ソロモン迷宮

管野月子

タダより高価な物はない。

 細い路地の左右に、溢れるほどの品物が並んでいる。

 編み篭、陶器や金物。革製品に陽射しに輝くランタン。色鮮やかな絨毯やラグの隣には、山と積まれた果物がむせ返る程の芳香を放っている。複雑に絡み合った迷宮のような市場にひしめく、途方もない数の店と人。

 ヨーロッパとアジアを繋ぐ、歴史深い街――イスタンブール。


 木箱に腰を下ろした敬一けいいちは、流れゆく人を興味深げに眺めていた。


 国を出て早三週間。この街で過ごすのもあと数日、と思いつつ市場を眺めていると、向かいの店の端に立つ一人の少女が目に止まった。


 ずっと同じような場所で立ち尽くし、道行く人を探すようにしている。

 身なりは……色あせたシャツに綿のパンツ。年は十代初め頃に見える。小麦色の肌に明るい栗色の髪。瞳はヘーゼル。彫りの深いヨーロッパの血が濃い印象だ。

 表情を隠す様に、紺地に赤い花を散らせた、地味な色合いのスカーフを被っている。

 国民の大半がイスラム教徒であるトルコでは、頭からかスカーフを被る女性が多い。けれど店の端に立つ少女のそれは、きっちりとしたかぶり方ではない。

 宗教的意味合いより、暑い日差しを避けるための物だろうか。


 最初は誰かを待っているのかと思った。

 平日の昼間。トルコの学生の夏休みは詳しく知らないが、友達と待ち合わせをしてこれから買い物でも楽しむ――いや、その割には表情が険しい。

 道行く人のを視線で追っていても、同年代の子供、というよりは裕福そうな身なりの大人、それも旅行者と思われる者ばかり視線で追っている。


 敬一は少女を眺めながら、「これは」と口もとを歪めて、伸びかけた髭のあごをさすった。

 たぶんあの少女は「カモ」を探している。

 旅行者を狙った詐欺は多く、ホテルに在中していたガイドも再三注意を呼び掛けていた。もちろん、スリの被害も日本とは比べものにならない。

 そこまで観察していた目の前で、少女は突然飛び出した。


 人込みに紛れすれ違う若い旅行者に軽くぶつかる。手元には、直前まで旅行者が持っていた財布が見えた。考える前に敬一は立ち上がる。少女を追う。


 頭のどこかで、やめろ、余計なことはするな、と警告する自分がいる。いるというのに、そのまま少女の腕を取っていた。

 振り向く。

 大きなヘーゼルの瞳が、驚きに見開かれ、次の瞬間には自分の失敗を悟ったようだ。恐怖に血の気が引いていく。敬一は少女が手にした財布を取ると、まだ人込みで足止めされていた旅行者を呼び止めた。

 二十代半ばか終わり頃の、なかなかセクシーな金髪美女。

 驚いた顔で受け取った旅行者は、直ぐに中身を確認してお金もカードも無事なのを見ると、笑顔で礼を言って立ち去って行った。

 問題は、まだ腕を掴んだままの少女。


 ここは一言、「もうやめとけ」と言って終わりでしたいのだが――英語は通じるだろうか。トルコ語か、ギリシャ語……アルメニア語? と迷う内に年老いた男の声がした。


「セレン!」


 少女がびくり、と肩を震わせた。

 その拍子に掴んでいた手が緩んで駆けだした少女は、人込みに紛れて逃げて行く。


「孫が何かやらかしましたかな?」


 英語で話しかけてきたのは、敬一を旅行者と見てのことだろう。

 少女の知り合いらしい老人に、軽く「もう、大丈夫」と答える。事情を知らない者が見れば、いきなり女の子の手を掴む敬一の方が不審者として捕まえられてもおかしくない。

 こちらに非は無いとアピールするように手を開き、軽く訊き返した。


「お孫さんなんですか?」

「あぁ……ちょっと親が身勝手でね。ああやって、時々旅行者に悪さをしては憂さ晴らしする」


 見かけはこの市場の路地で細々と土産物でも売っている親父のように見えるが、敬一よりずっと流暢りゅうちょうな英語で返す。若い頃は英語圏で暮らしていたか、英語を使う仕事に従事していたのだろう。


 見れば質素な身なりながら、くたびれた様子は無いし靴が綺麗だ。先ほどの少女の身内とは思えない。となると、何やら複雑な事情が垣間見えるようで、敬一はそっとため息をついた。

 これ以上は、一旅行者の外国人にはどうしようもない。


「盗った財布は無事持ち主に返しました。注意してあげてください」


 そう言って、軽く会釈をして立ち去ろうとした腕を、老人が掴んだ。

 枯れ枝のようでありなが思うより強い。右手の指に嵌められたゴツイ指輪が西日に光る。


「あんた、ここずっと町の人を眺めている旅行者だろ? 日本人かね?」

「そうですよ」


 敬一の身なりか仕草かイントネーションで判断したのだろうか。別段隠すことではないから、素直に答える。


「あんたみたいな若者がいれば、あの子もよくなるだろうて」

「えぇ……っと」

「お礼だ」


 そう言って、老人ははめていた指輪を外し敬一の手に握らせた。

 宝石を飾った物ではなく、何やら文字とも絵ともつかな図柄が刻まれた印章だ。高価な物なのかどうかは分からないが、年代物なのはリングの擦り切れ具合や、大きさの割に重く感じる様子で知れた。


