第10話

 それは小此木理沙さんが学校に来なくなる前日のことで、実際に何があったのかを知っているひとは小此木さんだけだ。佐久間ゆりさんはおおむねの経緯を知っているはずだけど、本当の意味で何が起こったのかというのは、それは小此木さんのこころのなかでのことなので、そういう話をするのなら、それは誰にも分からないことなのだともいえる。つまり、小此木理沙さんの初恋について語るのなら、それは彼女自身が語ったときに彼女自身が自分の言葉を聞くことで自分の心を見つめ直すという意味で再び理解されるものなのであって、たとえ小此木さんから直接話を聞こうが、その一目ぼれの現場に居合わせようが、それはなんの武器にも理由にもならない些細な事実に過ぎないのかもしれない。


 小此木理沙さん、佐久間ゆりさん、吉川真帆さんの三人は同じ文芸部に所属していて、仲のいいグループだったとされる。秋の始まりのことである。小此木さんのアカウントで応募したとある声優アイドルグループの全国ライブのチケットが三人分、当選する。彼らの出演するアニメを通じて仲良くなった彼女たちは、友情やその結束の強さに深く結びついたかたちでそのアイドルグループのことを愛していたらしい。つまりはオタクというわけだ。彼女たちはそれぞれの親に頼み込み、会場までの旅費とチケット代を捻出させた。小此木理沙さんの母親である小此木妙子さんが、ライブ当日彼女たちを引率することに決まった。


 そして小此木理沙さんは、二人から預かったチケット代15000円に自分の分を合わせた32,500円をそっくり全額失う。コンビニ支払いのために向かったセブンイレブンまではあと五十メートルというところだった。大事そうに茶封筒を両手で抱えて歩く女の子は、田舎の不良にはどんなふうに見えるのだろう? そこでは昔ながらのやり方があって、チケット代は奪われた。失われた32,500円は確かに高額だったけど、実際に失われたものはお金には替えられないものだったのかもしれない。


 最終的に小此木さんからチケット代を奪い取った二人の高校生と一人の無職の男は逮捕される。示談の結果、被害者は彼らを訴えなかった。三人は奪った金をもとにパチンコで大勝ちしていた。慰謝料が支払われたが、それが経済的な圧迫になったとは言えない。加害者たちは初犯かつ未成年ということもあり、家庭裁判所から保護観察の処分を受ける。一般的な結果に落ち着く。よくある事件として片が付く。でも三人の女の子たちにとってはそうじゃない。ライブの抽選が当たったことは奇跡であり、そしてその奇跡をないがしろにしてしまったのは小此木さんだった。


 彼女は恐喝をうけて、自分のチケット代だけを残して、他二人の分を差し出した。結果三人分の金が奪われたわけだが、加害者たちはそのことを家庭裁判所で馬鹿正直に話したし、その話は佐久間ゆりさんと吉川真帆さんにも伝わった。慰謝料は三等分され、二人にも受け渡されたけど、とくに吉川真帆さんは、小此木理沙さんの裏切りを許すことはできなかった。チケット代の支払いは間に合わず、当選は取り消される。


 吉川真帆さんは明らかに態度を変えて小此木さんに接するようになる。小此木さんを孤立させるような誘導を文芸部の中で行うようになる。その残酷な仕打ちに、佐久間ゆりさんも気づいてはいたが、彼女にはなにもできなかった。なにより、小此木さんが二人を裏切ったことが、佐久間さんに何もさせないいい理由になってしまった。佐久間さんはそのことを後悔していると私に語った。後悔しているなら、まだ彼女なりにできることはあるのかもしれない。


 ある日、耐え切れなくなった小此木さんは吉川さんに改めて謝る。自分のせいでチケット代を振り込めなかったこと。そしてなにより、自分の分のお金だけでも確保しようとしたこと。その時には示談の話もかなり進んでいて、慰謝料の支払いも見込まれていたのに、吉川さんは小此木さんにお金を要求する。なぜそこでお金なのかは分からない。吉川さんにはなにか特別の理由でお金がいるのかもしれない。わからない。でもとにかく吉川真帆さんは小此木理沙さんに、詫びとしての金銭を要求した。この要求が満たされるのであれば、今回のライブの一件についてはすべてを忘れると、吉川さんが言う。


