第1話

 桜も散り始める四月半ば――。


 東京西部に位置する八皇子(はちおうじ)市は、少し遅い春の盛りにあった。 

 そんな市内の、市街地外れの、とある高校の校舎内――新学年の新学期ともあって、校内は忙しなく、浮わついた空気が漂っている。


 そこに、遣る気なく廊下を歩く少年が一人――

 彼の名は、風谷慎一(かざやしんいち)。


 ここ、市立鷹峰(たかお)高等学校の二年生だ。

 現在、生徒会長の呼び出しを受けて絶賛行軍中である。

 その足取りは鉛の如く重く、肩は草臥れたように落ち、視線は僅かに下を向いている。両手を突っ込んだポケットの中には、当て所ない虚無感ばかりが詰まっていた。


「はぁ……」


 校舎四階、生徒会室の扉前――ついに重たい歩みを止める。

 近付くことすら御免被る『魔窟』を前に、暫しの沈黙――。


 沈み込む遣る気を奮い立たせて、ノックを四回――

 間もなく、綺麗な声が応答した。


「どちら様かな?」「――風谷です」


「入りたまえ」「――失礼します」


 室内からの声に従って、生徒会室の扉を静かに開ける。

 視線の先、静かな部屋の奥には、儚げに窓外を臨む女子生徒が一人――

 来訪者には目もくれず、腰まである黒髪を夕暮れ前の湿った風に靡かせている。


「――やあ、ダーリン、ご機嫌よう。健勝そうで何よりだ」


 永遠にも似た一瞬の間をおいて、彼女が優雅に振り返る。理知的な笑みを浮かべ、来訪者を陽気に出迎えた。


 部屋の主であり現生徒会長である彼女の名は、鷹尾莉亜(たかおりあ)。


 現在、三年生で学年主席。

 その才気たるや凄まじく、入学から現在まで不動の首席で全国模試は常に一位。生徒会長の職にも、入学間もない四月中に前任を論破して辞職に追い込み、そのカリスマ性を発揮するまでもなく、全生徒の信任を得て就任していた。


 加えて、彼女は学校一の美貌の持ち主として問答無用で周知されている。その艶やかな黒髪が風に靡くのを見ただけで失神する男女が続出したという伝説を持ち、学校中の部活と同好会を、その類稀な運動神経と知能を以って、退屈を紛らわせるためだけに蹂躙したことも相俟って、畏怖と畏敬の念を込めて崇め奉られている。


