おうちに帰るまで

井ノ下功

冒険も仕事も同じ


 男の家には地下と屋根裏部屋があり、男は地下で寝起きしている。朝起きて真っ先にすることは、家中にある扉という扉の前とあちこちに点在している箱の中身を確認することである。そしてそこに一通でも手紙があったなら、それを届けるために扉を開く。

 地下室には四つの扉と五つの箱がある。その五つ目に花柄の可愛らしい封筒が入っていた。

 男はかがみこんでそれを拾い上げる。表書きには


『どこかへいっちゃったおねえちゃんへ』


 とある。


(また厄介な仕事になりそうだ)


 男がこの仕事を始めてからもうずいぶん経つ。しかし彼はこの仕事について好きとも嫌いとも思えていない。ただ必要があるからやっているだけであり、面白いこともあるが、明確に嫌いな部分もある。


(一件片付けても、またすぐ次が来る。だからだろうか、ゴールに辿り着いた、という感じが、どこへ行ってもしない)


 男は溜め息を飲み込みつつ着替えを済ませて軋む階段を上る。

 中央のテーブルに少年が座っている。ちょうどパンにかぶりついたところだったらしく、頬をぷっくりと膨らませている。男が向かいに座ると彼は反対に立ち上がる。すぐ傍らの簡易キッチンからパンとサラダを皿に盛って持ってくる。


「ありがとう」

「うん。もう平気なの?」

「ああ」


 男は先日大雨に降られたせいでひいた風邪をようやく治したところであった。


「手紙は入っていなかったか?」

「うん。毎日ちゃんと見てたよ。一通もなかった」

「そうか。ありがとう」


 男が伏せっている間、地下室の分だけは男が見ていたが、それ以外の十一枚の扉と七つの箱は少年が見廻っていたのである。


「今朝は一通あった」


 男がそう告げたのはパンをあらかた食べ終えた頃である。キッチンに向かって紅茶を淹れていた少年が振り返る。


「食べたらすぐに出る。俺がいない間は適当にやっててくれ」


 少年は微笑んで「任せて。慣れてるから」と頷く。

 男はこのやりとりの後に必ず「出ていってくれても構わない」と付け足していたのだが、前回少年に「迷惑じゃないならいさせてほしい。迷惑?」と言われて妙にまごついたのを思い出し、ふと口を閉ざす。

 黙ってサラダを頬張り席を立つ。鞄を肩にかけてスキットルに水を注ぎ、背を向ける。


「いってらっしゃい」

「ああ」


 東側の壁に三枚、北側と南側と床に一枚ずつ扉がある。男は鞄から鍵束を取り出すと東側の真ん中の扉に差し込んだ。

 開く。

 そこは一面の花畑である。薄紫色の可愛らしい花が見渡す限り咲き誇っている。そのかぐわしい香りたるや空気まで薄紫に見えるほどである。

 男は無骨なブーツで無遠慮に踏み込む。あまりに柔らかすぎる土に沈み込むような感じを覚える。一瞬よろけそうになったのを踏みとどまって、背後の扉を閉める。男の家はこの世界から見ると煤けた小屋である。男はさっさと鍵をかける。小屋の窓には何も映らない。

 太陽の位置を見るにどうやら明け方のようである。

 男は当てもなく歩き始める。


(当てにならない宛先に意味はあるのだろうか……)


 花畑は延々と続いている。遠くに森のような黒い影が見えている。


(確かこの場所には、ヌシが住んでいたはず)


 男の足元はどんどん緩くなっていき、ブーツの底が半ば埋まる。男は足を取られないように気を付けながら進む。

 と、不意に地面が鳴動を始める。もともと緩かった土が振動を受けてさらに緩まり、ほとんど液状に変わる。そして男の足の下に突然、ぽっかりと大きな穴が開く。それは巨大な魚の口である。

 魚は餌に飛び付く鯉のように男を飲み込みながら、大空へ向けて跳ね上がる。朝の柔らかな日差しに水滴がきらめく。魚の尾が天を打って地面へ舞い戻る。もう一度、ズン、と重たく鳴動して、世界は沈黙する。



 飲み込まれた男は暗闇の中を真っ直ぐに落ちていく。実は真っ直ぐではなく、微妙にカーブしているのだが、落ちている張本人には分からないでいる。ただただひたすらに落ちていく。

 男は背中から何かの上に落ちて、ぽよんと跳ね返されると床らしき場所に膝をついた。


「やあやあ、これはこれは。郵便屋さんじゃないか」


 面白がるような涼し気な声。

 男は内臓の不快感をこらえながら、ゆっくりと立ち上がってそちらを見る。暗闇の中にぼんやりと浮かんだ壁のない部屋は夢の一部のようである。本棚と硝子戸の棚と丸いテーブルと椅子が三脚あって、クッションの山は男を受け止め跳ね返したものたちである。

