徒狂走

λμ

時速千八百キロの衝撃

 コロナウィルス感染拡大に伴う入場制限によって、会場となる東京・新国立競技場の観客席はまばらだった。

 しかし、無数のカメラの向こうには、おうち時間を使って注視する人々がいる。なかには猫やゴキブリと格闘しながら見てる人間がいるかもと思うと頬が緩んだ。

 今日という日のために特設された、人体強化魔法の衝撃に対応する百メートルコースのスタート地点に立ち、カケルはメインヴィジョンに映る現・世界記録保持者の映像を睨んだ。

 駆け抜け、悠々と足の回転を緩める幼さが強く残る少年。汗まみれで、屈託ない笑顔を取材陣に向けている。

 

「人体強化魔法を利用した百メートル走の世界記録は、遡ること十二年前に生まれました」


 会場を盛り上げるべく用意された実況の、煽り立てる声が、場内に反響する。


「そのタイムは、百メートル、〇.二秒。時速に変換すれば千八百キロ、音速の壁の遥かむこう、マッハ一.五という狂気の世界! 打ち立てたのは当時まだ十歳だったカナダの少年、リーアム君でした!」


 会場を満たす、どこか気の抜けた感嘆の息。カケルは内心で、まあそういう反応になるよな、と自嘲気味に笑う。

 人体強化魔法が実用化されてすぐ、あらゆるスポーツは魔法使用の有無を基準にふたつに分かれた。魔法技術は恐るべき進化をみせ、旧来の人智を超えた戦いに人々は熱狂したが、しかし、過激化する競争に死傷者が跡を絶たず、ほどなくして規制が入り下火になった。消え去ったといってもいい。スポーツは人体のみに依存した健全な形に戻り、人体強化魔法を駆使した競争は暴走の領域へと突入していく。

 そのひとつが、百メートル走だ。


「人類の、百メートルという距離に対する飽くなき探究は、今日、新たな領域に到達するかもしれません!」


 ? 実況の声に、カケルは笑った。取り巻きのカメラが一斉にフラッシュを焚いた。会場が控えめにどよめく。

 差し向けられるマイクを無視して百メートル先を見据える。

 直観があった。

 ――いける、と。

 必要なのは勇気だけだ。

 いや、勇気と比べるまでもなく野蛮なその発想は、


 狂気という。

 

 人体強化魔法を用いた百メートル走の世界記録保持者は、最初期の記録を除外すればすべて若年が占める。いわゆる子どもだ。それも小柄な子ども。なぜか。

 体重が軽く、表面積が小さく、骨が柔軟だからだ。

 人体強化魔法は体格や筋肉量の差を誤差へと仕切り直した。魔法への耐性もあらゆる方法で越えられるようになった。

 百メートルのタイムを競おうというとき、目に見える敵は空気だけなのだ。

 積み込めるだけの魔法を積み込んで、スタートと同時に爆発させる。その瞬間、空気の壁に衝突する。百メートルの間に加速を終えるとは、つまり、ゴール前では時速千八百キロを超えていることを意味する。


「あらためてご覧ください! これが現王者の走りです!」


 メインヴィジョンに少年が映る。スタートと同時にカメラが揺れ、少年の躰が真っ白い壁に包まれ、ゴールランプが点灯する。スーパースローモーションカメラを通してようやく視認できる音速の世界。少年の躰が骨格レベルでたわみながら空気の壁と擦れ合い、突起という突起から白い帯を引いて進む。 

 会場に来た人々の大半は知らない。カメラ越しに見ている人々も分からない。実況ですらどういうことか理解しないまま煽りつづけている。

 だが、カケルは知っている。

 子どものからだだから、〇.二秒で走り終えられるのだ。

 身長百七十センチに迫ろうかという元・一般陸上競技者の成人男性が、世界記録を打ち立てるには、躰を壊すしかない。

 出資者のほぼすべてが、スポーツで、エンタメで、感動モノを期待している。

 しかし、企画の意図を理解する者たちは、それが狂気のホラーだと知っていた。

 企画の立案者であるカケルは、一般の陸上競技では成果を残せなかった。前を行く誰かの背中を見てきた。追うのは飽きた。何もかもすべて置き去りにしたかった。

 人体強化魔法は、彼にとって誰よりも前に行ける最後のチャンスだった。


「いよいよですね」


 企画の協力者でスポーツライターの女が、出資企業のひとつが用意した新商品、A四の羊皮紙ノートを手に話しかけてきた。傍らには、やはり出資者が用意した青白水着のコンパニオン――人型スマートフォンという設定の女もいた。