 小此木さんは藁にも縋る思いで、その要求を受け入れる。これまでのことが元通りになるのならなんでもしたい。そのくらいだったと言う。でも彼女は馬鹿だった。お金なんかで元に戻る関係なら、初めからそんな風にはなってないんだから。でも彼女はお金を手に入れるために、昔の楽しい三人に戻るために、をする。


 「昔からある」神社で、どんなふうにそこに建てられて、だれが管理しているのか分からない。そういう神社というのは日本にはいくらでもある。神様は必要とされることで生まれて、そして必要ではなくなったから忘れられていくのだ。と言ったのは誰でもないけど、小此木さんは手っ取り早くお金を手に入れる方法として、その小さな祠と賽銭箱しかない川沿いの稲荷神社に目をつける。そんなところにはもうだれも賽銭なんか入れないだろう、ということは彼女には思いつかない。とにかくお金がいる。どんなに悪いことをしたって私にはお金がいるんだと思って彼女は夜の神社に向かう。


 木製の小さな賽銭箱は雨や風に長年遊ばれたせいで、もう十分に腐っていて、ビニール傘を中に突っ込み、それをひねり倒すと、格子はてこの原理で破壊される。そのときの罪悪感なのだろうか。それとも抱え込んでいた悲しい気持ちや惨めな気持ちの全部だろうか。そういうものたちが〈彼〉を呼び寄せることになった。



***



 三人で神社に行く。もう夜の時間が始まっていて、わたしたちは寄り添うようにして何かを恐れながら歩く。浦野さんも何かを恐れている。こんなに大きなひとなのに。私も浦野さんもほとんどなにも話さないけど、佐久間さんは一人でしゃべり続けている。浦野さんはこういう田舎には珍しい外国人で、しかもちゃんと日本語通じるので彼女にとってはいい暇つぶしなのかもしれない。佐久間さんの掴みどころのない話題に、彼は「そうだね」とか「かもしれない」とか「それは素敵だね」とかてきとうに返事をしている。そういう上っ面のやりとりは、今から起きることから目をそらしているだけで、三人のうちで、これから誰がどこで何をするのか知っているのは浦野さんだけだった。


 川沿いの神社には街灯が届かない。真っ暗で私たちはそれぞれスマホのライトをオンにして足元を照らす。ぎらぎらと眩しい光だけど、眩しいだけで何の役にも立たない光。


「さっきも言ったけど、ここにはいないですよ。理沙は。私たちはもう見たんですから」


「見ただけで探してないんだ」


「はぁ?」佐久間さんがちょっとイラついた感じで返事をする。空気が悪い。浦野さんはまったくそんな風には思ってないみたいで、遠くをみたり足元をみたりして、ずっと考え事をしている素振りだ。この外人もしかして役に立たないんじゃないのかな?


「ここはすごく寒いね。それに寂しいところだね」浦野さんが言う。


「こんなところにずっと一人でいたんだろうか。小此木理沙さんはどうしてこんなところに来たんだろうね? ここに彼女を結びつける縁は?」


「それはだから、理沙が狐に憑かれて……」


「なんで彼女は狐に憑りつかれたんだろう?普通に暮らしていて狐に憑りつかれることはあるのかな?」


 浦野さんは佐久間さんに目線を合わせにかがむ。その青い目が佐久間さんの黒い瞳を釘付けにする。


「佐久間ゆりさん。深く呼吸をしましょう。冷たい空気はあなたの身体のなかで温められて、あなたの身体に取り込まれていきます。そしてあなたは温かい空気を吐き出します。あなたは少しずつこの空間を取り込んで自分を空間に排出します。そうしてあなたとこの場所の境目は、呼吸の分だけなくなっていきます。あなたにはそれを止めることができません」


 いや。と佐久間さんが小さく呟く。浦野さんの青い目は海の青さで、深さも海の深さだ。覗き込まれたら覗き返してしまう。そうしたら、そこはあまりに深くで、もう上って来れないほどの深さだと気づく。


