「死ね」恐怖症

津島 結武

「死ね」恐怖症

 僕は学校の友人らから「死ね」と言われていた。

 これは何も修飾したことではない。

 ただ「死ね」と言われていたのだ。


 何か失敗をすれば「死ね」と言われ、何か提案をすれば「死ね」と言われ、何か話をしようとすれば「死ね」、廊下で出会えば「死ね」、一人で読書していれば「死ね」、息をすれば「死ね」、――「死ね」、死ね。


 僕はどうしてそう言われるようになったのかわからなかった。

 言ってくる者たちがその理由を知っているのかどうかさえ怪しい。

 「死ね」とはどういう意図で言ってくるのだろうか。

 もはやその本質的な意味さえもわからなくなっていた。

 とにかく、何らかの間違いがあってこのような流れができてしまったのだ。


 しかし、それは単なる悪ふざけの一環に過ぎないことだけはわかっていた。

 僕はいわゆる「いじられ役」だということだ。

 そして彼らは僕に向かって「死ね」と言うのを楽しむ。

 単純に説明すればそういうことだ。


 そのため僕は彼らの期待に応えることにした。

 「死ね」に対して「ありがとう」と返すことにしたのだ。


 「ありがとう」は「死ね」というゲスなことばの対極に位置するロゴスだ。

 つまり、あえて感謝のことばを扱うことによって卑しく下劣な彼らと両極の関係であろうとしたのである。


 すると、事は奇妙にも僕の期待通りになった。

 彼らは僕が「ありがとう」と応えたことに対して大いに面白がったのだ。

 歪んだ顔を酔っ払いのように赤くさせ、キジのように高い声で笑う。

 その様相は控えめにいっても醜悪そのものだった。


 だからこそ僕は安心した。

 こんなふうに相手の機嫌を上手くとりさえすれば、人間関係を変に複雑化させることはない。

 それに、彼らの人間性に希望を抱いて悶々と悩み続けるよりもはるかにマシだった。


 しかし、心の平和は長く続かなかった。



 ある初夏の授業中のこと。

 その時間は自習で、教師は不在だった。

 左手の上空には清々しい青色が寝そべり、かすかに開いた窓からは心地よい空気が緩やかに流れてくる。

 雑に消された黒板が目の前にそびえ立ち、生徒間で交わされる賑やかなささやき声やシャープペンシルの芯を出す音が小さく耳に入ってくる。


 僕は政治・経済の勉強をしていた。

 自然権、生存権、国民主義、基本的人権、平和主義といった様々な単語についてノートにまとめている。


〈すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する〉


 そう帳面にペンを走らせると、右後ろから淡白で情のない声が聞こえてきた。

 合言葉だ。

「死ね」


 振り返ると、いつも暴言を扱う者たちがクラスターになっていた。

 彼らは眉を大きく上げ、僕に鋭い視線を送る。

 なんて野卑な面々めんめんなんだ。


 あきれた。

 どうしてこんなつまらないことでいつまでも笑っていられるのか理解に苦しむ。

 生産性のないことばを発するのにどんな面白さがあるのだろうか。


 いいや、そんなことは気にしなくてもいい。

 僕は彼らに単純な貢献をするだけでいいのだ。

 彼らを最も簡単な方法で愉快にさえすれば十分なのだ。


 だから今まで通りにこやかに笑って「ありがとう」と返そうとした。

 ――しかし、返せなかった。


 声が出なかった。


 「ありがとう」と口に出そうとしても、出るのはカスカスな息だけで、振動による声音は一切発せられないのだ。


 どうしてだ?

 無理に捻り出そうとしたって叶わない。

 むしろ、代わりに別のことばが小さくつぶやかれた。

 僕自身が想定していない一言が――。


「そんなこと言わなくてもいいじゃないか」


 ゾッとした。

 なんてことを口走ったんだ!

 こんなことを言ったって何も良いことなんてない。

 むしろ最悪な出来事を容易に予測できる冗語だ。

 どうして僕はこんな無駄口をきいてしまったのだ!


 しかし、これは細々とした空気の出るような声だったため、誰かの耳に入ることはなかった。


 気づけば、「死ね」と言った者たちの注意も別方向に逸れている様子だった。

 姿勢の悪い状態で机に向かい、面倒くさそうにノートや教科書にじっと視線を注いでいる。


 なんだこいつら。期待する反応が得られなければすぐに興味をなくすのか。

 だが、そのおかげで僕は動揺しつつもわずかな平静を取り戻すことができた。

 それにこの状況は好都合だ。

 彼らの支配さえ逃れられれば、無理に波長を合わせる必要がないし、勉強にも集中できる。

 僕は再びおぼつかない手でペンを持ち、ノートに文字を記そうとした。


 ――けれども、書くことができなかった。

 指が震え、まともに硬筆と紙を交わせられなくなっていたのだ。


 なんでだ? さっきから何が起こっているんだ!


 かろうじて記せても、現れるのは毛糸をぐちゃぐちゃに丸めたようなゴミクズだけ。

 具体的には、ミミズの這ったようだったり、幼児がスコップで地面を掘ったようだったり。

 とてもじゃないが文字と呼べる代物では決してなかった。


 なぜ当たり前のことができなくなったのだ?

 じっと席に着いたままでいるも、眼球に血が走り、胸の鐘が不吉に鳴り響く。


 僕のせいか? 僕が悪いのか?

 今すぐにここから立ち去りたい。立ち去らなければ。

 ふとそのような願望と指命が脳内に現れた。


 次第に震えは肩へ、脚へ、最終的に体全体にまで伝染する。

 落ち着くんだ。早く震えを抑えないと――!

 僕は肩を丸めて自制しようとするも、今度は胸が圧迫されて息が苦しくなる。


 こんなところで醜態をさらしてはいけない。

 さらせばもう対処できなくなる。

 それ以降僕は狂人として笑われ、恐れられる存在になるほかなくなってしまう。


 だから過呼吸だけは避ける!

 しかし、だんだんと肺へ送り込まれる酸素が減少し、視界が薄暗くなっていく。

 まるで船に乗っているかのようにぐらぐらするし、小さな悪魔に槍で刺されたかのように頭も痛い。


 最後におぼろげながら覚えているのは、奇妙なほどに真っ青な空、そこに浮かぶいびつな雲、不愉快なほどに生暖かい教室の空気、そして背後から聞こえてくる耳障りな人間のわめき声だった。

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「死ね」恐怖症 津島 結武 @doutoku0428

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