空蝉のイデア
先生は、マリちゃんと言う五歳の女の子がお好きだった。その小さなお友達とどこかに出かけたり、一緒に遊んだりする事が、独り身の先生にとっては無常の楽しみのようであった。
先生はいつも、可能な限りマリちゃんに尽くされた。玩具を買い与えたり、話し相手になってあげたり、せがまれればあの優しげな声で童謡もお謳いになる。またある時は、彼女のための物語をも描かれた。その献身さはさながら、いつかの聖画で見た、幼い救い主を囲んで黄金、乳香、没薬の贈り物を献げる、東方の三賢者らの一であった。
今思えば先生のお気持ちは、友愛とか、好意と言うよりもむしろ、そういう
いずれにせよ、二人の間にはそういう深い親愛があったのだった。
先生はよく、そのマリちゃんの話を僕にして下さる。今日は何を話しただの一緒に何をしただの、そういう取り留めもない日常を語られるときの、眼に宿る優しい光を他の話題で見た事がない。ましてやあの、黄昏を活字に写しとったような作風である。だから、初めて彼女の存在を知った時は僕も心底驚いたものだ。
あの日、晩夏だった。先生は文庫本の打ち合わせのために、お暑い中わざわざ黎明出版までいらっしゃった。夕方になってそれもようやく終わり、ついでにどこかで晩飯を食べて帰ろうという事になった。外は早くも秋を感じさせる、涼しい風が吹いていた。それで出版社を出て商店街のあたりをぶらぶら歩いていると、ふいに後ろから鈴のような女の子の声がする。先生は数時間にも及ぶ打ち合わせのために疲れを滲ませていたが、その声を聞くとはたと振り向き、途端に春が訪れたような優しい笑顔をあふれんばかりに湛えられた。パタパタと軽やかな足音が近づいてくる。跪いて両手を広げられると、四、五歳くらいのおかっぱの女の子が、先生の胸元に勢いよく飛び込んだのだ。
「おじちゃんおじちゃん、マリと遊びましょ」
先生はその小さな体を優しく抱きとめられた。何か繊細な硝子でも扱うかのような丁重さだった。先生は、あの瞬間は僕の存在を完全に忘却なさっていたのだと思う。目の前に美しい二人の世界が見えた。
「ごめんな、マリちゃん。今日はもう遅いさかいに、明日ならおじちゃんも遊べるで」
先生の声色は、聞いたことのないほど優しかった。
「うん、じゃあ明日の朝お電話する」
その時、少女の母親と思しき若い女性が、申し訳なさそうにこちらに走ってきた。そうして先生に、うちの子がすみません、いつもご迷惑おかけしますと何度も頭を下げる。先生はいいえと首を振られて、こちらこそ有難うございますなどと仰る。そうして、マリちゃんが母親に連れられて帰るのを、にこやかに手を振って見送られたのであった。
友達やねん。と、先生は仰った。それから僕も色々教えて頂いた。控えめな先生が、あんなに生き生きとして物を語るのが新鮮だった。
その話をする時、先生はいつも不思議な表情をなさる。それが普段の数倍も柔和である事には変わりないが、本人と接する時とはまた違う。低く小さな声で、ゆっくりと仰った。
「マリちゃんはな、まだ小さいさかい、何も知らへんねん。やから愛おしい。可笑しい話やけど、俺みたいな色々を知る人間が、知らない子供に救われるんや」
その神秘を目にした知者の如き口調に、ちょうど終わりゆくこの季節の色が重なって、夜明けの夢を見るような眼をなさっていた。
宵の外でひぐらしが高く鳴いた。
先生はそれで何かを思い出したようにペンケースを取り出すと、蓋を開けて中から小さな
「この間な、マリちゃん、蝉の抜け殻拾っとってん。ほなら一個くれたんや。これが
そう仰る先生の指先をまじまじと見つめた。蝉の抜け殻なんて久しく見てこなかったが、なんと精巧に造られているのだろう。先生がそのささやかな贈り物を良く保管なさっていたので、脚の一本もかけていなかった。透き通るような薄茶色の身体は、ぱっくり割れた背中を除いて、触覚から脚先の棘まで、旅立った蝉の原型が完璧に写しとられていた。ありのままの姿には、どこか哲学的な美さえ感じられた。
「懐かしいやろ。子供ってなんでこないなもん集めたがるんやろな」
そうやって暫くは、二人で硝子細工のように儚く美しい、そのひぐらしの空蝉を眺めていた。ほんの少しでも力を入れれば、簡単に壊れてしまうような。先生は指先に留まる虚空をうっとりと見つめていらした。
「俺らもこうやって、何かを置き去りにして大人になったんやな」
先生の白髪混じりの前髪が、日暮れの涼しい風に吹かれて微かに揺れた。
「夏は束の間の夢ですね」
僕はふとそんなことを思った。過ぎ去って、二度と戻ってはこない少年時代の夏の夢。朧げにしか思い出せぬ、もはや叶うことのない永遠の夢。
「そないな事、言わんといてや」
先生は下を向いて、また虚ろな顔をなさった。
過ぎゆく季節が、小さな
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