 また、こういった伝説は枚挙に暇がなく、教師どころか政治家や財界の大物でさえ彼女の前に平伏すと、まことしやかに語られていたりもする。


「――あの、いい加減止めてくれませんか、その呼び方」


 慎一は露骨に顔を顰め、緩めに睨み付けた。抵抗したところで暖簾に腕押し、どころか火に油なのは経験上重々承知していたが無視することもまたできなかった。


 対して、我が意を得たりとばかりに、莉亜が表情を急変させる。


「そんな……あの夏の日、汗に蒸れた体を重ね合った仲じゃないか。それなのに、それだというのに、君は……」


「そんな夏の思い出は記憶にありません。捏造は止して頂きたい」


「なら、あの冬の日、二人で身を寄せ合い温め合った夜のことは……」


「知りません」


「まさか、いつか一緒になろうと誓い合ったことも……」


「寝苦しい夜の夢ですね」


「では、私たちの間にできた可愛い双子の姉妹は……」


「あんた、処女でしょ」


「――まったく。相変わらず容赦がないな、君は。最後のは明らかにセクハラだぞ」


 なぜか満足気に、莉亜はやれやれといった風情で首を振った。


「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ(パワハラ・モラハラ被害の利子付きで)」


 慎一もまた例の如く眉間に皺を寄せ、呆れ半ばに睨め付けた。


「ところで、用件は何ですか? 先に言っときますが、厄介事は御免ですからね」


 若干の敵意を込めて、慎一はウンザリした様子で告げたのだが、


「ふふっ、早漏癖の方も相変わらずのようだね。もっとも、私は嫌いではないが」


 微かに頬を染め切れ長な目を歪めて、無邪気な笑顔を向けられる。相変わらず、その美しい唇から零れるのは、いつもの残念な下ネタばかり……。


「用がないなら帰ります。左様なら、生徒会長」


 これ以上、付合ってはいられない。慎一は颯爽と踵を返した。


「あ、こら、待ちたまえ。私が悪かったよ」


「本当に、そう思ってますか?」


「いや、まったく」


「はぁ……」


 莉亜の屈託ない表情に、思わず頭を抱える。実際、彼女のこういうところが嫌いではなかったのだから、どうにも始末が悪かった。


「それで、用件は何ですか?」


「ああ、それなんだが……立ち話もなんだし、とりあえず掛けてくれたまえよ」


 莉亜が中央の応接セットを顎で示す。校長室のそれより遥かに高級であろう黒革のソファに、慎一は黙って腰掛けた。


 対して、莉亜はソファには座らず、大きな執務机に小さな尻を乗せる。年中黒タイツを纏った長い脚を優雅に組み、機嫌良く爪先を弄んでいる。


「実は、君にお願いしたいことが――」


「嫌です」


 莉亜の言葉を遮って、慎一は眉間に皺を刻み、力強く毅然と即答した。


「ちょっと、君……いくら何でも、返答が早過ぎやしないか?」


「そりゃ、こちとら、あんたの『お願い』を聞いて、ロクな目に遭った試しがないんでね」


「というと?」


「はぁ……昨年、ちょっとした海外派遣のアルバイトの名目で、南米の麻薬シンジケート撲滅作戦に貧乏男子高校生を放り込んだのは、どこのどいつだ……? 海外姉妹校との交流の名目で送り出し、結果なぜか人身売買組織の炙り出しと殲滅に一般男子高校生を奔走させたのは、どこのどいつだ……?」


「はて、誰だろうね?」


「どれもこれも、全部漏れなく『あんた』だよッ!」


「はははっ、そんなこともあったね。実に懐かしい」


「『そんなこともあったね』じゃねぇよ! 一週間掛けて熱帯ジャングルの中を縦走するのがどれ程の地獄か、あんたに分かるか? 一週間ずっと獣と毒虫と汗臭い野郎共に囲まれて、汗と泥と草に塗れたまま風呂にも入れないなんて、もう御免だ! 女装させられた挙句、硝煙と爆煙に捲かれながら廃墟を駆け回る憐れな高校生男子の気持ちが、あんたに分かるか! 変装を徹底するために女物の下着まで着用させられる惨めは、もう二度と御免だ!」


 昨年の恐怖体験を想起して、慎一は狂ったように捲し立てた。


「ふふっ、確かにそれはキツイな。しかしね、君。君のその働きのお陰で、我々は某国政府に大きな貸しを作ることができたのだよ?」


「んなもん、僕には一文の徳もねぇよ! 得したのはあんたらだけだよ! 大体、日給手取り四五〇〇円って、何だよ、何なんだよ! それなら、学校休んで工事現場で一日働くわッ!」


 息も切れ切れ、さらに捲し立てるも、


「まあ、良いじゃないか。人生なんてそんなものだよ、君」


 莉亜の心には何一つ響かず、半ば絶望する慎一であった。


「ところで、君。風の便りによると、現在職を失して困窮しているそうじゃないか?」


「ええ、そうですよ。絶賛求職中です。だから、こんなとこで駄弁ってる暇なんて、耳の毛程もないんですよ」


 慎一の実家は、かつて父親が多額の負債を残して失踪したがため、一家全員路頭に迷う寸前まで追い込まれたことがある。


 現在、借金の大半は『色々』あって何とか返済済みだが、依然貧乏であることに違いなく、加えて母親が病弱なため、中三の妹と小二の双子の妹弟も慎一が養っていく必要があった。それだというのに二週間前にバイト先を突然クビになり、その後も採用されては訳も分からずクビになり、現在面接すら連戦連敗……運が悪いにも程がある。


「まあまあ、そう苛々しないでくれたまえ。そういうところも紛うことなき君の魅力だが、今日は好い報せを用意したのだよ。どちらかというと喜んで欲しいものだな」


「好い報せ、ですか……?」


「ああ、君に一つ、アルバイトを紹介したくてね」


「帰ります」


「こらこら、短気は損気だぞ、君」


「あんたが紹介したバイト遣るくらいなら学校休んで工事現場で働くって、今言ったばかりですよね?」


「そうだったかな?」


(このアマ……)


