摩利支天の陽炎【KAC20221『二刀流』】



「ほう。摩利支天さまの御像ではないか」


 突然の雨に逃げ込んだ煮物屋に、振り込められて半刻(はんとき)。

 空になった銚子(ちょうし)を往生際わるく振っていた小次郎に、声をかけたものがいる。


「陰形にして日月に先駆し、念ずれば、他人はその人を見ず、知らず、害することなく、欺くことなく、縛することなく、罰することがない、か?」


 みれば、ごつごつと岩山のような体躯をした大男が立っていて、小次郎の卓の上のちいさな黒い塊を覗き込んでいる。

 それは親指ほどのちいさな仏らしかった。よほどいじくりまわされたと見えて、黒く黒くサビに覆われ、それでいてつやがある程に滑らかな念持仏である。


「銅かな、錫か、たまさか銀か……」


 ぬう、と無遠慮に伸ばされた手に先んじて「ばん」と小次郎の手が机の上に張り落される。


「さわるな」


 酔眼をすがめて、小次郎は男を見上げた。まだ若い、白皙の頬が青白くひきつり、それでいて目元ばかりが、赤黒く腫れている。

 この店の前にもだいぶ飲んだものとおもわれた。

 あるいは、前の店は追い出されたのかもしれない。


 男は眉を下げて、ため息をついた。そしてわずかに体を折ると小次郎だけに聞こえるひそやかな声で、こういった。


「其許。何をしでかしたかは知らぬが用心することだ。狙われておるぞ」


 じっとりと水気を含んだてぬぐいを一振りするような、声音でそういったのだ。


◇◆◇


 小やみになった雨を縫って、小次郎は宿場町をでた。

 道を辿って次の宿場に行くかと思えばそうではなく、しばらく行って脇道を山へとそれた。

 そもそも、麻の一重に破れ袴という見すぼらしい格好の上、すりへった草鞋に汚れた足袋などとおおよそ旅に必要な荷物など何一つ持っていない。武士の魂たる刀すら、脇差をひとつ差したきりだ。


 路銀がないのか、それとも相応の訳があっての事か。

 どうやら、彼のねぐらは宿場の外にあるらしい。薄闇の中雨の音に紛れる様に歩くことしばらく、木立に紛れる様に立つ、廃堂が現れた。


 小次郎は今にも落ち砕けそうな軒下へと駆け込み、身をかがめた。縁板の一つがわずかに浮いている。

 そのままではびくともしないが、さらに強く推すと「てこ」の要領で板がせり上がり、ぽっかりと空洞が現れた。

 みれば宿場へ降りる前に隠しておいた旅荷物とわらを束ねてしばったる三尺ほどの長物が、変わらずそこにある。

 そんな場合ではないと重々承知しながら、小次郎は「ほっ」と一つ安堵のため息を漏らした。


「――なるほど、そんなところに隠していたのか」


 雨の音のように低く、だがはっきりと声がした。

 小次郎ははじける様に体を起こして振り返り、脇差に手をやって声の主をねめつけた。

 さきほど声をかけてきた、岩山のような巨躯の男が立っていた。


「……」


 小次郎は返事もせずに、刀を抜いた。


「おいおい。よいのか? まるで追われるについて、身に覚えがあるようだぞ?」


 ひょうげた風だが一面識もない赤の他人が雨の中を追跡してきたのだ。事情も何も承知の上に決まっている。

 それが証拠に、小次郎の得物が脇差と知って上でなお、遠目に間合いをとっている。

 むしろ、大小揃えている自分自身にとって有利な遠間に立って、こちらを伺っていると見えた。


「……」


 小次郎は半身になって小太刀の型に構えた。

 男もまた大刀を抜き放ち、大刀をもつ左手の袖うちより金属の棒を取り出し右手に構える。

 否。それは単なる金属の棒ではない。

 刀で言えば鍔元に「鉤」がついたそれは「十手」と呼ばれる捕具である。

 

 男は半身の小次郎に対し、両手に武器を携えて正対したのだ。


「いちおう、生きて連れて帰れといわれておるでな」


 大刀の峰を肩に担ぎ、男は「ただし」と言い継いだ。


「生きておりさえすればよい、とも言われておる。どうあっても、息の根は自分で止めたいらしい」


 男は大きくため息をついてさらに問う。


「なぜ、兄弟子を斬った?」


「あれは稽古の上の事故だ!」


 小次郎は間髪入れずに叫んだ。

 問いかけて答えさせて捕り手と捕縛対象との間に仮初の人間関係を構築し、対象の戦闘意欲を削ぎ、あるいは平静を失わせしめるのは、実は捕縛術の要諦であった。

 だが、若い小次郎にそんなことがわかろうはずもない。


「俺の仕太刀を兄弟子が受けそこなったんだ!」


「真剣同士の立ち合いを稽古と言い張るか? まあ、小太刀の中条流を習う弟弟子に大刀を持たせ、自らは得意の小太刀を用いたあたり、其許の兄弟子の底意も大体察せられるが……」