「世界は僕が見ているのではなく、彼女が見ているのでもなく、あなただけがみているものです。あなたにしか見えないものこそが世界です。あなたには何が見えていますか?もうあなたには、見たくないものを見えないということはできないでしょう」


 佐久間さんが祠を指さす。示すのは祠ではなく、祠の裏。林を分けいくようにして、真っ赤な鳥居がいくつか並んでいる。


「嘘。こんなのなかったよ」私は言う。


「佐久間さんが彼女に会いたいと思ったから道ができたんだ。人間はどこにだって行けるけど、唯一行く気のない場所にだけはいけない。行きたいと思ってしまえば、行かなければいけないと思えば、あとは時間の問題です。彼らは月にだって行ったんだから」


 いや、そういう話じゃないでしょ。とは思うけど確かに鳥居は続いている。思いが道を開いた的な?そんなのありかよ。じゃあ私が何カ月もお化け屋敷巡りをして奏多くんを見つけられなかったのはなんなの?と思うけどとりあえず黙っておく。


 佐久間さんは土の地面の上にへたり込んでふにゃふにゃになっている。大丈夫?私が声をかけても返事なし。「どうするんですか?この子歩けない。もう」「仕方ない。僕がおぶっていくよ」「連れていく意味あるの?」「むしろ僕らが余計なくらいだよ。本当は彼女ひとりで行ってほしい」「わかりません」


 どっこいしょ、と浦野さんがまるで日本人みたいに彼女をおんぶした。


「私もおんぶしてほしいかもしれない」「この子はまだ子供だから」「私も子供ですけど」「君はもう大人だよ」「佐久間さんと私はひとつしか変わらないです」「歳は関係ない。君より長く生きていても子供のままでいる人間もいるさ」「わかんない」「人間はちょっとずつ大人になるんじゃない。ある日急に大人になるんだ。朝目覚めたときから、吸い込む空気の匂いと味が変わるんだ」「意味不明です。浦野さん」「よく言われるよ」「この子は今日これから大人になるかもしれない」「例えばどんなふうに?」


 浦野さんは答えてくれない。私たち三人は鳥居の奥へと向かう。


 歩く。鳥居のしたをくぐる。次の鳥居が見える。私たちはまたその下をくぐる。道の真ん中を歩く。私は思い出したように言う。


「浦野さん、鳥居は道の真ん中を通っちゃいけないんです。この道は神さまが通る場所だから、人間は歩いちゃいけないんです」


「そう?なら君は道の端っこを歩くといい。僕は真ん中を歩くよ。その辺の藪から変なものが出てきても嫌だし」


「変なものって?」


「鳩の死体とか、医療費の請求書とか、腐った食パンとか……。だいたい僕は神様なんて信じてない。僕は無神論者だから、日本の神社のルールに従う必要はないんだよ。狐の神様とか意味が分からない。なんで狐が神様になるんだ?」


「じゃあこの状況はどう考えるんですか?どう見ても異常ですよね?あるはずのない場所に道があって、現実とは思えない風景が続いてるんですよ。これが神様の仕業じゃなかったらなんなんですか?こんなものを見せられても、まだ神様はいないっていうんですか?」


「君は神社の家に生まれたの?僕が中学生のときもそういう話し方をするカトリックの女の子がいたよ。刺繍遊びと読書が好きな女の子だった。中学を卒業する直前に妊娠が分かって、その父親が誰なのか彼女は誰にも言わないままに子供を産んだ。子供は風邪のせいで幼くして死んだよ」


「話をそらさないでください」


「この光景は現実だよ。この鳥居は現実にあるし、この道も君も僕もこの子も、現実にあるものだ。その辺の屋台も現実にある。虚ろな顔をしてるこのひとたちも現実にこの場所にいるんだ。この匂いもそう。この騒がしさもそう」


 私はひやっとしてあたりを見渡す。何もない。浦野さんのいうその辺ってどの辺?と思いながら闇に眼を凝らすけど、見えるのは道を作り出している藪と林、聞こえてくるのは私たちの足音と息だけ。