「みんなは分かってくれないかもしれません。でも、忘れないでください。私の読者も、もちろん私も、みんなカケルさんの仲間ですからね」

「……読者も仲間もいないころから書き続けてきましたもんね」

 

 ライターが苦笑し、コンパニオンの女が「チーズ」と言いつつウィンクした。

 

「……二十一回目の正直、ですね」

「どれだけ挑戦するんだって話ですよね」

「挑戦は尊いものです。分かってたってやってやる。そういうものです」

「学生時代の友だちもそんなこと言ってました」

「おや。まだ聞いてない話ですね」

「友だちというか、友だちの彼女で……まあ、終わったら話しますよ」

「期待してます」


 カケルは苦笑しながら頷いた。廿一里塚にじゅういちりづかなどという小さな村に生まれて、すぐに東京に出て、負けても負けても走り続けて、今がある。

 最後に怪我をしたときは、友人と一緒に記憶がなくなるまで酒を飲んだ。陸上競技は無理だろうといわれたときは、本気で死のうとしていた。

 カケルはスタート地点で、ふと思う

 もし記録を更新できたりしたら、ネットを彷徨っているときに見つけたバーチャル地蔵菩薩とやらに救われた話も、記事になってしまうのだろうか。

 これから死ぬかもしれないというのに、変なことにばかり気が回る。

 苦笑する。

 前を向く。


「……いくぞ」


 決意を音にし、クラウチングで構える。

 人体強化の魔法を詠唱し、壊れかけの躰に積み込んでいく。見た目は何も変わらないが人間性が失われていくのを感じる。これまでは魔法の使い方も積み方も子どもの躰を基準に最適化されていた。カケルの躰で最適化するように組み替えつづけること二十回。すでに理論的に達成できることは知っていた。

 いける。

 やる。

 なにかもぶち壊してでも、全てを置き去りにしてでも前に行く。

 人体強化魔法を用いたタイムアタック。スタートを告げる合図はない。覚悟を決めた瞬間が計測開始点となる。

 カケルは深く息を吸い込み、止め、ゴールを睨んだ。

 トリガーとなる呪文を唱えた。

 瞬間、カケルは眼球が空気圧に歪む感覚に耐えた。肌が波打ち引き裂かれてしまいそうな衝波。最初の一歩で音が消えた。視界が真っ白になった。水中に撃ち込まれた弾丸と同じだ。空気の壁に筋肉を捻られる。足を前へ振りだすと膝関節が軋んだ。積んできた魔法の第二トリガーが近づく。


「           」


 開いた口に大量の空気が流入し、肋骨と胸筋が断末魔の悲鳴を上げる。詠唱。大地を蹴った瞬間、左の足首がひしゃげて壊れた。痛みを感じる時間すら置き去りにして躰が前へ進む。構わない。すべてを振り切り捨てていく。

 スタートから百メートルまでを、三歩で進む。

 もはや飛んでいるのと変わらない。

 狂気のソロフライト。

 光の線となって待ち受けるゴールライン。

 

 

「                !!」


 溢れる脳内麻薬がカケルを絶叫へ誘う。

 絶望と栄光のソロランディングが待っている。苦しみも悲しみもカケルに絡みつこうとするすべてのものも振り払い、右足を犠牲に大地を蹴った。肉が潰れる。骨が砕け散った。躰がさらに加速する。 

 カケルは笑いながら進む。ゴールへ飛び込む。

 笑んだ。

 受け身も取れず大地をえぐり肉を削り取られながら転がる。ぐしゃぐしゃになりながら、電光掲示板に燦然さんぜんと輝く数字を見る。


 〇.一九九八


 理論と同値。

 熱狂の最果てへ、ようこそ。

 カケルは右腕を天に突き上げた。肘から先が逆側に曲がり、振り子のように揺れた。

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徒狂走 λμ @ramdomyu

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