 男はそこで小次郎の眉間を、ぐいと十手で指し示した。


「其許も『斬ってもかまわぬ』などと思ったのだろう? いつからだ。兄弟子の妻女と通じていたのは?」


「あっちが先に誘ったのだ!」


「そうか……悪い女に、ひっかかったな」


 すべて計算づくで行った問答ではあったが、小次郎の若い激昂に男の顔にわずかながら憐憫の影が浮かんだかに見えた。


 だが影は影。瞳の奥で男は小次郎の動揺をはかって――大きく踏み込む。

 小次郎は瞬時に反応した。小太刀を振り上げ、大きく振り下ろす。


 男は踏みとどまって小太刀を避けたが、小次郎は止まらない。自ら相手の大刀の刃圏に飛び込み、振り下ろした小太刀の切っ先を振り下ろしに勝る速度で跳ね上げる。


 男が踏み込んでいれば逆袈裟に、十手を持つ右手を残して入ればその手首をとらえたかもしれないが、その二撃目は虚しく空を切った。


「中条流の『虎切』――よく練れておる。つくづく惜しい」

「やかましい!」


 ふたたび小次郎が打ちかかった。だが、その視界に男の大刀が目に入る。つんのめる様に小太刀を引けば、次の瞬間十手を握った丸太のような腕が、うなりを伴って小次郎のびんのあたりを通り過ぎる。


 地面に身を投げて転がって逃れて、考えてもわからない。

 自分がいつあれほどに容易く間合いを詰められたのか、が。

 小太刀を使う小次郎だ。接近戦には相応の自身があった。だが相手は捕縛術に長けた十手使い。

 修行途中で出奔せざるを得なかった小次郎とは実戦経験がちがう。


 また更に言うなら。


 小次郎の流儀は、中条流の小太刀である。

 中条流は、後世の自衛の小太刀ではなく戦国時代の剣術であるから、その技術は大刀や槍と、小太刀をもって如何に戦うかという点に力点が置かれている。


(ゆえに兄弟子との稽古で小次郎は大刀を使ったのであり、それを受けそこなった兄弟子が未熟であるという見方も妥当である。だが、妥当だからといって親類縁者がなっとくするかどうかは別問題だ)


 だが、それゆえに二刀使い相手の定石や技は中条流にはない。あるいはあったかもしれないが、年若い小次郎が教わった中には十手や捕縛術への対応などはなかった。


 大刀を注目すれば十手を見逃し、十手に気を配れば突然大刀が降ってくる。

 男の剣技は、めまいを覚えるほどに変幻自在であった。


「気配あるところに実体なし。実体あるところに気配なし――奥義『陽炎』 冥途の土産に一手講じて遣わす」


◇◆◇


 大刀の斬撃を辛くもかわし、攻めに転じようとすれば鋼鉄の十手に行く手をふさがれる。

 小次郎は罠にはまった猪の様に転がりながら、もがき続ける。

 ただただ、痛みと恐怖から逃れようとする獣の挙動に見えた。それでも男の大刀が小次郎をとらえきれなかったのはさすがの天稟というほかなかった。


 だがそれも、やがて終わる。

「――!」

 すきを見たとおもった小次郎が、男の振り下ろしの大刀にのしかかる様に切りかかった刹那、なぜかそこに男の十手があって、がきりと小太刀の刃を咥え取られた。

 そして其の次の瞬間。

 小次郎の小太刀は高い音を立てて、へし折れていた。

 さらにみぞおちに蹴りを入れられた体はもはや無抵抗に、廃堂の階下へ叩きつけられた。


 ――手ごたえ、あった。最早立てまい。


 歩み寄ろうとして、立ち止まる。


 小次郎は杖を頼りに立ち上がろうとしていた。

 否。それは杖ではない。


 小次郎が出奔時に持ち逃げした伝家の太刀。己を嬲ろうとした兄弟子を真っ向両断した備前長船長光作の、三尺余りに達する豪刀である。


「……見苦しいなどとはいわぬ」

 だが、振れるのか。あの大刀を。

「……」


 小次郎は黙って、大刀の鞘を払い、遠くに投げ捨てた。まるで二度とサヤには戻すまいといわんばかりに。

 男はそこに一刀にかけるもののふの覚悟を見た。


 小次郎の構えは引き手の深い八相。なぎなたのような構えで、切っ先までがすっぽり小次郎の陰に隠れていて、間合いが測りがたい。


「ただ、逃げていたわけではないと、そういうことか」


 もはや、小次郎を――少年と、未熟者と侮り、言葉で揺さぶろうとする気持ちは失せていた。

 あらためて名乗りを上げる。


「作州浪人 新免無二斎 いざ」

「岸柳――佐々木小次郎」


 この名乗りとともに、豪刀備前長船の切っ先が振り下ろされる。

 男はそれを避けるべきであった。だが、矜持がそれをゆるさず十手をかざした――が。

 小次郎の豪撃は、その手首もろともにへし折る。

「ぎっつ!」

 叫びをあげる暇もあらばこそ。

 振り下ろされた切っ先は、小太刀のそれをも上回る威力と速度をもって天空めがけて駆け上がる。

 迎撃をはかった男の大刀であったが、小次郎の二撃目はその手首を切り飛ばす。


 男の五体はその衝撃によって弾き飛ばされた。


◇◆◇


「なんという、技だ」


 しゃがみこみ荒い息をはく小次郎の耳に、場違いなほど静かな声が聞こえた。

 技に名前などなかった。

 しゃにむに振った苦し紛れに名などつけようがない。


「秘剣――燕返し」


 無理やり絞り出したのを見通しているかのような幽かな笑い声がした。


「二刀の技の、天敵のごとき技よな」


 だが、と男の言葉が続く。


「いづれ、誰かが、お前の技を……」


 小次郎はその先を待ったが男の声はとこで途絶えた。


「わかって、いる」


 小次郎は聞くもののない闇の中で膝を抱えながら、刀を抱きしめていた。


「そんなことは、わかっているとも」


 ただ、叫びのようなつぶやきがこぬか雨に流れて、とけた。



 完

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