 椅子には青年と少女が座っている。

 青年は薄紫色の長い髪をくるくると指先に巻きつけながら、男に笑顔を向ける。


「お届け物は手紙だろう? ボク宛? それとも彼女?」


 少女は妙にかしこまった様子でいる。

 男は鞄から手紙を取り出す。


「宛先は『どこかへいっちゃったおねえちゃんへ』だ」


 告げると、少女がにわかに表情を取り戻して「あたしだわ!」と叫んだ。青年もまた「君のようだね」と、やはり薄っぺらいニヤニヤ笑いを貼り付けたまま言う。

 男は少女へ手紙を差し出した。

 少女は震える手でシールをはがすのももどかしそうに封を切る。


「ああっ……」


 読み終わるが早いか少女は両の目から涙を溢れさせて突っ伏す。

 甲高い声が涙の隙間を見つけては言い募る。


「思い出した。思い出したわ! 私の帰るところはここよ! ニューヨークじゃない……ロサンゼルスの……新しいおうち。だってルーシーがいるんだもの!」


 帰りたい、おうちへ帰りたい、と言って少女は泣き喚く。


「おうちだけじゃなくてお父さんも新しい・・・んだろう?」


 青年がニヤニヤと笑う。男はその薄笑いがすっかり嫌いになっていたが、何かを言える立場ではない。ただ心の中だけで自由に罵っている。


「お母さんは新しいお父さんを選んで、君たちのことなんて何にも考えずに、新しいおうちへ移っちゃったんだろう? そんなおうちが嫌だから君はここに来たんだろう?」

「……そうよ。嫌だった」


 少女は鼻を啜りながら顔を上げる。


「でも、今なら分かるわ。少なくともここじゃない・・・・・・、って」


 頬も鼻も目も真っ赤になっていたが、少女の声は毅然としている。手紙を胸の中にぎゅっと掻き抱き、そして告げる。


「ここじゃない。あたしがいたいところはここじゃない。あたしが終わる場所はここじゃない。あたしはおうちに帰るの、あたしだけのおうちに!」


 その声がぼんやりとした天井ともいえぬ天井へこだまする。

 カチリ、と鍵を開けるような音を男は聞いて、思わず振り返る。

 そこに扉が現れていた。


「あーあ、開いちゃった」


 青年の残念がるような、それでいてやはり面白がるような声。


「行きなよ。あの扉の先が君の冒険のゴールだ」


 少女ががたんと音を立てて立ち上がった。男の前を飛ぶように駆けていく。ワンピースの裾が翻る。男はそこで初めて、彼女のワンピースが封筒とよく似た花柄をしていることに気が付く。

 少女はドアノブに手をかけて、半ば開いてからふと振り返る。


「ありがとう、郵便屋さん!」


 そして真っ白い光にあふれる向こうの世界へ。

 少女を飲み込んだ扉はすぐに掻き消える。

 青年の笑みが男の方を向く。


「それで、郵便屋さんはどうやって戻るの?」

「鍵なら持っている」


 男は鞄から鍵束を取り出すと、その内のひとつ、ほのかな銀色の光を放つ大振りの鍵をつまみ上げる。

 青年は初めてつまらなさそうな顔をする。


「そっか、その鍵か。だから平気なのか。ふぅん」


 男は彼に付き合う気など毛頭ない。黙ったまま何も無い空間へ鍵を差し込む。

 ガチン、と錠の落ちる音は錆び付いたような響きをしていた。影のように浮かび上がってきた扉は男の家のものである。


「ねぇ」


 青年が立ち上がり、扉の反対側から男の方を覗き込む。


「ボクの手紙でも届けてもらえるの?」

「あんたに出す相手がいるならな」


 男は扉をくぐった。



 男の家は橙色の光に満ちている。西日である。少年の姿は無い。

 男はなにかどっと疲れたような感じがして、鞄を放り出し椅子に腰かける。背もたれに身を預ける。大きく息をする。

 南側の扉が開く。


「ただいま――あ、おかえり」

「……ああ」


 返事が遅れたのは一瞬だけ(どっちなんだ)と思ったからである。男は姿勢を正して少年の方を見る。少年は近くの本屋で手伝いをして小遣いを稼いでいる。両手にいっぱい抱えた紙袋の中身は、半分は少年自身が買ったものだがもう半分は本屋の店主や常連客に貰ったものである。


(仕事の合間に店主の爺さんから色々な話を聞くのが楽しい、とかなんとか、言っていたな)


 男はぼんやりと思い返しながら立ち上がる。少年を手伝って紙袋の中身を整理しながら夕飯の準備を始める。


「ゴールはここか」

「え?」

「いや、なんでもない」


 男はリンゴをするすると剥く。少年はしばし男の横顔を見上げていたが、やがてキッチンに向き直ると肉を適当に切っていく。

 二人の影を西日が赤く染め上げている。


   おしまい


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