第2話 山ん婆の昔話/吾作婆と田吾作婆(最終話)

吾作婆も田吾作婆も急に連れ合いが居なくなると、心の中はヒューヒューと隙間風が入って来るような気がしました。

今までは亭主の為にしていた家の中の事、洗濯やごはんの支度、漬物の準備や繕い仕事。それに家周りの畑の世話等、等、仕事はいくらでもありそうなのに、急に何もしたくなくなった。

以前は家の前に据えられた腰掛に座って、のんびりする事は一度として無かったけれど、亭主が死んで居なくなった今、二人共、何だか淋しくて淋しくて亭主が叫んで笑っていたこの場所に何とはなしに出て来ました。

すぐ隣同士なのに、

亭主同士はあんなに仲が良かったのに

女房同士はじっくり相手の顔を見ておしゃべりをした事も無かった事に気が付きました。

二人共、根性悪の性質では無かったし、自分が稼いだ婿さんが、いつも好きなようにさせてくれ満足しているような気がしたし、これと言って不満や妬みを相手に持たずに長い事生きて来ました。それは大変幸せだった事に改めて気が付いたのです。

この年になってみれば、里に帰っても親兄弟は亡くなって自分を見知る人は誰もいな

いし、特に親しくしているしている村人も無し。ただ優しい自分の亭主だけが心のより所だったのです。

だが、その唯一人の亭主はもういない。

例え、悪い亭主でさえ亡くなってみれば淋しいだろうに。

ましてや自分のしたいようにさせて、自分を第一にかばい守ってくれた亭主が亡くなってしまったのです。

思い返せば思い返す程、あの人は優しい良い所ばかりだった。

文句のつけようの無い良い亭主だったと思われました。

吾作は女房がいろんな物を増やして家の中を狭くしても、ただの一度も不満を言ったり、捨ててしまえ!と文句を言った事は無かった。

あんな仏様のような人はこの世にいない。

自分は本当にあの人に心から感謝しただろうか。

そう思うと悔やまれて仕方がない。

女房はふいに胸がいっぱいになって「吾作サー。」と叫びました。

すると山彦が、

「吾作サー」「吾作サー」「吾作サー」と真似をします。


それを見ていた田吾作のお婆も我慢が出来なくなって、

「田吾作サー。」と叫びました。

するとやはり山彦が、

「田吾作サー」「田吾作サー」「田吾作サー」と真似をします。

二人は自分の気持ちが亭主に届いたような気がして本当にいい気持になりました。

本当に山彦が自分を応援してくれているようで、

吾作婆がまた、

「うちの吾作サーは最高だったヨー。」と言うと、

山彦が「最高だったヨー」「最高だったヨー」と真似をします。

すると田吾作婆もムクムク勇気が湧いて来て、

「うちの田吾作サのような人はいないヨー。」と叫びました。

すると山彦が、「いないヨー」「いないヨー」「いないヨー」と真似をしました。

ああ、本当にいい気持ちだ。

二人のお婆はまるで向こう側の山の所で二人の亭主がニコニコ笑って聞いてくれているような気がして、とってもいい気持ちになり、

二人は若い娘のようにコロコロ笑い合いました。

やがてお婆達は、山寺の鐘が鳴ろうが鳴るまいが関係なく、昼

日中でも気が向くと家の前の長椅子に腰を掛けてまるでおしゃべりを楽しむように、

向こう側の峰に向かって頭をよぎる思いをぶっつけました。


今日はいい天気だネー。とか、

草取り終わったかー等。

他愛ない事を叫んでいましたが、ある日、田吾婆が、

向こうの峰に向かって叫びました。

「ぬしゃ、生まれ変わったら誰の嫁になるー。」

すると「誰の嫁になるー」「誰の嫁になるー」「誰の嫁になるー」と山彦が真似をしました。

それを聞いた吾作婆が、

「何度生まれ変わっても吾作の嫁になるー。」と答えました。

すると、「吾作の嫁になるー」「吾作の嫁になるー」「吾作の嫁になるー」と山彦はいつまでも繰り返しました。

