第2話

 朝――広い室内はまだ薄闇の中に在った。


 ゆっくりと薄らと、淡く白く、世界が輪郭を掴んでゆく。

 霧と共に眠っていた森が目を覚まし、梢の鳥たちが囁き始める。

 窓辺では、セピア色の調度が、頼りなく静かに夜明けの気配を湛えていた。

 

 そんな中、穏やかな笑みを浮かべた若い女性が、分厚いカーテンを勢い良く開ける。朝の光が薄闇を掃い、深紅の絨毯が盛りの花畑のように微睡んだ空気を鮮明に彩った。


「――おはよう、ベティ。今日も良い朝ね」


 今日も変わらぬ外の景色を確認して、女性が振り返り、優しく、しかし溌剌と告げる。白と濃紺の服は、使用人のもの。後ろで纏められた髪は緩やかに波打ち、明るい茶髪は朝陽を受けて薄く輝いている。


「ん、んん――」


 ベッドの上、上質なキルトの中から、モゾモゾと少しずつ紅色の頭が這い出す。

 燃えるような紅が、純白のシーツを背景に鮮烈な存在感を放っていた。


「エミリぃ……」


 キルトを撥ね退け、まどろんだ声と共に、部屋の主である少女が一糸纏わぬまま姿を現す。絹のように滑らかな柔肌と、長い四肢が露になる。

 依然女性として未成熟な身体は、凹凸が小さくしなやかだ。それを一部覆い隠すように、紅く艶やかな長い髪は身体に張り付き、あちこちで忙しく撥ね回っている。


「服ぅ……」


 まだ半分も開かない目を擦りながら、少女が舌足らずに要求する。


「はい、はい。まったく、もう」


 傍、女性によって、ベッドの上に着替えが一式並べられた。


「ほら、ベティ、しっかりなさい」


「うぅん……」


 聞いているのかいないのか、少女はシーツを引き摺りながら、覚束ない足取りでゆっくりベッド脇へと降り立つ。

 服を着せてくれるのを待っているのだろう。正面クローゼットと対峙するように、ベッドを背にして直立し、そのまま頑なに動こうとはしない。


「エミリぃ」


「はい、はい。ちょっと待ってね」


 少女が再び瞼を落とし、女性がせっせと準備を始める、と――


 バタンッ!


 クローゼットの扉が開き、黒髪黒瞳の少年――

 風谷慎一が猛烈な勢いで吐き出された。


「ぐッ! わっ! ぐへ――ッ!」


 慎一は不細工な前転を繰り返し、正面、少女に向け、一直線に転がって――、


 ぺちんッ 「ぶっ!」


 勢いの落ちたところで丁度、柔らかな『何か』に顔を埋めた。


「んッ、ん、んん――?」


 ほとんど条件反射で、自分の顔面を受け止めたものを確認する。

 無造作に両手で触れて揉みしだくと――(ん、柔らかい……?)

 程良い反発があって、指馴染みも好い。加えて、温かくて艶やか。しっとり仄かに湿っており、マシュマロのように優しく顔を包み込んでいる。


 しかし、それ故に、満足に呼吸ができず苦しかった……。


「――ぷ、はっ! 何だ、これ……?」


 漸く正気に戻って素早く顔を引き剥がし、両手はそのままに目の前の状況を確認する。なぜか、甘い芳香漂う中、視界がほとんど肌色だった。


 訳も分からず呆けていると、


「――へ?」


 突然、上からの声。


「へ――?」


 瞬時に反応して、慎一が視線と共に顔を上げる――


 と、目の醒めるような紅髪と、蒼穹の如き蒼い瞳を持つ可憐な少女の顔が、静かに自分を見下ろしていた。


 不意に、視線が交わる。

 零れ落ちそうな蒼が時を奪い、思考と肉体を静止させる。


 故に、今、顔前にあり、鷲掴んでいるものにまでは、一切気が回らなかった。


「い――」


 少女の綺麗な顔が、恐怖と嫌悪で微かに歪む。


「――い?」


 咄嗟に意識を引き戻し、慎一が首を傾げた、

 その刹那――、


「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――――」

「ぐぅッ!」


 朝の静寂を切り裂く絶叫と共に、少女会心の膝蹴りが炸裂。

 小さな膝頭が慎一の顎を強烈に打ち抜き、上半身が撥ね上がる。


 不幸にも、人並み外れた反射神経を持つ慎一は、迫り来る膝に向かって僅かに顎を

戻してしまい、結果、ダメージは格段に撥ね上がった。


 さらに――、


「――――――――――――――――――――――ッ!」

「ぐぉッ!」


 畳み掛けるように、会心の回し蹴りが炸裂。

 完全に脱力し伸び切った首筋に、少女の細い脛が深く食い込む。


 その鋭い蹴りに押し遣られ、上半身は綺麗に右へ九〇度回転し、慎一は硬い床へと強烈に打ち付けられた。


「く、は――ッ!」


 恐るべき怒濤の二連撃を受けて、慎一は一瞬で意識を手放した。

 既に白目を剥き、だらしなく口を開けている。


 一方で――、


「なっ、なな、な――――ッ!」


 少女は顔色を忙しく変えながら小刻みに震えていた。状況が理解できないらしい。


「何なのよ、こいつッ!」


 漸く形になった言葉も虚しく、回答できる人間は完膚なきまでに伸びていた。


 そして、その傍――、


「あらあら、まあまあ」


 混乱する少女と無残に伸びた慎一を交互に見詰め、女性が口元をそっと覆う。

 しかし、小刻みに震える両肩までは隠し切れていなかった。


 果たして誰が悪いのか……その時の慎一には、当然知る由もなかったのである。




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