ゴテェの呪い

武州人也

後手の呪い

 ゴールデンウィークを利用して、磯山家は川釣りに出掛けた。父の運転する車に、母と小学六年生の長男、小学四年生の次男、そしてペットのゴテェが乗っている。

 車に揺られながら、次男の悠斗ゆうとは兄の賢斗けんとが腕に抱いているゴテェのダイフクに目をやった。

 ふわふわな白い毛に覆われ、手足は太短く、胴体はまん丸でふっくらとしている。大きさはタヌキと同じぐらいだが、ふっくらとした胴体に丸顔をしているため、タヌキよりも体高がある。垂れ目がちで口角も下がっているため、どこか困り顔をしているように見えてしまう。「ゴテェ」という名前はその鳴き声と「後手」という言葉から来ているらしい。とにかく動きが鈍く、自然界では様々な捕食者のご飯になっているようだ。

 「ダイフク」という名前は兄が考えて名付けたものだ。白くてまん丸で、おまけにほっぺがもちもちしているからという、至極安直な由来によるネーミングである。

 ダイフクは兄の腕の中で、のんきに大きなあくびをしていた。そんなダイフクの様子を見ていると、悠斗の心の奥底がざわめき出す。


 ――意地悪したい。


 ゴテェの容貌や仕草、そして持ち前の鈍さは、悠斗の心に秘めた嗜虐心を存分に煽るものであった。家に一人しかいない時、たびたび悠斗は餌の人工飼料を置いてダイフクを呼び寄せ、食べられる直前で餌を取り上げてお預けをした。そんな意地悪を受けると、ダイフクは困り果てたようにゴテェと鳴き、短い前脚を必死で伸ばして餌を取ろうとする。悠斗はさらに餌を握る手を高くあげてお預けをする。そうすると、ダイフクはぽろぽろと悲し気に涙をこぼすのだ。

 ゴテェという生き物は人間と同じように、感情の動揺で涙を流す情緒豊かな生き物だ。その涙が悠斗の奥底の嗜虐心をくすぐり、麻薬のような依存性の快楽を与えてくる。悠斗は餌のお預けだけでなく、頬をつねったり、プラスチック製のおもちゃのバットで尻を叩いたり、痕が残らないような形でしばしばダイフクを痛めつけた。

 そんなわけで、当然ながらダイフクは悠斗にあまり懐かなかった。それでも悠斗が餌をあげると、無警戒によちよち近づいてくるのだから、物覚えがいいのやら悪いのやら。ゴテェは食に貪欲で、食える時に食いだめして脂肪を溜め込み、食えなくなった時に備えるというから、意地悪された記憶よりも目下の食欲が優先されるのだろう。


 そうして、一家は東京西部の秋川渓谷にある釣り場に到着した。空には雲一つなく、ぎらぎらと太陽が照りつけていて、日向にいるとじっとり汗ばんでくるような陽気である。周囲は見渡す限りの緑であり、目の前の渓流にはさらさらと透明な水が流れている。

 兄が釣りをしている最中、悠斗は手持ち無沙汰にその様子を眺めていた。傍で丸くなってあくびをしているダイフクにつられて、悠斗も大きなあくびをした。

 父と母はお互い釣り仲間で知り合って結婚したからか、兄同様釣りに夢中であった。そんな中で一人何もすることがない悠斗は、ダイフクのリードを引いて川の下流側へと歩いていった。

 ダイフクはしきりに川の方を気にしているようだった。渓流釣りに連れ出されるのは初めてのことだから、川というものが珍しく思えるのかも知れない。

 川の水は透き通っていて、川魚が泳いでいる姿がよく見える。ゴテェのどんくささを思うと川から落ちてしまわないか心配で、悠斗はリードを引き寄せてダイフクを川に近づきすぎないようにした。

 ダイフクを連れて歩いていると、知らずの内にひとけのないところまで来てしまっていた。小鳥のさえずりと川のせせらぎ、そして川沿いに生える真竹が風に吹かれて枝葉をかさかさ揺らす音だけが辺りに響いている。