「変な顔だね。もしかすると僕の現実と君の現実は違うのかもしれない。君は幽霊を食べるから、彼らは怖がって君の前には姿を現さないのかもしれないね」


「何が見えてるんですか?」


「僕の現実。君の現実は逆立ちしたって僕には見えない。気にしなくていいよ。君に見えないものは君にとってこの世界にはないものだから、君には危害を加えたりはしないさ」


 私は浦野さんが嘘をついたのだとわかる。違う。見えないものはないわけじゃない。あるけど見えないものが私たちを傷つけることなんていくらでもある。私を安心させようとした嘘だったとしても、そんなことが分からない私じゃない。


「君に会ったらぜひ聞いてみたいと思っていたことがあるんだけど」


 浦野さんが言う。


「なんですか?」


「幽霊を食べるってどんな感じなんだい」


「……別に、味とかはないですよ。ただ噛んで飲みこむだけです。満腹感はないけど、おなかは減らないです。幽霊のきもちは入ってきますけど、まぁ、そういうこともあるのかなって感じで」


「へぇ。か……。これまでどのくらい食べたの?」


「さぁ……。数えてないけど、百もいってないと思いますよ」


「なるほど。それで、いつまでこんなことを続けるの?」


「え?」


「だって君、死ぬまで一生こんなこと続ける気なのかい? この町がどうなるかは置いておくとしても、幽霊がどうとか、ずっとそんなことと一緒に生きていくの? 他に好きなものはないの? 将来の夢は? 僕は中学生のころは小説家になりたかった。結局小説を書くのはやめてしまったけど、あの頃は本気だったし、本気なりにやってきたことはいい思い出になっている。君は? 他人のためにあちこち歩き回って、幽霊を食べて、少しずつ人間から離れていっているけど、そんなことずっと続けて、君に幸せがあると思うの?」


「幸せとかのために食べてるんじゃないですよ。私自身がそんなに困るわけじゃないけど、でも食べたらその分、余計なことで不幸になるひとが減るんだから、それでいいじゃないですか。それに、思うんです。しみちゃんが倒れてから、私が幽霊を食べるようになったのなら、それはしみちゃんの仕事を私が引き継いだってことじゃないですか。たぶんですけど、私が食べるのをやめたら、あの子は目を覚ますんだと思います。幽霊を食べるために。。私が食べないならしみちゃんが、しみちゃんが食べないなら私が。それなら、私が食べたほうがいいと思うんです」


「つまり親友の義務を肩代わりしてあげたい、というわけだね」


「恋人です」


「はい。そうでした」


「悪いことのほうが多い習慣だと思いますけど、別に人生いいことばっかりじゃないですよね。ちょっと悪いことがずっと続くのが人生なら、私のはこれでいいかなって感じで」


 私は今まで思ってもみなかったことをするすると言葉にする。浦野さんに聞かれて初めて、私は私のしていることの理由を言葉にできる。そして私はそうだったんだねと思うことができる。私、そんなに悲しいことを考えていたんだね。でも大丈夫。私の悲しさはもう十分私が分かってあげられるから。そのくらいには私は大人だから大丈夫。だから私は、思いっきり悲しんだり不安になってもいいんだよ。と私は私に言ってあげられる。いつかまた、涙が止まらなくなって我慢がきかなくなるときに、きっとそう言って私は私を抱きしめることできる、と思う。


「君は大人になってしまったんだね」と浦野さんが悲しそうに言う。


 私は浦野さんのことが嫌いになる。浦野さんが嫌いな私も嫌いになるが、その私に配慮してくれない浦野さんがやはり嫌いだと思う。全部嫌いだという気持ちが大きく膨れ上がって、そしてゆっくりしぼんでいく。そして残るのは、硬くて冷たい石で、それは私のお腹の底にころりんと転がっている。そういうのがいくつか、もうすでに私のお腹の下のほうにある気がする。赤ずきんの狼みたいに、いつかお腹の中は冷たい石でいっぱいに膨れあがるんだろうね。


 私たちはそこに着く。そこというのはつまり鳥居が続く参道の終りで、つまりは境内である。立派な神社がそこにある、ふうに私には見える。稲荷神社。狐の石像がある。石像の狐は首をぐいと捻って、長い顔で私を見下ろしてして言う。「何見てんだよ」私はさっと目をそらす。そしてもう一度狐を見る。狐は何もなかったみたいに、正面を向いている。こんなところ早く出たい。私は強くそう思う。


