参
「なぁにをぼんやりとしとるの」
笑みを含んだ声に、私は三年の歳月から引き戻された。
目を開く。とめどなく
私は思わず悲鳴を上げる。そこでやっと、幻蝶の首筋が無傷なことに気がついた。鮮血で彩られてはいる。けれど、傷ついているのは剃刀を握った彼女の手だ。
ゆらりと立ち上がった幻蝶は親指についた血を舐め取り、うっそりと笑った。
「あかんよ? 人を殺したいなら、ちゃあんと最後まで目を開けとらんと」
「……っ、あんた……気づいてたのか……」
「そりゃあ、あんなに殺気まみれやったらねぇ」
幻蝶が落とした
この女は、私の前に立ちはだかる。まともに争うこともなく、なれど絶対的な存在として。
「ど……して……」声を震わせながら、私は薄い生地の着物をぐっと掴んだ。「どうしてよ……どうしてあんたは、いなくなってくれないの……。あんたさえいなければ、あたしは……」
「あはは。ええねぇ、ええねぇ。あんたは相変わらず綺麗に泣いてくれる」私の上で、艶やかな笑みを浮かべた女は胸元に手を当てた。「でも残念。幻蝶は消えへんよ。誰がどう足掻いたってね。蝶はただただ、何者にも縛られずに儚き幻を渡り歩くばかり。それを捕まえようとするから苦しゅうなる」
「捕まえたいだなんて、思ってない」
「本当に?」
無邪気に笑った幻蝶は、整った顔を近づけた。瑞々しい
「だって、あんたは――」
ささやかれた一言に、私は目を開いて幻蝶の頬を叩いた。
幻蝶は微笑む。白い頬の片側だけがほんのりと桜色に染まる。そして彼女は、呆然と
「あぁ本当に、あんたは綺麗で、愚かやわ」
勝ち誇ったように幻蝶が瞳を煌めかせる。視界が滲み、私は耐えきれなくなって目を閉じた。頬を伝う涙が甘いのか苦いのか、判別することすら億劫だった。
そしてそれから十日後の未明に、幻蝶は呆気なく死んだ。
*****
幻蝶は持病持ちだったと、人々は噂した。
彼女があまりにも色白だったのは血の
「いずれにせよ、よかったわ」
私が手渡した湯呑に口をつけ、
絹の紋織物で出来た打掛けを滑らせ、楪がふんわりと微笑む。
「皆、悪い夢から覚めたようだわ。そりゃあそうよね。幻蝶は間違いなく悪女だったもの。彼女に弱みを握られて、肩身の狭い思いをしていた者もいたようだから」
「そう」
「あなたもそうでしょう? 幻蝶のそばで仕えて二年。到底無茶な難題もふっかけられたって聞いたわ。夜半に湯浴みを要求されたり、冬にしか手に入らぬ野菜をねだられたり」
「それぐらい、大したことじゃないわ。あいつの飲みかけの汁を水で薄めて飲まされたり、あいつに激高した客に、身代わりで殴られたこともあったもの」
「まぁ……なんてこと……」
淡々と告げた事実は、楪にとっては衝撃的だったらしい。しばしの沈黙の後、彼女は不意に膝を寄せた。
ふわりと、楪の暖かな手が私の上に乗せられる。これでは茶を
「大変な、思いをしたのね」
「……別に、大変だと思ったことなんてない」
「無理をしなくてもいいのよ。あぁでもまさか、ここまで酷いことになっているなんて」
酷いこと。言葉にしてしまえば呆気ないそれに、私は妙に笑いたい気持ちになった。そうだ、あまりにも酷かった。幻蝶と過ごす時間に良い思い出など何一つない。
だというのに、彼女の死は
「――でも、もう大丈夫だわ。今日ね、主様が仰ったの。私が幻蝶に成り代わって、身請けされておいきなさいと」
楪の言葉に、私の思考はぴたりと止まった。目だけ上げれば、楪はおっとりと微笑む。
「だから、怖い幻蝶に怯える日々はもうおしまいよ。あんたはこれから自由に生きて、」
