慶応3年11月15日 江戸 桶町千葉道場【KAC202210『真夜中』】

 慶長8年の幕府開府以来、日本橋は、あたりに大伝馬小伝馬に馬喰町と五大街道の起点として物流の起点であり、江戸を目指す旅人の到達点であった。


 物流の起点であれば、それは生活の起点に他ならない。


 様々なモノを扱う商人、目当ての商品を求めて集まる買い物客。それを目当ての食事処に娯楽。このあたりには、そんな町人たちの町が広がっている。

 また寛永6年に東北の外様大名によって建設された鍛冶橋御門はその名が示す通り門の外、堀にかかる橋を渡った先が鍛冶職人の集まる町であったことが由来でその名が付いたが、集まっているのは鍛冶屋だけではなく、他業種の職人もいて業種ごとに集まっては町の名前になっていた。


 そんな、江戸の町人町の真ん中。

 日本橋へ着いた旅人が、たとえばお堀端、鍛冶屋門へと向かうとしてその途中。京橋を経たあたり、近在に木桶を作る職人が集まっていることから「桶町」(おけちょう)と呼ばれる町があって、ここに神田お玉が池玄武館を「大千葉」と呼ぶのに対して「小千葉」と呼ばれるところの、北辰一刀流桶町千葉――千葉定吉門下の道場がある。


 ◇◆◇


 ――不思議と、11月にしては温かな夜だった。

 

 八百八町も寝静まる夜半になって「どんどんどん。どんどんどん。」と乱暴に道場の門をたたく音がした。

 いぶかしく思いながらも、彼女――千葉家息女、さなは身づくろいをすると表門へ近づいた。

 最近騒がしい世情であるから無論用心すべきと心得ている。

 しかし非常の時間のおとないならば非常の用件があるやもしれず、捨てておくわけにはいかなかったのだ。


 警戒の心持ちで木戸ごしに相手の気配を探りつつ

「こんな夜分に、どなたですか?」と、さなが問うと

「おう! あしです!」と安っぽい詐欺の口上のような応答があった――


「……――え!」


 さなが慌てて閂を外すと、木戸が開かれ、大柄な黒い人影が転がるように入ってきた。

「やーたまるか!たまるか! 急いだっちゅうに夜になってしもうたがです!」

 その声。その、姿。――旅立った時よりもずいぶん貫禄はあるように見えるのに、落ち着きがないのはそのままの――

「さ……」

 さながその長身を見上げて、言葉に詰まっていると、どたどたと押っ取り刀で駆けつけてきた兄・重太郎が、真夜中にもかかわらず大声で、叫んだ。


「おおおっ! 龍さん! こりゃあ夢か!」


 そこに国元へ帰って以来ろくに音沙汰なかった当道場の塾頭師範代、坂本龍馬が立っていたからである。


◇◆◇


 酒だ、肴だ、飯だなんだ、とやかましい重太郎を軽くいなして、さなは座敷を用意し、すでに就寝していた父、定吉を起こし身支度を手伝った。


 重太郎は龍馬を奥の自分の部屋につれて行きたがった。

 水戸藩と関係が深い千葉道場関係者の例にもれず重太郎も熱心な攘夷論者で、昔は開国論者として名を売っていた勝海舟を斬りに行こうとしていたくらいであったから、今の国勢、とりわけ上方や京の情勢を知りたかったのだ。


 それがわかっているからこそ、さなは先手を打った。

 父であり道場の主である定吉が起きてきて座に加われば、重太郎とて勝手はできない。しようことなしに同じ座敷に座ってにわかの膳を囲み、龍馬が道場主である定吉に帰着の挨拶をするところから(じりじりと落ち着かない様子で)聞くことになった。


 その隙を狙って、さなは、ぱたぱたと要領よく立ち回った。


 酒肴の準備をさっさと済ませて定吉を重太郎を席につかせ、風呂を沸かして面倒がる龍馬を風呂場へ押し込み、上がってくるのを待ち構えて用意の着物に着替えさせ、長旅を経てきたであろう龍馬のために離れに夜具をしつらえ――そんなこんなをやり終えて座敷に戻ってみると、龍馬の自慢話はいよいよ佳境にはいっていた。


「――そこで! あしはいうたがです! 

『薩摩がなんじゃ長州がなんじゃ、藩がそれほど大事か。まっこと大事なんはこの日本の未来じゃろう!』と!」


「おおっ」と身を乗り出す重太郎に、腕を組んで「うんうん」と頷く定吉。


 さなは定吉の盃に少し酒を注ぎ、重太郎の前には新しい銚子と「どん。」とおいてから、龍馬の隣に座って銚子をもった。

 龍馬は言葉をきって前の杯を掴んで飲み干した。

 さなは、待ち構えたように龍馬の杯に酒を満たした。

 それをまるで水でも飲むかのように、龍馬は一気に干す。


 ――あいかわらず、強い。


「これでよし! これでまとまった! これで幕府に勝てる!長州を生き延びさせることができた! ――と、交渉が終わった時、そうおもたがです」


 情熱はそのまま、だが、少し龍馬の口調が変わった。


「京で、故郷の土佐で。沢山の死を見てきました。ひとりとして――一つの命として、無用な命はない。あしが必死に周旋して、走り回って走り回って、やっと薩摩と長州を結びつけたのは、このままでは虐めつくされて長州が滅び、その怨念が恨みが千年万年残って日本の未来の足かせになると……ただ、それを避けるためでした」