 現実の世界にあるお賽銭箱の三倍くらいある大きさのそれの上に、二人がいる。小此木理沙さんと稲荷くんはぴったりとくっついて静かに息をしている。ただ息をしているだけだ。肩と肩がくっついているだけで、エッチなこともしてないし、手もつないでない。眠ってるのかな、と思うけど、そうじゃないのは分かる。でも起きてるには程遠い。彼女は夢と現実の間にいるみたいに幸せそうな顔をしている。


 佐久間さんは早くて、ぴょいと浦野さんの背中から飛び降りると、二人のところに駆けていく。「理沙!」でもその先の言葉はない。なんてったって、小此木さんを現実に結び留められなかったのは、佐久間さん自身なのだ。そして当の小此木さんは、こっち側にいたときよりもずっと幸せそうにしている。


 小此木さんはゆっくりと目を開ける。視線はどこでもない場所をうろうろしていて、目の前の誰のことも見ていない。「ふあ」と言う。あくびじゃなくて言う。言葉を忘れ始めているみたいに私には見える。


「あ、の……。えっと、ああ。ありがとう。でも、いいよ。ゆり。ありがとう」


 にへ。と笑う。とろける笑顔で手を振る。私は決意する。この子を絶対に連れて帰る。稲荷くんが彼女を抱えて、本殿の中に入って行く。動き出すのは私だけだ。障子がからりと開けられて、中に二人が入って行く。私はそこに飛び込む。障子は勝手に閉まる。そこに佐久間さんが入ってくる。あなたも動けたんだね。じゃああなたもここにいる資格があるよ。きっとね。

 浦野さんは外で待ちぼうけだ。ざまあみろ。大人なんて偉そうなことばっかりでなにもできやしないんだ。


「私、間違ってるのかも」佐久間さんが言う。


「そんなこと、だれにも決めさせやしない」私は答える。


 私が稲荷くんに近づくと稲荷くんは一歩後ずさる。稲荷くんはなにも言わない。小此木さんは連れていくとも言わないし、こっちに来るなとも言わない。そりゃそうだ。動物なんだから。狐が神様だなんておかしいと言った浦野さんの言葉は正しい。稲荷くんはなんでもない。ただの狐なんだ。


 幽霊を食べるのにはコツがある。まずはそれを食べるものだとちゃんと思うことが大切だ。コップとかボールペンとかは食べられない。それが食べ物じゃないと知っているから。目の前の人の形をしたなにかは、私は食べてもいいものだと認識するところから幽霊を食べるという行為が始まる。どこから食べるから決める。指だ。あの細い指をまず、ぱくっといく。エビフライみたいなものだと私は私のなかで決めつける。すると自然に舌の付け根がじいんと痺れて、唾がたくさん出てくる。それを飲み込んでるうちに、手は伸びてそれを掴んでいる。唇が稲荷くんの指に触れる。次に歯に当たる。口がいっぱいになる前に嚙み切る。骨なんかない。それは幽霊だから。私が食べるためにあるものだから、私が食べることをそれ自体が邪魔したりするわけがない。


 ぎゃっ。と叫んだのは佐久間さんで、私から逃げ出す。は?なんで?


「いま変だった! なんかわかんないけど、一番よくなかった! おかしかったもん。あんた変! マジで変! 人間じゃない!」


 アホ!と叫ぼうとすると口からだくだくとあふれ出すよだれでうまく言えなかった。私は自分にびっくりする。こんなに唾液が出ることってあるのかな?あるからあったんだけど、それでも普通じゃない。佐久間さんが言ってたのはこれ?


「だいたい、海野先輩、あれを食べるつもりなんですか?」佐久間さんが聞く。あれって稲荷くんのこと?


