水揚みずあげ間近の娘は、姉女郎の前で一通りの芸を見せ、水揚げに足る娘かどうかを判断してもらうことになる。

 顔色が悪いと、親友のゆずりはが案じるような表情をしてみせたのは、そんな水揚げの試験の直前だった。


「あんた、本当に大丈夫?」

「大丈夫よ。練習してきたもの」

「そうじゃあなくって」


 楪は溜息をつき、湯を勧めた。気は進まないが、目線だけで念押しされて仕方なく湯を口につける。

 雨が、ぽつぽつとひさしを叩き始めた。半開きの障子の隙間からぼんやりとそれを眺めていると、楪がおずおずと口を開く。


「ねぇやっぱりしておいた方がいいんじゃないの。今日の試験」

「いや」

「嫌って」一年早く遊女となった楪が、困ったように眉を下げる。「そりゃあね、一刻も早く水揚げされたいってのは分かるわ。お客をとって金を稼がなきゃ、ここからは抜け出せないもの。でも、今回は相性が悪すぎる。あの幻蝶がいるなんて」

「別に、誰か一人しか選ばれないってわけじゃない」

「それは、そうだけれど」

「じゃあ、何も問題はないじゃない」


 つっけんどんに言えば、楪が目を曇らせた。


「あのね……あんたは、お客をとるに申し分ないだけの技量を持ってると思うわ。でも幻蝶の前じゃあ、ちっとも上手く振る舞えないじゃない」

「今までは、でしょ。本番ならちゃんと出来る」

「幻蝶はあんたをってるのよ」

「喰われてない」

「いいえ、あんたは確実にむしばまれてる」


 楪が近づき、私の手を取った。彼女の暖かな手に、自分の手が冷え切っていることに気付く。楪の憐憫れんびんの視線が注いだ。


「昔のあんたは、もっと笑う子だったはずだわ。それなのに、最近はひどい顔じゃない」

「……気のせいよ。ちゃんと笑える」

「それだけじゃない。気づいてるの? あんたが最近やる芸事って、どれもこれも幻蝶のやった演目ばかりで、」

「あいつが、あたしの真似事をしてきてるの!」


 掴まれた手が憎らしくなって、乱暴に振りほどいた。目を丸くする楪をにらみつける。どこからともなく幻蝶の笑い声が響いてきて、私は顔を歪めた。


「あいつが……なんでも真似するのよ……許せるはずないでしょ……!? 稽古も練習もちっともやらないのに! なのに、あたしが弾いた曲をちょっと聞いただけで、完璧にこなしてきてっ……! そんなのに負けるなんてありえないのよ……! まして、逃げるなんてっ!」


 息苦しさに顔を覆う。「えろう、必死やね」そんな幻蝶の嘲笑が聞こえてくるようで、思わず己の頬に爪を立てる。


 楪にそっと肩を叩かれたのは、そこからさらに三度呼吸をした後だった。膝に何かを落とされる感触。そろりと見下ろせば薄紅色の小袋がある。


 楪が耳元で囁いた。


「南蛮から取り寄せた薬よ」

「……あたしは、病じゃない」

「知ってる。この薬は悪人をらしめるための薬だもの。大丈夫。死にはしないわ。少し上手く動けなくなるだけ」


 顔を強張らせる私に、楪はぎこちなく笑った。


「このままじゃ、悪い蝶がここを食い潰してしまう。それを防がなきゃ。そうでしょ?」


 それから数刻後、小袋を握りしめた私の傍で、火鉢がぱちりと音を立てた。

 姉様達の支度を終えるまで待つための小部屋だ。試験は姉様達の都合のいい時間に行われるのだから、当然私達は部屋で待っていなければならない。


 だというのに、幻蝶は未だ姿を見せていない。

 そして私の目の前には、一人分の湯呑ゆのみがある。


 私は震える息を吐き出した。心臓が痛いほどに鳴っていて、あの女の声が聞こえないのは幸いだった。包みを開く。細かな白い粉が見えた。なるほど、これならば湯に溶けて消えてしまうだろう。


 これを、いれてしまえばいいのだ。私は我知らず喉を上下させた。だって、あの女は悪だ。間違いない。今はまだ被害は少ないけれど、これを放っておけばどうなるか。幻蝶は憎らしいほどに上手く立ち回る。上の人間は気づいていないか、気づいていても黙らざるをえないのだろう。そんなものが、のさばればどうなる。この楼閣は。