「しかしね、君。親切心で言わせて貰うが、この件を蔑ろにするのは賢明ではないと思うよ?」


「どういう、ことですか……?」


「どうもこうも、今現在、君は求職中で経済的に危うい立場にあり、アルバイト探しも悉く失敗続き。そうだね?」


「ええ、まあ……」


「そして、この先、どれだけ頑張っても、その努力が報われることはない」


「そんなこと、分からないじゃないですか……」


「分かるさ。何せ『私が手を回している』のだからね」


「あっ、ああ……ッ! あんたの、仕業か――――ッ!」


 慎一は絶叫した。思わず莉亜に掴み掛かる勢いだったが、残念ながら膨らみ過ぎた驚きと怒りは脱力へと急速変換された。最早、立っていることすら難しかった。


 莉亜の実家は『鷹峰財閥』という大企業グループの中核を成す最有力の名家だった。彼らは国内外に太いパイプを多数持ち、首都圏を中心に大きな勢力を振るっている。

 特に、お膝元であるここ八皇子市での信頼と権勢は絶大なものだった。


「いやいや、健気に頑張る君が余りに愛らしくてね。ついつい泳がせ過ぎてしまった。いや、済まなかったね」


 そう告げる莉亜は今日一番の笑顔だった。この女、他人の人生を手玉にとって何がそんなに可笑しいのか。


「くっ……これじゃ、完全に脅迫じゃないか……ッ」


「そうかもしれないね(笑)」


「何が(笑)だ! 悪びれもしないなんて、最早あんたは『魔王』だよ、生徒会長」


「おいおい、そんなに褒めてくれるなよ。どんなに褒め千切ったところで、私に提供できるのは、この綺麗な貞操くらいのものだよ、君」


(ああ、もう駄目だ……何を言っても、通用しない……)


 どうやら貧乏人・風谷慎一の人生は、この魔王によって蹂躙される外ないらしい。


「はぁ……で、そのアルバイトとやらの内容は?」


 いい加減諦めて、素直に詳細を聞くことにする。ホント、諦めが肝心とは良く言ったものだ。


「おおっ、良くぞ訊いてくれた。安心したまえ。今回は、飛行機にも船にも搭乗する必要は一切ない。業務内容も事務と雑務がメインで、君からすれば可愛いものだ」


 この発言を素直に信じるならば、少なくとも国内での業務だと期待できる訳だが……。


「時に、君、英語は話せたよね?」


「ええ。暫くまともに使っていないので、何とも言えないところはありますけど、日常会話程度なら問題ないかと。読み書きも、余程専門的な領域を除けば、何とか」


「ふむ。では、他の言語はどうだい?」


「そうですね……ロシア語なら英語よりは自然に使えるかと。あと、スペイン語とフランス語とドイツ語とイタリア語ならそれなりに対応できます。アラブ系ならフスハーとペルシャが少々、中国語なら北京と上海と香港の訛りには対応可能です。あと、先の言語と類似点の多いラテン・ゲルマン・スラブ系の準メジャーな言語なら努力次第で何とか……」


「うむ、流石は『特待生』だな。実用的なこと、この上なくて結構だ」


 ここ、市立鷹峰高等学校では、鷹峰財閥の息が掛かっているためか、公立校には珍しく特待生制度が設定されている。

 特待生は学業や特殊技能などを総合的に評価して認定され、財団から年間一〇〇万円程度の奨学金が給付される。加えて、特待生には自主的な学習を推奨しており、原則として授業等への参加が本人の裁量に委ねられていた。


 つまり、特待生は毎日が自由登校であり、周囲に合わせて時間を浪費せず自ら付加価値の高い時間の使い方を選び実践せよということ。

 因みに、莉亜も数少ない特待生の一人だった。


「――あと、報酬なのだが、今回はこちらからもいくらか出したいと思っている。本来、報酬は任務完遂時に満額支払われるのだが、今回は着手金として五〇万、完遂時にボーナスとして更に五〇万用意してある」


「ごっ……ごごご、五〇万っ! 合わせて、一〇〇万ッ!」


「ああ。さらに、完遂時に先方から支払われる報酬が二〇〇万だから、無事遣り遂げさえすれば合計三〇〇万円のゲインだな」


「さっ、三〇〇――ッ!」


 昼食を水道水で済ませることも少なくない残念な慎一にとって、まさに驚天動地な金額だった。それだけあれば、毎日購買の焼きそばパンが食べられるではないか。いや、コロッケ玉子パンに手を出すことだって可能だろう。それどころか牛乳のオプションまで付けられる。


