作者、逃亡中につき【KAC20216『私と読者と仲間たち』】

一.


その日、彼女の下に『神』は降りてこなかった。


「……か、書けない」


 彼女は少し前に世紀の大傑作をものにして、一躍、有名作家の仲間入りを果たしたばかりだった。

 彼女を取り巻く世界はずっと彼女の小説の話題で持ちきりだった。

「フェアか?」「アンフェアか?」と論争はあっちこっちに飛び火してさながら燎原の火のごとく。

 まあ、彼女としては。

 読んだ事のない人がうっかり小説の結末を人伝に聞いてしまいやしないかと、むしろそのことの方が心配だった。

 彼女の書いているのは「ミステリ」。それもアッと驚くどんでん返しが魅力の物語だ。最初にページをめくった人が夢中になって物語の中に入り込み、時を場所を忘れて没入し、彼女が引いた道しるべを辿って結末にたどり着き、驚いて息をのみ、満足のため息とともに本を閉じる。

 その事こそが、望むところ。読んだ後ならともかく、読んでない人がいるところで論争をされて「うっかり」というのは、不本意この上ない。


 ――とはいえ。今日に限って、いつもなら茶飲み友達の様に決まった時間にドアベルを鳴らすはずの『神』がいつまでたっても降りてこない。


 当然、次作へのプレッシャーはある。

 これほどな大騒ぎになって、出版社からも次作をせっつかれている。

「よい話を、少しでも早く、すばらしく仕上げる」ことを望まれている。

 そんな歓迎と期待の一方で、逆に意地悪な目もある。

 掟破りの自覚はあった。だが彼女がやってのけたのは衝動的な犯行でもその場しのぎの隠蔽でもない。彼女はきわめて計画的な確信犯だった。

 だから同業者や目の肥えたファンが、虎視眈々と揚げ足をとってやろうと身構えているのもわかっている。

 逆の立場なら、彼女こそが嬉々として揚げ足取りの油を塗りたくってやるところだ。いまさらそんなものを恐れはしない。

 そもそも斯界を唖然とさせたあの一冊であろうとも、自信作ではあったにせよ、構想中の幾多の作品の中の一冊である。

 続く、二作目三作目も用意してあったし、こちらも相応に期待に応え、あるいは裏切る自信がある。

 プロットはメモの形で書き溜めてある。

 後は椅子に座って、頭の中にすでにある物語を書くだけ。

 

 ――そのはず、だった、のに。


「――うう~ん。……書けない」

 まずい。本気で不味い。

 ほんとに書けないどうしても書けない全く書けない。 

 タイプライターに乗せた指がぴくりとも動かない。紙が白い。さっきからずっと白いままだ。当たり前だ。一字だって打ってないのだから。

 ええい! 神のヤツ、どこでさぼっている! 

 こんちくしょーっ!


二.


 彼女はにわかに荷造りを始めた。最低限の着替えに帽子に化粧道具。財布とペンとノート。

 荷物はこっそり窓の外に出し、小さな外出用のバッグを手にする。

 部屋を出たところで秘書に声をかけた。

「ちょっと出てくるわ」と一言だけ。

 タイプライターはおいていく。昔はペンで書いていたのだから、今書けないってことはないだろう。「エンジンがかかるまで」に、多少時間はかかるかもしれないが。


 とまれ彼女はドライブとしゃれこんだ。

 そのへんぐるぐる回ったら、案外なんかの切っ掛けとかあるかもしれない。

 気分転換は大事だ。決して逃げているわけではなく。

 お風呂に入っている時にふと完全犯罪の手法なんかが思い浮かんだりするのはよくあること。

 すぐメモできないのが、こまったことではあるのだが。

 ……そうだ。ちょっと遠いけど前から行きたかった湯治場に行ってみようか?

 こうなれば一日二日泊まって、お尻を据えて取り組んだ方がいいかもしれない。

 そういったら秘書の彼女は止めるだろうか? 止めるわね。きっと。

 でも今の自分に必要なのは環境の変化。

 ずっと白いままの便せんを挟んだままの、憎らしい文明の利器を机の上に置き去りにしてやろう。

 そして重苦しい家の息苦しい部屋から、白くて清潔で趣味の良い家具をしつらえた小さな部屋に籠るのだ。

 掃除も食事も家事の一切合切を人任せに出来て、出版社も名前も知らない親戚も訪ねてこない場所で、構想を練り直すのだ。

 きっとそうすることが、今の自分には必要なのだ。

 そうに決まっている。そう決めた。

 子供のことは秘書の彼女がいるから大丈夫。今は一日も早く、とにもかくにもこのスランプのような状態を抜け出さないとどうにもしょうがない。

 とにかく。自動車で行ける場所まで行って、そこからは出たとこ勝負。

 

 ……あ。旦那、どうしよう? あの人帰ってくる気かしら? ――ま、いっか。


三.


