糸車が廻る

 先生には、或る場末のバーで一度ご馳走して頂いたことがある。僕は例によってノンアルコールのカクテルだったが、先生はウィスキーのオン・ザ・ロックを頼まれていた。

「先生は明るい作品はお書きにならないんですか?」

 どう言う話の流れか、僕はふと気になってこんな事を訊いた。先生は下を向いて少しの間沈黙して、それからゆっくりと口を開かれる。

「この間、マリちゃんにも訊かれたわ。『おじちゃんは、何で悲しいお話を書くの?』って」

 マリちゃんのような純真な五歳の少女には、先生の描かれるどこか仄暗く厭世的な世界観とご自身の柔和な人柄の差が不思議に思えたのだろう。

「お母さんに俺の事訊いたらしいねん。ほんなら『哀しい話ばかり書く人よ』って言いはったんやって」

 今度は上の方を見上げて、こう語り出した。

「何でか言うたら多分、俺がやっと、向き合えるようなったからやな」

 そう言ってウィスキーを一口召されると、グラスの中の丸い氷が澄んだ音を響かせる。

「若い頃、社会を満たしていた空虚な不条理に危うく殺されかけた。閉塞感に押し潰されて窒息する所やったんや。空回って、こんがらがって、自分の中で何か大切な物がプツンと切れてまうんやないかって。それで結局、この町に逃避した。せやけどずっと、悔いがもやみたいに心の中にあったんや」

 先生はゆっくりとお考えになりながら、ポツポツと言葉を繋いだ。

「それを晴らすために俺は考えて、話を書く。この頃になってやっと、少しずつ向き合える覚悟がついたんや。でも結局、いくら考えても、人は皆腹の奥底に哀しみを孕んでいるんやな。息苦しい位の漠然とした不安と、何処までも虚しい哀しみを。それが生きることで、それが無常やと漸くわかった」

 先生の口から緩やかに紡ぎ出される、細い細い一本の糸のようなその話に、僕はただ深く聴き入った。あの美しい物語もこうやって、ペン先を伝ってわれて出来上がるのかとふと想像した。

「まあマリちゃんには、そないに難しい事言わへんかったけど」

 そう仰って飲みかけのグラスを片手に、ぼんやりと遠くを見つめていらした。その横顔がなんとなく、何か大きな存在に対する寞々とした侘しさを湛えているように思えて、無礼至極と知りながらもこんなことを質問してしまった。

「あの、先生は、小説家でいて、お幸せなんでしょうか」

 先生はウィスキーグラスを置いて、ゆっくりとこちらに振り向かれた。お酒には強い方だが、今夜は少し酔っておられるようだ。哀しそう顔をなさったから、僕はハッとして、慌てて頭を下げた。

「申し訳ありません。今のは失言でした」

「いや、ええよ」

 先生は謝る僕を手で制して、暫く沈黙して何やら思案された後、また少しずつ、一本の糸を紡ぐようにお話しになる。

「わからへんな。わからへんけど、何にせよ、もう辞められへんと思うわ。無常を受け入れるのは苦しいよ。そんなん言うたら何もわからへんようなるさかい、今まで積み上げてきたものが全部壊されたような感じになるさかいな。やけどな、苦しくても、俺は苦しいまま一生、死ぬまでいるんやと思う」

 僕は何も言えなかった。ただ先生が紡がれた膨大な糸が、ご自身の手足に枷のように絡んでいるように見えた。それでも先生は、機関のように延々とそれを続けられる。意志と葛藤を原動力にして。

「自分から苦しみに向き合ってそれを書くなんて、俺も相当な被虐趣味マゾヒストなんやな」

 先生はそう仰って、丸い氷の入ったグラスをカラカラと揺すりながら、一人で静かに笑っていた。

 マゾヒストという言葉がいやに耳に残った。どうして己に対して、そうやって低俗な言葉を使うのだろう。尊敬する人に、自分をそんな風に仰って欲しくなかった。この世の無常に縛られながらも、真摯に相対し続ける先生の姿勢は、そういう本能的欲望を超越した、もっと気高いものなのに。

「何故、そんなに卑下なさるんですか」

 暫時の静寂が流れる。

「それもわからへんな」

 先生は天井を仰いで、また笑われた。


 カラ、カラ、と糸車が廻る。

 細く、細く、命を繋いでいる。

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暮の蜻蛉 敦煌 @tonkoooooou

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