人生のゴールはまだまだ先が良い 【KAC202110】

江田 吏来

生きたい

 ガン宣告を受けた。

 無表情の医師が内臓の画像を指差しながら、耳慣れない医学用語を並べている。

 これからの治療のことは、何を言っているのかよく分からなかった。唯一聞き取れたのは即入院で、会社や家族に連絡しなければならないこと。

 これは大変なことになったと思っているのに、涙が出ない。取り乱すこともなかったので、俺は首を傾げながら診察室を出た。


 適当な場所に腰を下ろして、言われた通り妻に電話した。

 平日の日中にメールでもメッセージでなく、いきなり電話をかけたので、妻の声は驚きを含んでいる。


「どうしたの?」

「ああ、忙しいときにごめん。俺だけど――」


 体調がすぐれず、病院にいる。入院することになったから、着替えとパジャマを用意してほしい。他にもタオルや洗面用具、使い慣れたひげそりを頼んだ。

 頭のなかはとても静かで、必要事項が淡々と口からこぼれていく。だが、妻の心配そうな声が胸に突きささった。


「どこが悪いの? 大丈夫なの?」

「それは……」

 

 ここでようやく言葉が詰まった。

 先ほど聞いたばかりの病名を口にしようとしても、なぜか声にならない。

 一分、二分と長い沈黙が続いた。

 その間、妻は黙って耳を傾けている。ふたりの間に、途方もない暗闇が広がっているように感じたが、妻が声を出す前にふーっと息を吐くことができた。


「ガンだった」


 息を吐いた勢いに任せて病名を告げると、急に涙があふれて視界が滲む。

 乱暴に腕で拭ったが、堰を切ったように涙が流れて止まらない。


「すぐ行くから、待ってて」

 

 妻が電話を切ってくれたので、俺はトイレに駆け込んだ。

 ガンだと伝えた瞬間、やっと自分の病気を理解した。

 生まれてくることが人生のスタートなら、死ぬことが人生のゴール。

 四十前の俺。小学生の娘がいる俺。人生のゴールはまだまだ先だと思っていたのに、いきなりゴールを突きつけられた。


 怖い。

 日頃の不摂生を懺悔しても、病名は覆らない。

 もっと長生きできると思っていたのに、妻と子どもを残していく恐怖が涙となって、いつまでも止まらなかった。


 それでも検査入院がはじまって、精密検査が続く。

 病院では看護師さんがとてもやさしかった。

 田舎の父さんや兄さんも見舞いに来てくれて、毎日がにぎやかだった。

 ただ、数年前に同じガンを経験した母さんが「私のせいで」と泣いて大変だった。

 遺伝を疑って、自分の子でなければガンにならなかったと。


「母さんの子じゃなかったら、俺、この世にいないし」


 笑い話にしてすませたが、家族も俺以上に複雑な想いを抱いてガンと向きあっていた。

 元気にならないと申し訳ない。

 そのような心構えで闘病生活をはじめたのに、人生のゴールはいとも簡単にやってくる。


 抗がん剤があわずに死にかけた。

 突然、目の前がフッと暗くなって周囲の音が小さくなっていく。

 手足は動かない。声も出せない。

 ただ静かに落ちていく感覚。


「ここまでか」

「まだ終わってませんよ」


 妻の声が耳に飛びこんでくると、指先に温かさを感じて目が開いた。

 俺はまだ生きていたが、二日ほど昏睡状態だったらしい。


「心配かけたな」

「めちゃくちゃ心配したわよ。でもね、お医者さんがここの点滴を指差して『大丈夫です』って言ってくれたの」


 妻が指を差す方向に、点滴スタンドがたくさん並んでいた。


「最大、二桁の点滴が取り付け可能だけど、今は四つでしょう。ここの点滴の数が少なければ少ないほど、大丈夫な証拠だって言ってたの」

「へぇ」


 ホッとすると体のあちこちに痛みが走るから、俺は目を閉じた。

 もうダメだと思ったのに、生きている。

 そういえば昔にも死にかけたことがあった。


 一度目は小学生のころ、道路を飛び出すと車が迫ってきた。

 足がすくんで動けなくなったのに「走れッ!」と、どこからか大声が飛んできて難を逃れた。


 二度目は社会人になってから。

 自転車通勤の途中、石にぶつかって俺の体は宙に浮いた。そのまま地面にたたきつけられて、真横に自転車が落ちてきた。

 運が悪ければ、自転車に頭を潰されていた。


 生きているとチラチラ見える、人生のゴール。

 死後の世界はあるのだろうか。

 そういえば、葬式に行って死者を見たことがある。たくさんの花に囲まれて眠っているようだった。

 安らかに、とても美しく。


 死ぬと眠るは似ているのかもしれない。

 幽体離脱や、謎めいた世界へ足を踏み入れた臨死体験などは脳の働きによるもので、おそらく死後の世界なんてない。

 眠ってしまうような感覚で、フッと意識がなくなる。

 そのまま目が開かないから、本人は死んだということも知らないまま、人生のゴールをくぐる。そのような気がした。


 人は必ず死ぬから痛みも苦しみもなく、眠るように死ぬ。これが一番良い死に方なんだろう。

 でも俺はまだ死にたくない。

 明日も、明後日も、この先もずっと生きていたい。

 人生のゴールはまだまだ先が良い。

 

 

 

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