 そんな十二月の土曜日。とっぷり日も暮れた午後七時。

 やってきましたハローゲイト。この古式ゆかしいスパタウン(高級温泉保養地)にはパシフィックホテルというとても良いホテルがある。

 暗闇の街路から明かりを頼りにたどり着く。回転ドアを回して時間を巻き戻せば、そこはにはまだ黄昏の光が残っていた。

 宿泊料は一週間5ギニー。これが妥当か否かは食事次第だろう。

 カウンターに歩み寄ると、宿帳を差し出される。ちょっと悩んで

「テレサ・ニール」

と名前を書いた。

 ともかく心をほどいてゆっくりしよう。

 がんばるのは、一休みした後だ。


 ……


 あれ? 書けないよ? むうう。ペンがダメなのか。衝動的にタイプライターを買いに行きたくなる。

 いや、買いに行っても持って帰ってこれないけれど。まずったな。途中で車をおいてくるんではなかった。

 ……まてまて私。そういう問題じゃないだろう。

 いや、でも。旅行の手段が悪かったのか? たとえば自動車じゃなくて列車で旅をすれば何かいいお話を想いつけたような気がする。……ん。そんな気がしてきた。

 旅のプランというものは思い通りに行っても行かなくても、何かの価値があり何かの後悔がある。すばらしい旅とはそこでいかに過ごしたかだ。収支が合えばそれはきっと素晴らしい旅だろう。

 時間通りの旅が心地よければ、雪で立ち往生したって何かのアイディアにつながるかもしれない。

 ――いや、私はホテルにいるのだから列車を思い浮かべるのはいささ不義理というもの。


 そんなこんなで部屋とロビーを行ったり来たりしていると。

 手持無沙汰の客と見えたのだろうか? カウンターのよろず相談係(コンスィエージュ)が小説を薦めてくれた。

 中々気が利いているが、一人旅の女性客に毒殺ものの推理小説を薦めるとかどんな神経をしているのか。どうもありがとうございました。

 聞けばホテルの従業員の間で大変流行っている小説で、フロントにおいて湯治客に勧めたらたいそう喜ばれたとか。

 まあ、お風呂からお風呂の間で暇を持て余すのが湯治というもの。ミステリ小説との相性はよいはず。

 しかし、なんだこれ。

「誰か殺してきたのか」と怪しまれているか? それとも「さっさと殺してしまえ」と唆されているのか?

 もしや、この私が生涯で161人くらい殺す殺人鬼にみえているのだろうか? それも半分くらい毒殺で。


四.


 書けない。全く書けない。一行だってかけてない。

 二、三日で帰るつもりだったのに、ずるずる引っ張ってもう一週間。

 うう。小説ってどうやって書くものだったっけ?


 断片的なメモばかりを広げたテーブルに突っ伏して嘆いていると、ドアの向こうからロビーに私宛の客が待っていると知らせてきた。

 そして、客の名前も。

 彼女は意を決し、身なりを整えてロビーへ降りた。


 人の気配に、窓の外を見ていた男が振り返る。

 5フィート4インチ少しの背丈、緑の眼に卵型の頭。黒髪で、ぴんとはね上がった大きな口髭をたくわえている――ベルギー人の小男。その如何にも凡庸な丸い顔の中で、二つの瞳だけが深い知性を湛えてキラキラと輝いている。

「ごきげんいかがですかな。マダーム」

 だが、その一言一句立ち居振る舞いの何もかもが気に障る。何よりこの、耳障りなフランス訛りの英語。

「よい休暇をお過ごしのようだ」

「あなたが来るまではね――ムッシュ」

 彼女は言い捨てた。彼女はこの男が大っ嫌いだった。うんざりだった。仕事上の必要から仕方なくつきあったのだ。それも思いがけなく長い時間。

 なるほど。彼女は得心した。

 姿をくらませた自分を見つけ出すとしたら、それはきっとこの男だろう。

 そんな風に階段の途中から男をにらみつけていると

「あなた、彼女に嫌われているわよ」

 窓際の席から柔らかく枯れた声がした。男は抗弁する。

「ノン。彼女ほどに私を知る人間はいませんよ。ミス」

「あら? 理解することと好意をもたないということは別に矛盾しませんよ?」

 彼女は私を知っているらしいが、私は彼女とは初対面だ。……そのはず。でもどこかで? ずっと前に亡くなった祖母の様にもあるいは――つい最近彼女の下を去った愛する母のようでもあって。

 そんな彼女の言葉に、男はため息をついて首を振った。

「……みとめましょう。マダムはつねに企みを巡らし『読者』を謀る。そして私はそれをいかなる時も許さず、打ち砕く――所詮は相いれない敵同士です……悲しい事ですが」

「ねえ」と我慢できなくなって彼女はいった。

「二人は私を連れ戻しに来たのではないの?」

 二人は顔を見合わせ意外そうに笑った。

「なぜそんなことを?」「ただのご機嫌伺ですよ」

「へ? どうして? だって?」

「逃げてもいいのよ? どうせ人生からは逃げられないのだから?」

「マダムがお望みとあれば、さらなる逃亡のお手伝いも致しますが」

 ――あれ?

「お忘れかもしれませんが。マダム」

 自慢のひげをちょいと捻って、小男がいった。

「我々は厳密には敵同士ではなく、共犯関係にあります。貴方の逃亡を手助けするのは当然でしょう」


 ――そうか。そうだったのか。


 彼女は豁然として大悟した。


 敵しかいないこの世界にあって、彼らだけが、私の『共犯者(みかた)』

「まあ、私は早くあなたに会いたいから、もうちょっとだけ頑張ってくれたら、うれしいわ」

 窓際で老嬢が柔らかく笑う気配がして――ふと、彼女が顔を上げると。


 黄昏の午後。ロビーには誰もいなかった。

 彼女は目を閉じて、ひとつため息をつき。


 休暇の終わりを、覚った。


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