 ダイフクは川の方に向かってゴテェと一鳴きした。その鳴き声を聞くと、悠斗の胸の中がむずむずしてくる。


「ダイフク、お前あの魚が食いたいのか?」


 ゴテェは雑食性で、野生化では自分より小さな動物をたまに捕食することがあるという。もっとも鈍足で獲物を追いかける能力はないため、肉食の機会を得るとすれば死肉を食べるか、それとも動きの遅い獲物を取るか、待ち伏せで襲って捕らえるかに限られる。

 悠斗はにやりと、邪な笑みを浮かべた。この少年は不思議な高揚感に包まれていた。心臓の鼓動は速まり、背筋がぞくぞくと震えてくる。


「だったらさ」


 悠斗はダイフクの後ろに立った。ダイフクはよからぬ気配を感じてか、悠斗の方を振り向いた。


「自分で取りに行ってこいよ!」


 そう言って、悠斗はモチを思いっきり蹴り上げた。ゴテェ! と、今まで聞いたことないような大きな声を発したダイフクは、じゃぶん、と水音を立てて川に落ちてしまった。


 やった……とうとうやっちゃった……


 悠斗の興奮は、この時最高潮に達した。だが、それもすぐに冷めることとなる。

 

 ダイフクはゴテェ、ゴテェとまるで助けを求めるかのような鳴き声を発しながら、どんどん下流側へと流されてゆく。体に蓄えた脂肪のおかげで沈みはしなかったが、渓流の流れの速さに抗って泳げるほどの遊泳能力は持っていなかった。それを見た悠斗は、自分が取り返しのつかないことをしてしまったということにようやく気づいた。


「ダイフク!」


 悠斗は慌ててダイフクを追いかけた。顔面蒼白になりながら、川原の砂利を蹴って突っ走った。けれどもダイフクはどんどん流されていってしまう。悠斗は諦めずに走り続けたが、足場の悪い砂利の地面を走るのは容易なことではない。悠斗は途中で大きな石につまづき、みじめにすっ転んでしまった。


「いてて……」


 何とか起き上がった悠斗。しかし、その時すでにダイフクの姿は視界から消え去っていた。もう遠くまで流されてしまったのだろう。こうなると、もう諦めるより他はない。

 悠斗はとぼとぼ上流側へと歩き、家族のいる場所へと戻っていた。悠斗は流されたダイフクを心配するよりも、ダイフクが流されてしまったことをどうやって説明したらよいかということを必死で考えていた。正直に話すことなんかできやしない。あの畜生は両親と兄に溺愛されているのだから、ことの顛末を嘘偽りなく話してしまえば、どんな大目玉を食らうか知れたことではない。

 ……そうだ、あれは事故だ。不幸な事故だったんだ。そう説明するしかない。


***


 その日の夜、悠斗はなかなか寝付けなかった。

 ダイフクが流された後、悠斗はダイフクが魚を取ろうとして川に転落し、そのまま流されてしまったと家族に語った。兄にはなぜリードを持っていなかったんだとさんざんに責められたが、両親は悠斗の沈痛な表情を見て慮ったのか、泣きながら怒る兄を静止した。そのまま一家は黙って釣り具をまとめて家路に就いた。帰りの車内は無言で、重苦しい空気が充満していた。

 いざダイフクのいない夜を迎えてみると、思ったよりも違和感がなかった。しまいには、元々あんな獣はうちにいなかったのではないか、とさえ思うようになった。いずれ兄も両親も、ダイフクのいない生活に慣れてしまうのではないか。

