最終話

 ぼくは震える手で、なみさんからの着信を受けた。


『大丈夫?』

 開口一番、その声はすごく澄んでいた。


『うん』

『怖くないよ。わたしがここにいるからね。怖くないよ』

『……うん。なみさんは、今仕事中?』

『まだ家には着いていないけど、仕事は終わったから大丈夫だよ』

『じゃあ、お店にいるの?』

『ううん。車の中』


 聞くと、なみさんはぼくからメールが届いてすぐ、深夜まで営業しているラーメン屋さんの駐車場に車を停めたらしい。なみさん、メールしながら運転とか危ないですよ、なんて気の利いた注意なんてたぶん、二十年が経った今でもできない。

 ぼくは、さっき見た夢の内容を話した。


『ほら、怖くないよ』

『なんか、そう言ってもらえたら楽になってきた』

『そう、楽になるよ。この世に怖いことはあるけどね、全部そのうちなくなっちゃうから。その時が一番しんどくて、それからどんどん楽になっていくんだよ。だから、怖くないの』

『ほんとだね』


 なみさんとはそれから、どんな話をしたのかよく覚えていない。たしか三十分ほどして電話を切ったのだったか。

 なみさんは電話の向こうで、どんな景色を見ていたんだろう。ラーメン屋さんのネオンは何色だったんだろう。大きな道のそばだったんだろうか。夜間も稼働している工場があるって前に言ってた。海の近くなのかな。きれいな波が、流れているのかな。


 ぼくは、言ってしまえば『他人』だ。ぼくが悪夢を見ようと見まいと、なみさんにとって大きな問題はない。そもそも『悪夢を見た』なんて、腕を折ったわけでもないのだし心配に値することではないかもしれない。

 だけど、とぼくは推測する。

 なみさんはきっと、急いで、慌ててラーメン屋さんの駐車場に車を入れたんじゃないかって。ぼくを安心させようと思って、あえて澄んだ声を出したのだろう。いつものなみさんの声はもう少し低かったはずだ。さっきのあれは、よそ行きの声だった。ぼくのためによそ行きの声を出してくれたんだ。そう思うと、今でもまぶたの裏が熱くなってくる。


 やがてぼくとなみさんは、連絡をしなくなった。


 ケンカをしたわけじゃない。互いへの興味をなくしたわけじゃない。


『今のお店から別のお店に移ろうと思うんだ!』


 それがなみさんからの、最後のメールだった。それからはぼくがメールをしても、返事は戻ってこなかった。秋の高い空に携帯電話をかざしてみても、シルバーのボディにぼんやりと虹が映るくらいだった。芦屋あしやにある小さなカフェに一人で行ってみた。興味本位でエスプレッソを注文して「え、ちっちゃ! にが!」とひとりごとを言いながら。なみさんが前に座っていたらどんな顔で笑ってくれるだろうとか、ばかな想像をしたものだった。


 あれから二十年が経った。


 なみさんは今も幸せにしていますか。

 ぼくは東京に出てきて、なにやら難しい仕事をしています。


 なみさん、ぼくは怖いです。


 大勢の中で働いている自分、というのが怖いです。

 他人に、自分を評価されることが怖いです。


 いつか死んでしまうことが、ずっとずっと怖いです。

 自分の夢を叶えられないまま死んでしまうことが、怖いのです。


 なみさんはきっと、『怖くないよ』って言ってくれるでしょうねぇ。


 あなたの住む街からは、海が見えますか。

 波は燐光りんこうを放っていますか。それとも、やはりいでいるのでしょうか。


 ぼくはあなたのことを久しぶりに思い出して、ギターを弾いてみました。

 曲はもちろん。


 ジュディーアンドマリーの、『小さな頃から』です。



                              了

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蒼い夜の澪標 木野かなめ @kinokaname

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