「龍さん……」と重太郎が口を開きかけ、閉じた。


「あしが薩長同盟を結ぶために走り回ったのは、日本を二つに割った大戦を止めるためであって、幕府を滅ぼすためでも江戸を燃やすためでもないがです!」


「龍馬。」と今度は千葉定吉が言った。重太郎とは違い、確かに制止の意味を感じさせる口調で、呼びかけた。

 だが、龍馬は師匠の言葉にも、止まらなかった。


「なんとしてもとめんにゃあなりません! 万が一薩摩と長州が江戸や会津を攻撃するちゅうんなら、そりゃあ幕府の長州征伐となんにもかわりません! 日本を二つに割り、日本の半分を敵に回し、日本の半分を殺しつくす! 

 そんなバカげたこと、桂や西郷をぶん殴ってでもあしが止めます! あしは! 長州に復讐をさせるために薩長同盟を結ばせたんじゃないがです!」


「龍馬!」とはっきりと定吉が誰にもわかるように、叱った。


「それを口にしてはいかん。言えば、お前は斬られるぞ」


 重太郎も言葉をつづけた。


「龍さん……幕府も会津の新選組も、龍さんを狙ってる。それでも今まで無事だったのは薩摩や土佐が表向きはどうあれ龍さんを守ってきたからだ。でも、龍さんがそんなことを考えていると知ったら、薩摩や土佐は龍さんを守ってくれない。いや、助けられたはずの長州だって龍さんを邪魔に思うようになるぞ」


 さなはぞっとした。千葉家は水戸藩と関係が深く、さな自身も、開明的で世に賢君として名をしられる伊達宗城を藩主とする宇和島藩江戸屋敷において、剣術師範を勤める身。

 父や兄の言葉を聞くまでもなく、龍馬がどんな立場に置かれるかわかった。


 幕府も会津も新選組も、薩摩も土佐も長州も。今、動乱の渦中で力を振るう勢力の全てが坂本龍馬の敵にまわるのだ。


 それは、もはや日本の全部が龍馬の敵になるのと同義だった。


 震えが止まらない。


 気が付けば。

 さなは、すがる様に龍馬の片袖を握り締めていた。彼のために縫った羽二重だった。

 

 確信があった。

 このひとを、ここから何処かへ行かせてはいけない。

 この手を離したら、きっともう二度と会えない。

 そんな確信があった。

 爪が白くなるほどに必死に袖をにぎりしめる。

 そんな、さなの冷たい指先が大きな手に包まれた。

 龍馬の手だった。


「あしは、まだ死ぬるつもりはないがです」

 ほっと、息をはいて龍馬は緊張を解いた。

「仲間と語ろうて、世界を相手に貿易をしたいと考えております」


 ぽんぽんと、龍馬はさなの手を叩いた。


「そのためには、まずは世界が太平でなければなりません。そのためにこそ、もうひと頑張りしようとおもっちゅうがです」


「どのような戦であろうと、町を焼き人を焼き、子供を泣かすような大義名分などこの世にはありません。

 それしか方法がないというのであれば、頭をつかっちょらんのと一緒です。どうあっても分かり合えんなどというのは、話をしてないのと一緒です。

 不倶戴天。いかなる場合も敵同士にしかならないという間柄があるのだというなら、そもそも、仇敵同士の薩摩と長州が手を結ぶことこそ、ありえませんでした」


 ならば、と、龍馬は歯を食いしばる様に口を引き結んだ。


「もう一度、同じことを、薩長と幕府会津との間でやるまでのことです」


 ――できるのだろうか? そんなことが。


 さなは思わずにはいられない。この、千々に乱れ拗れてどうしようもなくなっている情勢で、そんなまさに夢物語のようなことが。


「誰もやらんからこそ、この坂本龍馬がやります。誰も彼もあきらめたとしても、絶対あきらめません」


 だが、もしもそんなことが可能だったとして。そんな神がかりを何の代償もなしに、生贄もなしに出来るとは思えない。

 身に過ぎた願いをいだけば、かならず、運命は何かを欲する。


 運命の神が奇跡の代償として要求するものがあるとすれば。それはきっと――


◇◆◇


「……」


 気が付くと、さなは座敷に一人座っていた。膝の上にはほどいた着物の片袖がある。

 いつの間にか強く握りしめていたようでしわになっていた。


「……」


 膝の上で、片袖を広げて丹念にしわを伸ばす。

 それは、さなが今はここにいない男のために縫った着物の片袖である。

 

 ――不思議と、11月にしては温かな夜だった。


 こんな夜ならよいのだけれど――と、さなは思った。

 冬の京は底冷えで寒いと聞いている。南国育ちのあの人はきっと寒がって……

 再び、さなは、膝の上の片袖を握り締めた。


 そうして、ふと気づいた。何の根拠もなくわかった。

 さなは「ああ、もう……」と、嘆息した。


「なんて、せっかちな人だろう」


 おぼえず、口をついてそんな言葉が漏れてでて。

 さなは、ようやく自分の頬を涙が伝っていることに気づいた。


◇◆◇


 慶応3年11月15日。京 河原町通蛸薬師下ル、近江屋。

 この夜の襲撃事件の顛末が江戸に伝わるのはずっと後の事であり、その真犯人および事件の真相や背後関係については、現在も謎のままである。



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