 悠斗は布団の中であれやこれやと悩んでいたが、次第に疲れが勝ったのか、日付が変わるころには眠りに就いた。


 気づくと、悠斗は渓流沿いの砂利の上に立っていた。ゴテェを蹴り飛ばして川に落としたあの場所だ。

 周囲を見渡してみたが、周りには誰もいない。川のせせらぎだけが、辺りに不気味に響いている。

 その音の中に、ばしゃ……ばしゃ……という、何かが水をかき分ける音が混じり始めた。何かが、川から上がろうとしている。その音は、だんだんとこちらに近づいている。

 目の前に流れる川に視線を落とした悠斗は、言葉を失った。


 ゴテェ……ゴテェ……


 川から這い上がってきたのは、ゾンビのようなゴテェであった。肉が腐り落ち、眼球はなく眼窩がむき出しになった、見るも無残なゴテェが、ゆっくりゆっくりと、水滴をしたたらせながら悠斗の方に歩いてくる。それとともに、不快な腐敗臭が悠斗の鼻孔を突いた。


 ――あれは、ダイフクだ。


「うわあああ!」


 絶叫した悠斗は、ベッドから跳ね起きた。先のことは全て夢だったのだ。窓から差す朝日が、この少年を悪夢から現実へと引き上げた。

 

「何なんだよ……」


 きっと、昨日のことがあったから、あんな夢を見たのだ……そう思って気分を切り替えようとしたが、あのゴテェ……という鳴き声だけが、どうも頭から離れなかった。


***


 ことは、これで終わらなかった。

 

 次の日、またしてもあの腐ったゴテェは夢の中に現れた。今度は学校のプールから姿を現した。絶叫したところで、悠斗は目を覚ました。

 その次も、そのまた次の日も、ゴテェは夢の中に姿を現した。次は自宅近くの川、そのまた次は自宅のすぐ側の池、と、夢を見る度に場所が変わっている。

 そして不気味なことに、ゴテェが現れる場所は、どんどん家に近づいているのだ。このままどんどん近くに現れるようになったら、一体どうなってしまうのだろうか。


 ――もしかして、ダイフクに祟られたのでは……


 そんな馬鹿げた考えが、悠斗の中で首をもたげた。

 動物の霊も、人間の霊同様に人を祟るという。有名なのは蛇や犬、狐などであろう。悠斗も怪談の類を読み漁ることが好きだから、それは知っている。しかし、ゴテェが祟りをなしたという話は見聞きしたことがない。

 悠斗に元気がなく、いつも目の下に隈を作っている様を見た家族はしきりに「大丈夫? ちゃんと寝てる?」などと心配の声をかけたが、悠斗は自分が見ている悪夢のことを家族の誰にも相談できなかった。今更あの渓流での出来事を蒸し返したくなかったからだ。家族に言えないとなれば、あとは独力でなんとかするしかない。


 そんなわけで、悠斗は自宅から自転車で三十分ほどの、大きな神社へ足を運んだ。この神社は平安時代初期に建てられた由緒ある神社である。ここでお守りでも買えば何とかなるかも知れない……そう考えた悠斗は、神社の駐輪場に自転車を停め、鳥居をくぐって中に入ったのであった。

 高い木々のそびえる鎮守の森は、五月の昼間でもどこかひんやりとしていた。悠斗は石畳の上を歩き、社務所へと向かった。


「これ若いの」


 急に、年老いたお爺さんの声で呼び止められた。声のする方を向くと、頭の禿げあがったお爺さんが、絵馬のかけられている場所に立っていた。箒を手にしており、落ち葉を掃いていたのだろう。


「え、あ、はい」

「何か悪いモンに憑かれててここに来たんだろう?」


 悠斗はぎょっとした。このお爺さん、どういうわけか自分のことを見透かしている……


「ちょっと待っておれ」


 悠斗が目を白黒させていると、お爺さんは社務所の方へと歩いていき、建物の中へと入っていった。暫くすると、お爺さんは正方形をした和紙を四枚持ってきて、押しつけるように悠斗に手渡した。


「お前さんに憑いてるモンはそう強いヤツじゃあない。でも早く手を打っておくに越したことはなかろ。病気も霊も、さっさと対処してしまうのがよろしい」


 それから、お爺さんはひと呼吸おいて続けた。


「小さい動物を食ってしまいそうな……そうだな……トラとかオオカミとか、そういう強い動物を絵に描くのだ。描いたらその紙を部屋に貼りつけて眠りなされ。きっと、絵の中の動物が悪い霊を追っ払ってしまうだろうよ」