 さすがにこんな物を貰うほどのことではない。

 それに、タダより高価な物はない。

 咄嗟に返そうとする、敬一の手を老人は押し返した。


「お金や命を取ろうというものじゃない。貴方に素晴らしい出会いをもたらす、魔法の指輪だ」


 そう言って印章を持つ敬一の手を握ると、市場の店主たちに挨拶しながら、ふらりと道の向こうへ姿を消していった。市場の店主たちの顔見知り、ということはこの辺りで仕事をしている人なのだろう。


「お礼……か」


 現地の人たちと、特別親しくなろうと思って過ごしていたわけではない。あくまで自分は観察者で、目の前の人々とは無関係な人間でいたいと。そういうスタンスでいたはずなのに、思わず自分らしからぬ行動をしてしまった。


「……この街にも、長居しすぎたかな」


 これ以上この街に居たなら帰れなくなりそうな、そんな予感に敬一は帰国を決めた。


     ◆


 夜も更けて、ホテルのベッドに座りながら帰国の準備進める中、ふと、市場で貰った指輪を思い出した。


 金ではない。おそらく真鍮や鉄でできている、鈍い金色の輝き。かなりゴツイ造りのシンプルな指輪である。通常、宝石などが飾られる石座の部分が丸く平たく、封蝋にも使われる印章なのだろう。

 外周に六等分で「H、B、E、L、E、T」とある。どちらが上か分からないので、読みの順は不明だ。中心部分は子供のいたずら書きのような線状の図柄が彫られ、部分的に十字架やハートの模様のようにも見えなくない。


「魔法の指輪……ねぇ」


 指輪、魔法、印章とタブレットで検索してみると、似たような模様を刻んだ指輪が出てきた。

 旧約聖書に出て来る古代イスラエルの王にして、多くの天使や悪魔を使役したという人物。大天使ミカエルから賜った、魔法の指輪。


「――ソロモン」


 呟いて、なんとは無しに指へはめてみる。

 ポケットの中に入れたままにしていたというのに、ひやりと冷たい。

 老人は「素晴らしい出会いをもたらす」と言っていた。

 日本に戻れば、またバイトと大学を行き来するだけで、友人も多くはないし彼女がいるわけでもない。恋人に関しては要らないわけではないにしても、きっと彼女を放って一人旅に出るだろう自分の性格を考えると、今すぐ付き合いを始めよう、という気にはならないかった。


「では、恋人はいらないというのですか?」


 不意に耳の近くで声を掛けられ、敬一はベッドから飛び跳ねた。

 誰も居ない部屋。

 幻聴にしては、はっきりとした声に心臓が音を立てる。


「疲れて、いるのか……?」


 変な物を飲み食いした記憶は無い。

 独り言のように呟いて、再び、ベッドに座り直そうとしたその時、背後に気配を感じた。息を詰め、ゆっくりと振り向く。鈍い部屋の明かりの下、影が集まるようにしてよらりと動く、そこに立っていた人の姿を目にした時、悲鳴を上げなかっただけいいと敬一は思う。

 実際には、驚きのあまり声も出なかっただけなのだが。


「我が召喚者の命により、お迎えに参りました」


 しっかりした発音の日本語の大柄な金髪美女。彫りの深い白い肌。この顔は夕方、少女に財布をすられた旅行者だ。

 そんな人が、なぜここに。


「何故ここに? その指輪を受け取ったのですら、我が召喚者が興味を持った者……ということでございます」


 心を読んだかのように答えられ、右手に嵌めていた指輪を見た。


「お前は……」

「私はソロモン七十二柱のひとつ、地獄の大王――ベレト」

「まさか、悪魔か?」

「そう呼ぶ者もいる。召喚者は愛する孫のため、将来の相手に良いと思われる者を探しております。貴方は目を付けられた」


 尊大な態度で、悪魔ベレトは答えた。召喚者とは――市場で会ったあの爺さんだ。

 お金や命を取ろうというものじゃないと言っていたが、とんでもない。


「孫……って、あのスリをした少女だろ? まだ十代の始めぐらいに見えたが……」

「ええ、今年十四です」


 十も年下ではないか。国は違えど、未成年相手じゃさすがに犯罪になる。


「俺には若すぎる。他を当たって下さい」

「その指輪を受け取った時点で決定事項です」

「なっ!?」


 思わず外して突き返そうと、したが、指輪が抜けない。


「五年も経たず大人になります」

「俺は外国人だ。不法に長期滞在はできないのだから、この国の人を探してくれ」

「決定事項です」


 問答無用だ。

 あまりに現実離れをしすぎて、自称悪魔を前にしても酷く冷静でいる自分がいる。

 敬一は既に荷造りを終えていたバックパックを手に取り、そろりと距離を取った。

 忽然と現れる悪魔を名乗る者から逃げ出せるかどうか……など分からないが、朝までこの部屋にいる気にはなれない。


「金や命は取らないんだろ?」

「ええ、取りません」


 悪魔の言葉を前に、後ろ手でドアを開けた。

 その向こうは、ホテルの廊下では無く、どこと知れない街の路地。いや、迷宮のように入り組んだ、街の市場だ。


「頂くのは、貴方の一生という時間――」


 悪魔にできないことは無い。

 やっぱりタダで物を貰うのは、止めておけばよかったようだ。






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ソロモン迷宮 管野月子 @tsukiko528

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