ソロリ、ソロリ。

ナナシマイ

第1話

 深夜0.5時。終電を諦めた人間達で賑わう繁華街に、その男はいた。

 男はジーパンにトレーナーというシンプルな出で立ちで、浮かれたネオンサインの下をしっかりとした足取りで歩いている。慣れた道なのか、迷うことなく進むその姿は、この景色の中では寧ろ浮いて見えた。


 ふと、男は何かに気が付いたように立ち止まる。キョロキョロと視線をさ迷わせると、一つ頷き、ビルとビルの隙間を凝視した。


(あそこか……)


 じぃっと一点を見つめる様子は、どこか危うさを感じさせるが、ここにはそれをおかしいと思う人間はいない。誰もがおかしくて、誰もが普通なのだ。

 男は意を決したようにビルの間に身体を滑り込ませる。フッと暗くなった視界に目を慣れさせるためか、彼は眉間をぐりぐりと指で押した。


 そこは、汚い場所だった。営業を終えた飲食店が出したであろうゴミが乱雑に積まれ、悪臭を放っている。この暗がりでは見えないが、毎日の積み重ねで壁や地面は変色していることだろう。

 男はそれを気にした様子もなく進んでいく。途中で、ゴミの山から転げ落ちてきたプラスチックの容器を、軽く蹴飛ばして端に除ける。それもまた、慣れた動作だった。


 やがて、別の路地から繋がった道と交差する場所に出る。その横に置かれた室外機の上に、少女が座っていた。


「よぉ」


 男が声を掛けると、その少女はちら、と視線だけを上げた。そしてすぐにそれを戻す。

 無視されたことには構わず、彼は口の端を持ち上げて小さく笑った。そして、ジーパンの尻ポケットから350ミリリットルの缶チューハイを抜き取る。尻ポケットは、そこに缶を入れるのが当たり前だという風によれていた。


 プシュッ。


 安月給のサラリーマンが羨むような音をたてて、プルタブを開けると、そのままそれを飲み出す男。意味が分からないと思ったのか、いつの間にか少女が視線を上げてその様子を見ていた。


「これは俺のだぞ」

「ッ! ……何しに来たの」


 しまった、という風に顔を歪め、彼女は呟くようにそう尋ねた。男は心外そうに眉を顰める。


「見れば分かるだろ? 酒を飲みに来たんだよ」

「何で、ここで、って聞いてるの。用がないなら、邪魔だからどっか行って」

「用はあるさ。俺はここが良かったんだから。そう言うお前こそ、ここじゃなきゃいけない理由があるのか?」

「……」


 黙り込んだ少女を、男は鼻で笑う。少しだけ中身の減った缶を指で弾くと、タン、と鈍い音がした。


「それとも、何だ。時間外労働でもしたいのか?」

「……サイテー」


 下卑た笑顔を作る男に、少女は嫌悪感を隠さずそう吐き捨てる。そのまま沈黙が降りるかと思われたが、彼女はこう続けた。


「それじゃあ、何? 金でも強請りにきた?」

「はっ、金が無いように見えるか?」

「……見える」


 まぁそうだよな、と男は自嘲気味に笑った。それから、少女が座っているものとは恐らく別の店の、室外機に腰を下ろした。

 チューハイに口を付けると向けられる視線が強くなることを感じて、彼は溜め息をついた。


「だから、これは俺のだ。欲しいなら自分で買って来いよ」

「そういうところが、スリに見えるの」

「脅したって、無駄だぞ。俺は権力なんかに屈しない」

「はぁ? 何言ってんの、脅してきたのはそっちでしょ」

「……? いや、そんなことした覚えはないな」


 今度こそ、沈黙が降りた。すぐ表にあるはずの喧騒はどこか遠くの世界のようで、ここには微かなざわめきしか届かない。

 男がチューハイを飲み干すまで、それは続いた。空になった缶を潰しながら、彼は立ち上がる。


「じゃあな」

「え……?」


 来た時と同じように、いきなり立ち去ろうとする男に、少女は戸惑いを隠せないようだった。

 それを見て、男は満足げに笑った。


(何、あれ……)


 少女はしばらくの間、男が去っていた路地を見つめていた。それから、最初にここに座った時と同じように視線を落とす。

 彼女は結局、朝が来るまでその場を動かなかった。


 その夜、眠らない街の一人の少女から「ひとりの時間」が少し、盗まれた。

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