ひとりぼっちラーメン

千羽稲穂

ラーメン、大好き

 震える手で、『ラーメン(並)』の食券ボタンを押した。

 今日、初めて一人でラーメンを食べる。

 以前は大学の友人とともにラーメンを食べに来ていた。大学の近くには数多くのラーメン店があり、大学の授業がない空きコマには、「いく?」「ん」と言葉少なな掛け声で来ていた。たったそれだけの言葉で通じ合う関係というものは、社会人になってから初めてどれほど大事なものだったのかわかる。気づいたときには遅く。就職して、上京して。友達とも、いやそれ以前に誰とも食事を共にすることはなくなっていた。

 職場は友達をつくる場所でもないし、仕事以外の話は億劫で、気安く趣味の話なんかするのも面倒くさく、私は簡単に万里の長城あたりの小さくも大きくもなく、長い壁をつくって、ひとりでご飯を食べるようになっていた。加えてこのコロナ渦だ。友達に気軽に声をかけるなんてことはできない。

 だから今日のラーメンは、ある意味、初めてのラーメンだ。

 食券を握りしめて、カウンターでわたす。ラーメン屋の店主は、頭にタオルを巻いてはいたが、エプロンをシックな黒で決めていた。店内はログハウス調で、明かりは橙の灯火を使い雰囲気をおしゃれに。見渡せば、私のような女性客は多かった。そう、決め打ちしてきたのだから当然だが、大学生の頃のガテン系、家系ラーメンの店が懐かしくなる。友達となら、どこだって行けたのに、さすがに今女性一人でラーメンを食べるのは、世間体から見たら、痛々しく感じてしまう。

 私は、女性。ひとりでラーメンを食べる。

 なんどか胸にとめたプロフィールを復唱する。

 もう、社会人になってしまった。オフィスカジュアルを着こなし、ラーメン店の暖簾をくぐる。鼻先をくすぶるあぶらっこいラーメンの匂いが目に染みた。年齢と、姿と、食べるものは気にするようになったし、もう若くないのだと大学の後輩とのLINEで直に刻む。ラーメンは、二十代後半の女性には重い部類なのだ。職場で同僚の女性がささやいた、メンチカツ重くないですか、という言葉が心を重くする。甘く辛い香りで自身の罪悪感でいっぱいの気持ちを隠した。

「ラーメン並み一丁」と、弱弱しい店主の掛け声が店内に響く。本当はそこにメンマ多め、油少な目、面太目、野菜多めと大学の頃にしていた自家製ラーメンにしたいのにな。なんて、皮肉じみた笑いを浮かべてしまう。

 あの頃、ラーメンが出来上がるまでの時間は、退屈ではなかった。おなかもすいていたし、隣に友達もいた。彼は、立派な友達だった。男友達で、気が合いよく話もして、大学でもなんで付き合っていないの、と言われるほどの仲だった。言葉もいらない。何か発すれば、何でも分かった。彼に彼女ができたときも、留年したときも、ちょっと距離ができた理由も、ラーメンを食べるときも。

 今は、彼の声が聞こえない。ただ目の前のラーメンが出来上がるさまを見つめるだけ。ラーメンは、湯切りされる。上から下へ振り下ろされ、汗を絞るように、麺が切られていく。じっくり煮込まれたスープを白い大きなどんぶりに入れられて、湯をつがれる。ちゃきっという湯切りの音、ラーメン店の中のささやかな笑い声と麺をすする音。彼がいなかったらこんなに周囲は騒がしかったんだ。

「はい、ラーメンの並み一丁」

 手前に出されたラーメンは湯気が立っていた。もわっと霧がさえぎり、目を思わずつぶる。襲い来る鰹節の香り。魚ベースの体に優しいものしか入ってなさそうな、健康的なラーメン。霧が晴れると、黄金色のきらめいたスープに艶めいた細麺がどっぷりとどんぶりに浸かっているラーメン(並)が差し出されている。添えられたメンマは規則正しく並んでいる。メンマとお供に添えられた半切りの卵は部屋の隅で丸まった猫のよう。ほうれん草が緑を映えさせて、全体的な彩を引き締める。真ん中に謙虚に居座るチャーシューは、脂身少なめだ。量もちょうどいい。今の私の胃でもきちんと消化できそうだ。

 さっそく、レンゲを装備してスープをすくう。均整の取れた、神聖な池からすこしばかりの盗みを行う。この瞬間は、高揚感と完璧さを崩す一握りの罪悪感がある。ちょびっと舌がスープに触れる。ごくっと、奥に流し込む。食道に至ったとき、魚の暴力的な味覚が遅れて現れる。続いて、割り箸を割り、麺を勢いよくずずずずっと吸った。鰹のスープが麺に絡み、香りごと吸っているかのようだった。細麺は艶めき立ち、口の中に吸われていく。脂っこくなく癖のない、まっすぐな魚のラーメンだった。麺は喉にも絡まない。純粋さをはらみ、さらさらっと流し込める。次から次へと麺をすくってしまう。ずずずずっと、音を立てて流し込む。そのたびに絹のようなきらめきを麺は散らせる。