「えそうだけど」


「駄目ですよ! たとえあれがなんであろうとも、あのひと(?)は理沙の好きなひとなんだから、食べるのは駄目です! ちゃんと話して、そのうえでさよならすべきなんです」


 そんな、話してうまく行くわけねーだろ、と思うけど彼女の言い分が正しいと思う私もいる。正しさというのがどうやって決まるのか知らないけど、つまり、私の中には、佐久間さんの甘っちょろい考え方も素敵だねと言ってにっこり笑える私がまだいたりするのだ。


「おい狐野郎! 理沙連れて行かないでよ!」


 直球……。それで済むなら最初からこうはなってないんだよ、佐久間さん。


 返事をするのは稲荷くんではなくて、小此木さんだ。


「いいんだよ。もういいんだから。彼は言ってくれたの。私を素敵な場所に連れて行ってくれるんだって。それが嘘でも、彼と私が同じ場所にいるならそれでもいいって、私は思えるの」


「そんなのない! あんた漫画家になるんでしょ! そんなのついていったら、漫画もう描けなくなるよ! いいの?」


「いいよ~。私才能ないし。漫画描いててもつまんないし~。こっちのほうがずっといいの。夢とか将来とかなんにもないの。昔も思い出もなんにもないの。ここには今しかない。溶けてなくなりそうな今だけ。それがいいって、私分かっちゃったんだもーん」


「怒ってるんでしょ。あんた」佐久間さんが言った。


「なにもしなかった私に怒ってんでしょって。吉川先輩とか、他のこととか、全部いろいろ、私の駄目だったところに怒ってんでしょ。それを、自分にぶつけてるんでしょ」


「え?」小此木さんは本当によくわからない様子だ。なんで今その話なの?って感じだ。


「いい気味だと思ってんでしょ! 私の罪悪感を煽って! 私の目の前でそうやって駄目になっていくとこを見せて、私のせいだと私に思わせたいんでしょ! このカス女」佐久間さんに妙なエンジンがかかる。


「いや、それはそうじゃなくて……」と小此木さんが言おうとしても佐久間さんは聞かない。


「わかったよ! 謝ればいいんでしょ⁉ すみませんでした! ごめんなさい! 申し訳ありませんでした! これでいい? 文芸部でいじめられたあんたを守りませんでした。たいしてどうとも思ってないしなんならあんたのほうが可哀そうだと思ってったのに被害者面してすみませんでした! あんたの描いた漫画を文芸部で晒したのも私ですごめんなさい」


「てめぇ殺すぞ!」小此木さんが突如として叫んだ。


「ハ! 本性表したね!」佐久間さんが勝ち誇った。


「私は絶対あんたのクソ小説をネタにしなかったのに、あれはやっぱりあんただったんだ!」


「クソ小説⁉ 面白いって言ったじゃん!」


「おべっかだよ。拗ねたらうざいからとりあえず調子に乗らせてたんだよ! まぁあんたの場合調子に乗ってるときもマジうざいけど」


「テメェ!」佐久間さんが小此木さんに飛びつく。小此木さんは佐久間さんの顔面にパンチ。女子パンチとは思えないヒッティングは、見事な体幹のひねりから生み出されている。これはなに?


「私は空手やってんだよ! 舐めんなカス」


 鼻をやられた佐久間さんだが、戦意は未だ残っているようで、逃げない。噛みついたりひっかいたりと動物的戦法で応戦しはじめる。


「やっぱり彼女を連れてきて正解だったね」と浦野さん。


「いつの間に……」


「僕はずっとここにいたよ。君たちがもどってきたんだろ?彼女を連れて」


 私たちはもといた場所いる。もといた場所というのは、鳥居が続いた神社なんかじゃなくて、あのくたびれた祠の狭い狭い境内だ。祠のすぐそばのところで、女の子が二人めちゃくちゃ喧嘩している。


「どうして戻ってきたんだろう……?私たち、なんにもしてない」


「まぁ、この場合、小此木理沙さんが帰ってきたいと思ったからなんだろうね」


「そんなことで?」


「だってね、まぁ……」浦野さんがうれしそうに笑った。


 小此木さんが手を止める。馬乗りになって佐久間さんをぼこぼこに殴っていたけど、止めて顔を上げる。


「稲荷くん?」


 稲荷くんはいつの間にか私たちの前から姿を消している。どこにもいない。少なくとも私には見つけられない。でも小此木さんには彼を見つけられたらしい。なんにもない場所をじっと見つめて、なんにもない場所から聞こえてくる声を聞いている。


