからな」


 青年が深紅の小冊子を掲げる。ロッカーに呑み込まれる直前、莉亜が胸ポケットに入れたものだ。パスポートだったらしい。


「そっ、そんなの関係ないわよ! あんたはどうなの、エミリーっ!」


「うーん、どうかしら。私は……そうね、面白そうな方に賛成かしら。ふふっ」


 メイド服姿のエミリーが、トンチンカンなことを言って優美に微笑む。明らかに、この状況を愉しんでいた。


「これは、一体何の騒ぎですか?」


 屋敷の方から、渋い声。さらに参加者が増えるらしい。


「あっ、ジョナサン、テオドラ、やっと帰って来たわね! 今、この変態の処遇につ

いて、侃々諤々議論していたところよ。あんたたちの意見も聞かせなさい!」


 新たに加わったのは、執事服を着た二人組。


 一人は、白髪白髭を上品に整えた胸板の厚い長身の紳士。

 もう一人は、深い藍色の長い前髪を真ん中で綺麗に分けた十代半ばの美少年。


 ただ、美少年の方は、良く見ると喉仏がなく骨格も男性のそれではない。恐らくは女性だろう。それでも、姿勢の良さから丁寧に鍛錬されていることが察せられる。


「――はあ。ところで、彼は一体何をしでかしたのですか?」


 白髪紳士ジョナサンが眉根を寄せて訊く、と、


「そっ、それは、その……っ」


 少女が俯き、頬を染めて口籠る。そこで、


「ふふっ。彼は大胆にも、ベティの女の子なところに顔を埋めたんですよ。ねぇ、ベティ?」


 少女に代わり、エミリーが笑顔で答えた。実に愉しそうに。


「な、な、な……ッ」


 突然の暴露に少女が言葉を失くして震え上がる。紅潮した顔から湯気が上り、頭上にもくもくと雲を作った。


「死刑です。断固、死刑です。さあ、今直ぐ執行しましょう」


 男装執事テオドラは即座の死刑を求刑した。かなり目が怖い。


「はあ、それは、何とも……おや? 君は、ひょっとして――」


 ジョナサンは困り顔で慎一を見詰めていたが、突如として表情を変えた。太い眉が持ち上がり、厳格な両目が丸く見開かれる。


「――シンイチ・カザヤ君では、ありませんか?」


「へ? そうです、けど……僕のことを、知ってるんですか?」


「ええ、勿論です。しかし、どうして、君が……」


 ジョナサンは慎一のことを知っているらしい。顔を大袈裟に歪め、慎一をじっと見据えている。と、何やら思い付いたらしく、慎一からエミリーに視線を移した。


 しかし、一足先、エミリーは明後日の方向へと目を泳がせていた。

それを確認して独り納得したように頷き、再び口を開く。


「君、パスポートは持っていますか? これくらいの深紅の小冊子なのですが」


「ああ、大将、それならここにあるぜ」


 青年が深紅の小冊子を手渡す。ジョナサンは黙って中身を確認した。


「ああ、やはり間違いありませんね。カザヤ君、本当に申し訳ない。どうやら手違いがあったようです。テオドラ、彼を下ろしてあげなさい」


「しっ、しかし、執事長ッ! くっ……はい」


 テオドラは反論を試みるも、言葉にすることなく素直に指示に従った。懐からナイフを取り出し、慎一を吊るすロープへと放つ。


「げっ!」


 枝と足首を繋ぐロープが切れて、慎一は独り落下を始め――、


「――ぐあッ! ん、ぐうぅ、いてて」


 重力に従って落下し、受け身もロクに取れずに、肩と腰を強打した。

 そこへ、不運にも枝に刺さったナイフが落下して、眼前の地面に突き刺さる。


「ひ、ひぃ――――ッ!」


「チッ」


 顔を引き攣らせる慎一を見下ろし、テオドラが舌打ち交じりにナイフを回収して離れて行く。お陰で宙吊りからは解放されたが、依然、残念過ぎる芋虫状態だった。


「ちょっと、ジョナサン、どういうこと? 説明なさい」


 慎一には目もくれず、少女が不満を露にジョナサンに咬み付く。


「彼は、その……今回招聘した、例の……」


 ジョナサンは気不味げに口を開いた。


「は……はあぁああぁあッ! こっ、こここ、こいつがぁ……ッ?」


 少女が驚愕し、直ぐさま顔を歪める。徐に視線を下げて、顔面を激しく痙攣させた。


「はい。間違いありません」


「そういえば……髪も、瞳も……」


「はい」


 少女とジョナサンは二人だけで納得し、瞬く間に話を終わらせた。


 一方、慎一は何が起きているのか分からず、独り呆けて静観する外なかった。


「――はぁ……ちょっと、色々整理したいから、後で、私の部屋へ連れて来なさい。諸々、話はそれからよ」


「はい。畏まりました」


 憂鬱そうに深い息を吐いて、少女は頭を抱えた。

 深く肩を落とし、回れ右して歩み出す。その足取りは重く、どこか覚束ない。


「はぁ……」


 最後にもう一つ、少女は深い溜息を残して去って行った。


 少女が発つと同時、興味が失せたのか外野たちも一斉に散って行った。人を縛って吊るしておいて実に薄情極まりない連中である。


「この度は、何と申しますか……災難でしたね。本来は、明日、こちらへ来て貰うはずだったのですが……」


 唯一残ったジョナサンが、何やら言い訳をしながらも、きつい拘束を解いてくれる。まさに地獄に舞い降りた白髪の天使であった。


「ん? あれ、日本語……?」


 慎一がワンテンポ遅れて驚く。ジョナサンが何気に日本語で話していたからだ。


「ああ、私は少しだけ話せますので」


「はあ、そうですか……ところで、あの……とりあえず、状況を説明して貰いたいのですけれど……」


 依然日本語で話すジョナサンに合わせて、慎一も遠慮なく日本語で切り出した。


「そうですね。しかし、先ずは屋敷の中へ。このままでは風邪を引いてしまいます」


 洗練された所作で以って立ち上がり、ジョナサンが独り背を向け歩き始める。


「ああ、はい……」


 漸く縄から解放された慎一は、ずぶ濡れの上半身を確認して、凝り固まった体を解しつつ、黙って大きな背中を追い掛けた。




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Princess & Chair ~王女殿下の椅子、はじめました~ 風見書房 @kazamiya_shouten

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