第2話
ぼくはそれから、なみさんとメールを交わすようになった。
電話番号を教え合ったので、夜中に電話で話すこともあった。それはもちろん、なみさんが早めに帰宅している時だけだ。昼はぼくが大学に行っているし、夕方はぼくがアルバイトしているし、そこからなみさんは働くわけだから、二人の時間が交差するのはどうしても深夜零時を回ってしまうのだった。
なみさんとはエロい話をしなかった。無理にその話題を避けたわけじゃない。ぼくだって健全な大学生だ。だけどなんというか、なみさんの『今日のお客さん』の話はエロなんか忘れてしまうくらいにおもしろかった。そんな気取ったお客さんいるんだ、とか。差し入れみたいなのあるんだ、とか。でも『箱が開いてるお菓子は、さすがに食べたくないよね(笑)』とか。『そりゃそうだ(笑)』とか。
一番きわどかったのでも、なみさんがお風呂に入りながら電話をしてくれた時くらいかな。彼女はとてもリラックスしているようだった。電話の向こう側から、お湯の小さくはしゃぐ音が聞こえてきた。
『なみさん家のお風呂って広いの?』
『ううん。ユニットバスだよ』
『ぼくも一緒だ。……でも、溜めて入るんだね』
『たまにね。シャワーばっかじゃつまんないから』
その時ぼくは、いつもお店とかホテルでシャワーを浴びているから『つまらない』のかなと思った。だけど訊かなかった。なみさんはぼくのキャンパスライフの話を聞きたがった。ぼくはもうすぐ前期試験があることとか、友達とフットサルをしたことを話した。なみさんはどこか満足そうな声で、『青春じゃん』と言った。
なんだか暑さを覚えた。エアコンを18℃にしてつけてやる。ガタガタと音がして、かび臭い風が見えない通り道を走ってくる。ぼくはギターを脇に抱え、ジュディーアンドマリーの『小さな頃から』を弾いた。なみさんは黙って、ぼくのへたくそな歌を聴いてくれた。
前期試験が終わって、夏休みに入る。
ぼくはアルバイトを増やしていたし、友達とカラオケやら麻雀に興じる日が多かったので、なみさんと毎日連絡ができていたわけじゃない。それでも、なみさんが変なお客さんに会ってしまった時の愚痴を聞いたり、ぼくはぼくで自転車でこけてしまった話をして、夜中の時間は博物館に飾られた貝殻のようにただそこにあった。少なくともぼくは、そう感じていた。
なみさんの名前は、じつは本名だった。なみさんが生まれる日の二日前、なみさんのお父さんは出産の無事を願うために海へ行ったらしい。そこで、光を弾く波を見た。いくつもいくつも瞬いて。やがて海は
「なみ」ってどんな漢字を書くのか。
ぼくはついに、それを知ることはできなかった。
そして忘れられないあの夜。
いつまでも、ぼくの心に残っているあの夜。
ぼくは友達の家から帰って来て、すぐに布団に入ったんだ。友達が焼酎なんかを呑ませやがったから。元々お酒に強くないぼくだ、頭が痛くてかなわなかったので、寝てごまかそうと考えたのだった。
そしてぼくはおそらく、夢を見た。
場所は自分の部屋。布団に入っている自分、カーテンを越えて漏れくる
だけどどこからか、泣き声がしたんだ。赤ん坊の泣く声だ。でもおかしい、このマンションはワンルームのはず。家族で住んでいる人も、ましてや子供なんて一度も見たことがない。だけどアーンアーンとしつこいくらいに『それ』は泣き続ける。ぼくはちょっと怖くなってきたので目を開けた。するとだ。
オフにした電灯に、
そいつには尻尾らしきものがあった。目はないのに、どこかでこちらを睨んでいるようにも感じられた。まずい。逃げないと。……だけどだめだった。身体が動かないのだ。指一本動かせない。靄は電灯からこちらへ、空中を漂い、少しずつ少しずつ近づいてくる。
ぼくは叫びながら、全身の力を込めて硬直を粉砕した。むくりと上半身が起きた。全身に尋常じゃないほどの汗をかいている。目覚まし時計に目をやれば、午前三時。ぼくはすぐに携帯電話を手に持ち、なみさんに電話をかけた。どうして友達にかけなかったのか。どうして電気をつけなかったのか。それはわからない。とにかくなみさんに電話をしなきゃと思った。
だけど、仕事中かもしれない。
『怖い夢、見た』
とメールを打つと、一分もしないうちに返信があった。
『すぐに電話するから待ってて』と。
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