「なんで? なんでそんなこと言うの? ねぇ。連れてってくれるって言ったじゃない。こんな、なんにも残らない場所じゃない、ほんとうの世界で一緒にずっと暮らそうって言ったじゃん。ねぇ。ねぇってば、私を置いてどこにいくの? ねぇ、稲荷くん!」


 佐久間さんの拳が小此木さんにがつんと決まる。空手かなにか知らないけど、もろに入ったパンチで小此木さんはひっくり返る。稲荷くんはもうどこにもいない。


「うおおおおっ!」佐久間さんが勝利の雄叫びを上げている。あんたたちさ、男子みたいなことしないで。お願いだから。


 ハハ!と笑って、浦野さんが言う。

「だって、彼女には、あんなにイケてるともだちがいるんだぜ」



***


 一通り落ち着いたところで、浦野さんがみんなで祠の裏のごみを片付けようと言い出すので、私たちはそれを聞く。ついでに境内の掃除もしていく。二人は帰る。ぼろぼろで今にも倒れそうだけど、とりあえず仲直りはしたらしい。


 帰る前に小此木さんが言う。


「もう稲荷くんはいなくなっちゃったんですね」


「たぶん。もうあなたの前には現れないよ」私は勘で言う。でも当たってるよ。たぶん。


「そっか。失恋なのかな、これ」


 知らねぇよ。文芸部の女どもはみんなウザ属性持ってんな。


「海野先輩、浦野さんありがとうございました」佐久間さんが言う。彼女の顔は小此木さんに殴られたせいで1.2倍くらい大きくなっている。片方半分しか開かない目が私のほうを見た。なんだろう。


「海野先輩」


「なに?」


「ぼっちが寂しくなったらいつでも文芸部に来てくださいね」


「行かねーよ」


 そんな感じで挨拶を終わらせて、二人は帰った。このあと小此木さんは親にめちゃくちゃ詰められるだろうし、佐久間さんは顔の怪我のことで面倒なことになるのだろうけど、たぶん一番面倒なことはもう全部終わったのだ。これでこの一件は今度こそ大丈夫。

 

 浦野さんともお別れして私は家に帰る。最後に彼が言う。


「君がいいひとでよかった。悪人だったら、どうしようかと悩んでいたんだ」


「私はいいひとでもわるいひとでもなんでもないですよ。普通のひとです」


「そうみたいだね」彼が笑う。



***


 夜道を一人で歩く。家にはすぐ着く。いろいろ歩き回ったとは言っても、結局狭い町の起きたことなんだと実感する。


 夜の十二時を回っていた。玄関のカギを開けて入ると、家中の電気が消えている。いつものことだった。お父さんもお母さんも十時には寝るから。私は二人を起こさないようにこっそりとドアを閉めて鍵をかけて、自分の部屋に行く。ホントは汗を流したいけど、シャワーの音で起こしたくない。朝に入ろう。


 とりあえず身に着けているものは全部脱いで新しいものに着替え直す。嫌な汗が染みこんだ下着や服は洗濯機に入れた。今日は疲れたよ。もう寝よう。


 布団の中で私は思い返す。稲荷くんにすがりつく小此木さんのことを思い出す。彼に甘える彼女の幸せそうな顔。彼に捨てられて悲しそうな彼女の顔。


 ざまあみろ。私は部屋の中で一人でそう呟く。ざまあみろ。お前はこっちに戻って来たんだ。簡単にそっちにはいかせない。私が行きたくてもいけない場所に、お前なんかをあっさり行かせてたまるかよ。


 それから、佐久間さんと一緒に歩いて帰る小此木さんの姿を思い出す。その背中を思い出す。顔は見えない。顔は見えないまま遠ざかっている。


「私は不幸なんかじゃない私は不幸なんかじゃない私は不幸なんかじゃない私は不幸なんかじゃない私は不幸なんかじゃない私は不幸なんかじゃない私は不幸なんかじゃない私は不幸なんかじゃない私は不幸なんかじゃない」

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