「え、でも僕そんなに絵が得意じゃ……」

「絵の上手い下手なんて関係ないさ。この動物はお前を食ってしまうぞ! と強く思いながら描くのがコツだよ」


 どうせ倉庫で埃かぶってたものだからお代はいらん、といって、お爺さんは社務所の中に引っ込んでしまった。悠斗は首をかしげながら、手渡された紙を持って帰った。


 帰宅した悠斗は、早速昔使っていたクレヨンを引っ張り出して、紙に絵を描き始めた。絵心なんてないけど、とにかくゴテェを食べてしまえるように……と念じて絵を描いた。悪戦苦闘しながら、ようやく四枚の紙にそれぞれ四種類の捕食者を描くことができた。

 描いたのはトラ、オオカミ、ワニ、サメであった。どれもゴテェとは比べ物にならないほど強い肉食動物だ。悠斗は絵を描き終わった紙をセロハンテープで部屋の壁に貼りつけた。


 その夜、夢の中で、悠斗はダイフクを蹴り飛ばしたあの渓流の砂利の上に立っていた。

 やがてバシャ……バシャ……という音とともに、あの腐ったゴテェが川から這い出た。何度見ても見慣れることはない、嫌悪感と不快感を極限まで煽る姿をしている。あの愛らしい姿の面影はどこにもない。

 だが、今度の展開は違った。急に横合いから、何かが素早く飛び出してきた。


「あっ!」


 どこからともなく現れた一匹の獣。それは灰色の毛をしたオオカミであった。オオカミは腐ったゴテェに襲いかかり、前脚でゴテェの体を押さえつけて肉を食いちぎった。オオカミが去っていく頃には、骨だけになったゴテェが残されていた。

 ほっと胸をなで下ろした悠斗であったが、その表情は再び凍りついた。また同じように、川から腐ったゴテェが這い出てきたのだ。

 だがこのゴテェも、オオカミに食われたものと同じ末路を歩んだ。今度はトラが現れ、ゴテェを咥えて去っていった。

 その次も、ゴテェは現れた。しかし今度は川から這い上がることさえできなかった。大きなワニがゴテェを咥え、そのまま川に引きずり込んで消えてしまった。

 それでも、懲りずに次のゴテェが現れた。前のゴテェたちと同じく、川から這い上がろうとするゴテェ。しかし、水面から突き出た三角の背びれが、ゴテェのすぐ背後に迫ってきていた。 

 川の水が大きく盛り上がる。その水が割れて姿を現したのは、巨大なサメであった。川岸の砂利に前脚をかけたゴテェの背後から襲いかかったサメは、大きな口でゴテェを丸呑みしてしまった。


***


 あれから、悠斗の夢に腐ったゴテェが現れることはなくなった。けれども、此度のことはこのイタズラな少年の心に大分堪えたらしい。悠斗はすっかり動物が苦手になってしまった。

 

 それから一年後のことである。


 友達の家で遊んだ悠斗が、自転車を漕いで帰宅している途中のことであった。

 一台の大きなトラックが、曲がり角を曲がってくるのが見えた。普通のトラックではない。豚や鶏などを運搬する家畜運搬車である。


 ゴテェ……


 ふと、悠斗の耳がゴテェの鳴き声をとらえた。この世で最も聞きたくない動物の鳴き声である。

 トラックが過ぎ去る時、悠斗は振り返ってトラックの荷台を見た。


 荷台には、体の腐った、ゾンビのようなゴテェがぎゅうぎゅう詰めになった檻が載せられていた。


「うわっ!」


 思わず、悠斗は叫んでしまった。しかしもう一度見てみると、荷台の檻に入っていたのは、白くてふわふわの毛をした、可愛らしい普通のゴテェであった。

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