幻蝶
湊波
壱
まぶたの裏に白と黒が焼きついている。それを追いかけるように、私はかじんだ指先で
ぶつと、刃が皮膚を
*****
幻蝶は私と同い年の少女だった。
見目うるわしい少女であったと記憶している。けれどここは遊郭。美しい女など掃いて捨てるほどいて、彼女も私も結局は有象無象の
それでも私達は芸を学び、
私は誇らしかった。遊郭にあって、これほど素晴らしい褒め言葉はない。一方で、幻蝶はいつもつまらなさそうに聞き流していた。
「わっちはわっちが望んだから花魁になる。褒められることなんて、なんもあらへんよ」
黄昏に染まる畳の上で伸びた幻蝶が、西訛りの言葉でぼやく。私は呆れて息をついた。
「そう思うのは自由だけれどね。あんまり大っぴらに言わない方がいいよ。相手が気を悪くする」
糸切り歯で糸をぷつと切る。幻蝶の珍妙な視線に、私は
「これ、あんたのでしょ。ほつれてたから直してあげたの」
「頼んでへんけど」
「着物は大事に使わなくちゃ」
「そんなもの、どうとでもなるわ。汚れたら捨てて、誰かに貢がせればええ」
「水揚げ前のあたし達に誰が貢ぐっていうの」
目をぐるりと回し、私はたたんだ着物を投げてよこす。
畳の上に、使い古された着物が音も立てずに落ちた。幻蝶はしかし、それを見もせずに鼻を鳴らす。
「あんたのそういう良い子ちゃんを演じてるところ、本当に損してると思うわ」
「演じてなんかない」
「嘘つき。相手の気持ちをくんで、下手くそな
「ここは遊郭よ」私はきっと幻蝶を睨んだ。「身内に気に入られれば早く客をとれる。客をとったら客を喜ばせる。どうやったって、相手に媚を売らなくちゃあいけないでしょう」
「そんなことをしなくても、わっちが楽しければそれでええ」
幻蝶はむっくりと上半身だけ起こした。乱れた黒髪が乱れた胸元に落ちる。黒真珠の目を
「わっちを喜ばせるために、あんたらがおるんよ」
幻蝶と私の差が出てきたのは、ちょうどその頃からだった。
彼女は姿をくらましては色事の噂を流した。食事の
だのに、彼女はより美しくなり、気が向いた時に奏でられる芸事には一分の隙もなかった。
肌はより艷やかに、桜色の爪に彩られた細い指先の一つまで甘い誘惑を
「やぁねぇ。朝も早いというのに、うるさいこと」
絡みつくような幻蝶の声に、私は三味線の弦を
朝の白んだ空気が、細く開けられた障子の隙間から忍び込む。柱に背を預けた幻蝶は、明らかに酒精と分かる酒盃を煽った。小さな喉が上下に動く。はだけた胸元から覗く
昨晩教えられたとおりの旋律を再びなぞる。
「弦の押さえが甘い、ばちで弾く音が大きい、音も狂うてる」欠伸を噛み殺しながら、幻蝶は乱暴に足裏で畳を叩いた。「つまらんなぁ。そないな練習しても、なんもならんよ? あんたは下手くそなんやから」
「そんなことない。この前の稽古では、あたしが一番と褒めてもらった」
「そりゃあ、わっちがおらんかったからでしょ」
「あんたは三味線を弾きもしないじゃない」
「弾いたよ。昨日の夜に先生が求めはったから」
弦に食い込んだ三味線のばちが止まった。信じられない思いで目を上げれば、夜の香を漂わせた幻蝶が間近で膝を折る。
艶かしく細足をさらしたまま、彼女は頬杖をついて微笑んだ。
「えぇ声で鳴いてくれはったよ。先生も」
「……あんた、なんてことを」私は唇を震わせた。「水揚げ前の娘が、客でもない男をとるなんて……! 主様が知ったらどうなるか、分かってんの……!?」
「うふふ。あんたらしい解答やねぇ。しらじらしくって嫌になっちゃう」幻蝶は人差し指でぽってりとした唇をなぞった。「幻蝶は夜な夜な人を喰っている。老若男女、誰彼かまわず。あれは鬼の子、目をつけられてはならぬ――この噂、あんたも一回は耳にしたことあるやろ」
「噂は、噂でしょう。あたしはあんたを信じてたのに」
「信じるなんて! ええわねぇ、良い子ちゃんを演じてるあんたらしいお言葉やないの」
幻蝶はからりと笑い、譜の上に膝をついた。紙をぐしゃりと歪ませて、にじり寄る。顔に落ちる影は濃く、まとわりつかせた
「そうやって、正しい方にしがみつくあんたが
私は唇を強く噛み、三味線を捨てて部屋を出た。からころと笑う女の声が追いかけてくる。それは部屋から遠ざかり、昇った日が落ち、再び夜を迎えようとも、私に絡みついて離れなかった。
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