 これは、正義だ。震える指先で、包みをつまんだ。まぶたを下ろす。あの女の緋色が見えた。黒い影が。下手糞やねと笑う煌めきが。


 そして彼女は、あんたがここまで堕ちてくるのが楽しみやわぁと呑気のんきに笑う。


「っ……」


 痛いほどに包みを握りしめ、火鉢に灯った炎に薬をくべた。薄紅色が灰になる。肩で息をしながら、私はぼんやりとそれを眺める。


 違う、この薬を使うのは間違いだ。あの女と同じになるわけにはいかない。ぽっかりと空いた穴を寂寥感せきりょうかんが抜けていく。それを埋めるように、何度も何度も言い聞かせる。


「しけた面やねぇ」


 軽やかな声と共に肩を叩かれ、私は弾かれたように振り返った。


「幻蝶……」

「あらあら。ずいぶん怖い顔しとるやないの。まるで鬼さんみたいやね」

「あんた、今まで何してたの」

「んんー? ちょおっとした暇つぶしやよう」


 濡れた唇に人差し指を当て、幻蝶はくすくすと笑う。それを睨みつけるものの、彼女は気にした風もなく無造作に向かいに座った。私が何度も繕った着物をこれ見よがしに広げ、彼女は湯を注いだ湯呑を差し出す。


「ねぇ、あんたはこんなところにおって暇やないの」

「暇なんて、思うはずないでしょ」湯呑をひったくるように受け取り、私は苛々と口づけた。「今日の出来次第で水揚げの日が決まるのよ。姉さまの前できちんと振る舞わなくちゃ」

「まぁた、そうやって媚を売るんやねぇ」

「あんたほどじゃない」

「嫌やわ。わっちは皆の歓心を買ってあげてるだけ」

「そんな態度でいられるのも、今のうちだわ。お客を取るようになったら、あんただってこんなに自由ではいられなくなる」

「客を取ったってなぁんも変わらんよ」


 幻蝶は目を細めた。


「ねぇあんた、分かっとるの。わっち達は客を喰らってなんぼよ。あいつらはわっち達に勝手に夢を見て、そうして勝手に目覚めて出ていくの。うかうかしてたら磨り潰されて、食い散らかされてまうよ」

「それが、私達の仕事というものでしょう」

「やだやだ。そうやってすぐに憐憫れんびんに走る」幻蝶は一段声を落とした。「だぁれも、わっち達が壊れたかて痛んではくれまいよ。あるいは、そうやね。そうやって壊れたわっち達でさえ、悲劇にしたてて喜ぶんだろうさ。そうであるなら、憐憫なんて最も要らん感情や。やろ?」

「だったら、こんなとこからとっとと出ていけばいいでしょう」

「なぁんで? だからこそ、ここはこんなにも面白いのに」


 幻蝶が両手を広げて笑う。その景色が、突然ぐにゃりと歪んだ。びりと舌先に痺れが広がり、私の手から湯呑が落ちて湯が溢れる。


「っ、な……ぁ……?」

「やぁっと効いてくれた」


 濡れた着物の上に倒れ込む私を足蹴にして、幻蝶は両手を叩いた。一体なんだ。何が起こった。かろうじて目だけを動かせば、揺れる視界の上から薄紅色の包が降ってくる。


 全身が凍りついた。


「ぁ……んた……っ!?」

「ふふ。これが何か分かるなんて、あんたも随分悪い子やないの」幻蝶はからからと笑って、私の耳に手を当てた。「念には念を、やろ? 私は華の花魁になりたいんやから」


 信じられない。それをするのか。あんたが。そんなもの無くても、私に勝てるであろうあんたが。


 一瞬でもそう思った自分が悔しくて、信じられなくて、目の前の女が憎らしい。


 顔を真赤にする私にもう一度にこりと微笑んで、幻蝶は私を転がし着物を引き剥がした。


「ちょっと、誰かおらん? 姉様に会うっていうのに、せっかくの着物が汚されてしもうたわ。新しい着物を持ってきてえな」


 白々しく哀れっぽい声を上げ、幻蝶は一度も振り返ること無く部屋を後にする。


 それから幾日も経たずして幻蝶は水揚げされ、私はあの女を殺そうと決意した。


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