「――と、まあ、こんな感じなんだが……遣ってくれるね?」


「うっ、ううう……」


 今や、慎一は完全にカネに目が眩んでいた。刻一刻と大きくなる生活への不安が、知らず知らずの内に冷静な判断力を奪い、視野を極端に狭めていた。


 故に、それこそが莉亜の策略だと気付く余裕もまた、見事に喪失していて……。


「考える時間をあげたいところだが、急を要する案件なものでね――おっと」


 机上のティーカップに手を掛けようとして、莉亜が誤ってカップを落としてしまう。

 床に落ちたカップが、高い音を立てて割れ散る。幸い中身はほとんど飲んでしまっていたらしく、床はほとんど濡れずに済んだ。


「ああっ、しまった。お気に入りだったのだが仕方ない。済まないが、隅のロッカーから箒とちりとりを取ってくれるかな?」


「えっ……ああ、はい……」


 依然、慎一は、先の莉亜の言葉を素直には信じ切れずにいた。


 依頼を引き受けるか否か思案したままどこか頼りなく、部屋の隅、掃除用具入れとして使われているロッカーへと向かう。

 箒とちりとりを取り出すべく、灰色のアルミ扉を右手で引いて開ける、と――、


「ん? 何か、暗い……?」


 開いたロッカーの中は異様に暗く、なぜか一切の掃除用具が見当たらない。


「あの、箒もちりとりも、ないんですけど……」


「そんなはずはないよ。良く探してくれたまえ」


 そんなこと言われても、ないものはない。

 それにしても、このロッカーの中は不自然なまでに暗過ぎる。果たして、明るい屋内で開いたロッカーの中が真っ暗なんてことがあるだろうか。


「んー(やっぱり、ないよな)……あの、会長――って、うわッ!」


 再度確認を取ろうとした瞬間、莉亜に背中を押され、慎一はロッカーの中へと押し遣られた。

 慌ててロッカーの奥へと右手を伸ばし、何とか体を支えようとするが、


「えっ! ちょっ! うわっ、うわ――――ッ!」


 手を伸ばした先、そこにあるべき壁はなく完全に空振りで、憐れな右手は真っ暗なロッカーの奥へと吸い込まれていった。


「やばい、やばい、やばい――――ッ!」


 素早く反転し、左手でロッカーの縁を掴む。引っ掛かったと表現すべきかもしれない。右手だけでなく、既に右半身がロッカーの奥へと呑み込まれていた。


「ちょッ……会長、何ですか、これ! ロッカーの中にブラックホールがッ!」


 慎一が恐怖と混乱に震えながら叫ぶ。事態が全く呑み込めない。


「はははっ。面白いことを言うな、君は。ロッカーの中にブラックホールなど在るはずがないだろう?」


 莉亜は愉快気に笑う。腰に手を当て、呑気にヒラヒラと右手を振っている。


「いやいや! 笑ってる場合じゃないよ! 実際に、今、呑み込まれてるからッ!」


 慎一は猛烈な勢いで吸い込まれつつある。縁に辛うじて引っ掛かっているのは指先だけで、余り長くは持ちそうにない。中で踏ん張っている左足も、申し訳程度にしか踏ん張りが利かなかった。


「ああっ! そうだ、そうだ、私としたことが忘れるところだった。危ない、危ない」


 突然思い付いたように告げて、莉亜が執務机から紅い小冊子を持って来る。


「これを忘れてはいけない。ほら、ちゃんと胸ポケットに入れておくからね」


「いやいや! そんなことより助けてくれよッ! マジで吸い込まれちまうよッ!」


 慎一は必死の形相だったが、対照的に莉亜は堪らなく愉しそうにしている。


「そうだね。いつまでもこうしてはいられないしね。では、不肖ながら手伝って遣ろう」


 表情を一変、口惜しそうに呟いて、たおやかな右手を、そっと慎一の左手へ伸ばす。

そして、ロッカーの縁に引っ掛かった指先を、一つ一つ丁寧に外し始めた。


「えっ、ええっ……ちょ、ちょっと……何を――ッ」


 驚愕を滲ませる慎一の顔には目もくれず、莉亜がついに最後の一本に指を掛ける。


「ちょっと……ねぇ……冗談、でしょ……?」


 慎一が恐怖と絶望に蒼褪める。喉が急速に干上がり、声が力なく掠れ……。


「――それじゃあ、『健闘』を祈っているよ、風谷慎一君」


 最後、顔を上げて無邪気に微笑み、莉亜は溢れんばかりの慈愛を以って囁いた。

 その微笑みは、天使のようであり聖女のようであり、悪魔のようであり、紛うことなき魔王のようであった。そして、


「止め――」


 ついに、最後の希望が、しなやかな指先によって、そっと外され――、


「あっ――」


 瞬く間、慎一はロッカーの奥へと呑み込まれ、跡形もなく姿を消した。 


「ち、くしょぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――――――――――――――ッッッ!」


 ただ、虚しく響く叫びだけを残して――。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る