「お待ち」私はまじまじと楪を見つめた。「馬鹿言っちゃいけない。幻蝶は死んだ。なら、身請けの話は断るのが筋ってもんだ。相手だって、幻蝶の器量を見込んで買おうとしたのだろうし」
「いいえ、客は見栄を買いたかったのよ。それが証拠に、お客は幻蝶に一度も会いに来たことがないそうだわ」
「そんな客、主様がお許しになるはずがない」
「言ったでしょう、これは主様が言い出したことなのよ。私はそれに従うだけ」
「あんたはそれでいいのか」
「えぇ勿論、構わないわ」
だって、ここから出ていけるのですもの。楪は華のような笑みを浮かべた。それを私はしばしの間ぼんやりと見つめ、そっと目を閉じる。
鮮やかな赤が、瞼の裏に散った。からからと、記憶の中の蝶が艶やかに笑う。
幻蝶は消えへんよ。誰がどう足掻いたってね。蝶はただただ、何者にも縛られずに儚き幻を渡り歩くばかり。
「分かった」私は静かに瞼を上げた。「あんたが、幻蝶を殺したんだね」
「……え」
楪の顔がこわばった。それが奇妙におかしくて、私は楪の手を強く握って笑む。
「駄目よ、楪。幻蝶を名乗るのならば、こんな時こそ嫌味ったらしく笑わなくちゃ」
「待って……なんで、あんた……」
「なんで私が、幻蝶が殺されたって思ったのか? そりゃあ毎日、あの子の汁の残りを食わされていたんだもの。そこに毒が入ってるかどうかなんて分かるに決まってる。そしてこの楼閣に、薬屋の客と付き合いのあった人間は、あんたしかいない」
「っ、そんな……」
「その様子じゃあ、幻蝶を殺したのはあんただけの判断というわけね。その後で、主様を上手く抱き込んだのかしら」私は鼻を鳴らした。「くだらない。実にくだらないわ。こんなことで、あいつが死ぬなんて」
そこまで言ったところで、楪が苦しげに胸を押さえた。細い体がくずおれる。信じられぬと言わんばかりの目で見上げてきた彼女に、私はにこりと微笑んだ。
「なぁに、さして驚くほどのことじゃないわ。ちょっとしたお薬よ。あんたの
楪の目に怯えの色が浮かんだ。そりゃあそうだろう。水揚げ前の女が客と寝ることは許されない。まして、私はそういうことをする人間ではなかった。
けれど、あの女は、違う。
「――わっちを、幻蝶に仕立て上げなさい」楪を抱き寄せ、私は声を落として命じた。「主様にわっちを推薦するの。そうすれば解毒薬をくれてやる」
「……っ、ど、して……そんなにあんたも身請けされたかったの……?」
「身請けなんて断るに決まってるでしょう。笑わせないでよ。仮にも幻蝶を
私は冷ややかに目を細めた。
「蝶はただただ、何者にも縛られずに儚き幻を渡り歩くばかり。身請けなんていう
「おか……しいわ……あんたは幻蝶のことが嫌いなはずでしょ……」
「……そうよ、嫌い。あいつのことなんか、大嫌いだわ。でもね、赤の他人があいつを騙るのはもっと許せないの」
楪が観念したかのように項垂れた。あぁこれは従うな。そのことを確信し、私は楪の口へ乱暴に解毒薬を入れて部屋を後にする。
障子を開け、外へと踏み出した。格子越しの残照が廊下を照らす。あの女の笑い声が聞こえた気がした。あんたもとうとう堕ちてきたんやねぇと。
「……くそくらえ」
あんたのためなら、私は結局、どこまでも追いかけてしまうんだ。たとえそれが夢幻であろうとも。低く吐き捨て、私は着物を整えるために部屋へと足を向ける。
視界の端で、ひらりと蝶が舞った。
<了>
幻蝶 湊波 @souha0113
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