「ラーメン一丁」とカウンターの奥のほうで掛け声が上がる。

 麺の次は、ほうれん草に。彩を奪う。魚の甘味とほうれん草の苦みがマッチングしているうえに、ちゃきっと新鮮な触感が口の中で奇妙なシンフォニーを歌う。これを食べつつ、スープを口に入れると、今度はほうれん草の苦みがふつふつと上がってきて、スープの甘みが強くなる。それなのに、お互いを邪魔しない。

「はい、お待ち」と瞬時につくりあげられるラーメン。

 お次は大好きなメンマ。これは単体でいただく。口に丁寧に放り込む。メンマの筋を丁寧に歯で踏みしめて、ほろほろになるまで噛む。このメンマの触感が好きだった。この至高の瞬間をたどり続けたい。メンマがなくなると、今度はスープ。麺と同じように道を歩む。震えていた心は、味覚がうまみで埋め尽くされたために、痺れていた。熱を持ち、一心不乱に目の前のラーメンの攻略を試みている。

 こんな瞬間、普段の生活から考えられない。だからこそ、誰かと共有したかった。ひとりぼっちでラーメンを食べにくるなんてしたくなかった。彼が隣にいるようで、ラーメンがしょっぱくなってしまう。今にもずずずっと吸っている横で、彼の言葉が唐突に聞こえてきそうになる。あの日、あの時の、あの台詞、

「なあ、明日ドライブいかね」

 たったそれだけで、私はわかってしまった。なんでもわかっているからこそ、気づくのも早くて。それまでふたりっきりの空間にいることがなかったのに、そんなこというなんて、きっとそうなんだ。私だからこそ、なのかもしれない。ああ、そういう目線で見てしまっていたんだ。私は彼にとって、友達ではなく女なんだ。

 男女の友情なんてない、と聞く。実際どうなんだろうか。私は少なくとも彼と対等であったし、彼も私をそれ以上でもそれ以下でも見ていなかった。ご飯を共有して楽しいね、おいしいね、と言い合うだけでよかったのに。彼だけは、周囲の奇異な目を押しのけてでも、友達としていたかったのに。彼だけは。

「なにそれ」

 油目多めのラーメンをぞぞぞぞっと一気に吸ってしまう。重くるしい油が喉にのしかかる。舌が受け付けない。もう重い。しんどい。音を上げる体に鞭をうつラーメンだった。

「俺このあいだ免許とったんだ」

 へぇ、ふーん、と私はなんだかんだ避けて、返事をしなかった。麺をたいらげて、どんぶりの中の余った油しかないつゆですら、彼の言葉を避ける理由につけいるものにする。油を飲み、体が燃えるように熱くなる。ガソリンを浴びて、焼身自殺する一歩手前。踏みとどまり、彼の真摯な告白に震える。気持ちが悪い。そんな目線で見ていなかったのに。あんなに大好きだったラーメンの味がしない。おいしいと思えない。

「だからさ……」

 ごめんね、私その日用事があって。

「だから……」

 ごめんね、ラーメン、また食べて普通に言葉だけかわしたい。その先の告白も、私のことを好きって感情も、ラーメンの中に押し込めてほしい。

 彼の感情を無下にしてまで食べるラーメンの味は最悪だった。距離ができるのは必然で、それから彼のLINEはどうにも返す気にならなかった。男って所詮は下半身の生き物なんだろうな、と踏ん切りをつけて、ブロックできたらよかったけど、一世一代の告白をする前の彼に同情する気持ちもあって。それとなく、ふーん、そうなんだ、ごめんね、と気のない返事だけした。それから距離をとって、ラーメンも誰とも食べに行くこともなくなった。就職して、ひとりぼっちになって、ふとラーメンを食べたくなった。しょっぱくなるだろうなって気もしていた。

 でも、ラーメンは、おいしい。体に悪そうな炭水化物を摂取しているときは、私に罰を与えているようで、まだ気が楽だ。魚ベースだとは事前に調べていて知っていたけど、新感覚で透き通るようなまっすぐな味で満足だった。

 からっぽになったどんぶりに、手を合わせる。

「ありがとうございました」

 おいしかったです、彼とともに食べたラーメンの記憶も、このラーメン自体も。

 私はせっせと帰る準備をして、カウンター席を立つ。後ろ髪をひくような気分になる。もうおなかいっぱいなのに、もう一杯食べたくなるのは、この店の特性だろう。もう一杯、彼と食べたかったのも、私の本心だ。きれいなラーメンのお鉢を見つめて、すっげー、すごーい、と二人で言い合ったのも、いい思い出だった。もう会うことはないし、会う気もおきない。そういうことだ。

 ラーメン店から出て、しょっぱさに目頭が熱くなった。じんじんにじむラーメンのおいしさに、怒りがわく。どうしてこんなにおいしかったんだろうか。彼がいなくても、こんなにおいしいのはずるくて仕方なかった。澄み切った冬空に、はぁと体にまとわるついたラーメンの匂いを吐き出す。

 ひとりぼっちのラーメンは、思いのほか悪くなかった。

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