暮の蜻蛉
敦煌
メランコリーの花弁
嗚呼、この人はやはり人間が嫌いなんだな。
先生から頂いた原稿に目を通すといつもそう思う。何て厭世的な文章を書く小説家なんだろう。
それなのに、筆を執ると人が変わったように、こうやって美しくも退廃的な作品を書かれる。築き上げた世界を、自ら鈍い金色のペン先でビリビリと引き裂いてしまうような、そうして何もかも無くなって、哭く声も奪ってしまうような。
先生は小さい子供がお好きなようだった。マリちゃんという小学校にも満たない女の子に慕われていた。彼女の手を取ったり、抱き上げたりして遊んでおられる時の微笑は、この世で最も柔和なものであった。
だから先生の世界では、子供は光の象徴として描かれた。有限な無邪気さへの憧憬と、成長とともに失われるそれへの強い悲哀が滲み出ていた。
世の中に怨みでもお有りなのだろうか。ご自分に憾みでもお有りなのだろうか。
その日も喫茶店で打ち合わせの予定があった。奥の方の席で、原稿を仕舞った鞄を抱えて待っていると、先生は少しだけ遅れていらっしゃった。今日はブラウンのジャケットとベストに紺色のネクタイを締めていらした。ごめんなと言いながら席について、テーブルの上の花瓶に挿してある赤い花に気付いて、微笑みながら仰る。
「ゼラニウムやな。ええ花や」
花言葉は尊敬だ、と教えて下さった。
僕の前に飲みかけのクリームソーダが溶けているのを尻目に、先生は珈琲を頼まれた。原稿を出そうとすると、
「まあまあ。今日はそのつもりちゃうから」
それから、僕に最近どないや、とか彼女はできたんか、とか色々お訊きになる。そうして若造の人生相談に深い話をしてくださるのだが、たまにあるこう言う形式の打ち合わせが、僕は不思議で仕方なかった。
「何故、こんなに良くしてくださるんですか」
僕の素朴な質問に、先生は夢を見るような眼差しで、珈琲カップの中で揺蕩う景色に目を落としながら、ゆっくりと仰った。
「何かな、自分見とると懐かしなるねん。そうやって何でもかんでも本気なって頑張っとって、俺の若い頃みたいやって」
「やから息抜きに連れ出したろ思うてな。打ち合わせの名目なら誰も文句言われへんやろ」
お節介なら言ってや、と小さく笑われた。僕がいいえと首を振ると、先生はまた、今度はぼんやりと花瓶を見て仰る。
「大人は汚いさかい……」
先生はそれっきり口をつぐまれた。憂うような横顔に暗い影が落ちる。ゼラニウムの赤い花弁もはらはらと舞い落ちた。きっと小説を書かれる時もこう言う表情をなさっているのだろうと、なんとなく了解した。
それからまた一寸話して、良い時間になったから打ち合わせはお開きになった。喫茶店のドアを出て、ほな、と右手で挨拶を交わして、先生が僕の横を通り過ぎて行かれた時、香水の上品な甘い香りがふわりと鼻を掠める。
脳裏に深紅のゼラニウムが咲いた。
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