今度は吾作婆が「ぬしゃ、どうじゃー。」と叫びました。

すると山彦は、「ぬしゃどうじゃー」「ぬしゃどうじゃー」「ぬしゃどうじゃー」と聞きます。

田吾作婆はよくぞ聞いてくれましたとばかりに、

むろん「田吾作の嫁になるぞー。」と叫びました。

すると「田吾作の嫁になるぞー」「嫁になるぞー」「嫁になるぞー」と山彦は答えました。

二人はその山彦の声を聞いているうちに、来世もきっとあの亭主と一緒になれるような気がしました。


他愛もない事でもこうして言葉にして向こうの峰にぶつけると、またこちらに繰り返し、繰り返し戻って来ます。

自分の口から出た言葉が確かにまたこちらに向けて返って来るのです。

それが面白くて続けているうちに、

それがいつとはなく問答のようになって来ました。

昼日中の事なので二人のお婆の声はさすがに通りがかった村の者に聞かれていつの間にか噂になっていたのですが、

年老いた二人のお婆はそんな事に頓着しませんでした。

だがその噂がどうした訳か山寺にまで聞こえたらしいのです。

二人のお婆が叫ぶのは、昼を過ぎて夕暮れ前の事なので何の楽しみもない山奥の村の事とて、こっそり隠れて聞こうとお婆達が気が付かない所に身を潜めて待っている者まで出て来ました。

それはしかし実に面白い見物だったのです。


ある日等は山寺の僧が何人かの若い僧達を連れて来て、草むらに身を潜めて待っていました。

すると吾作婆と田吾婆が出て来ました。

二人は近くに自分達の問答を立ち聞きしている者があろうとは露程も思っていません。

お昼を食べた後で、風も無く天気が良くて気持ちがいい日でした。

こんな日は、山々にこだまする声がいつまでも、どこまでも響き渡るのです。

二人は一旦は腰掛けに腰掛けたが、すぐに二人一緒に立ち上がると、

ちんちゃい吾作婆が向かいの峰に向かって、

「ぬしゃ、何の為に飯を食うかー。いかにー。」と叫びました。

すると思った通り、「何のために食うかいかにー」「何のために食うかいかにー」「何のために食うかいかにー」と気持ちが良い程山彦が響き渡りました。


草むらの僧侶達はどう答えるのか興味津々で息を潜めて待っていました。

すると背の高い田吾婆が、

「うりの為だー。」と叫びました。

「うりの為だー」「うりの為だー」「うりの為だー」「うりの為だー」「うりの為だー」

山彦が誇らし気に響き渡りました。

草むらの若い僧達の中には、ある者は不思議な顔をし、

ある者は吹き出しそうになりながら聞いていました。

すると吾作婆が、

「なーる程。」と行った後、

「儂もうりの為に飯を食うー。」と叫びました。

「飯を食うー」「飯を食うー」「飯を食うー」と山彦も賛同するように響きました。

それから二人はまた若い娘のようにコロコロと笑い転げました。

解らない者には解らないだろうが、解る者には解る。

飯を食って厠に排泄をする。

その下肥を瓜を育てる為のこやしにする。

すると甘い瓜が実るのだ。

そういう深い訳のある問答だが二人のお婆の問答はいかにも愛らしく笑いを誘うものだった。

次に田吾婆が、「空の果てには何がある

かー。」と聞きました。

すると方々の峰々がまるで人のように、「何があるかー」「何があるかー」「何があるかー」と問いかけるように響き渡りました。

これには若い僧達もどんな答えが出るのか固唾を飲んで見守っていました。

すると、ぽっちゃり小さな吾作婆が、

「阿弥陀様の世界がおわすぞー。」と答えました。

峰々もそれに同調するように力強く「阿弥陀様の世界がおわすぞー」「阿弥陀様の世界がおわすぞー」「世界がおわすぞー」と次々に自信たっぷりに答えました。

それはいかにも、あの青い空の果てには阿弥陀様のおられる夢のような世界が確かにあり。それが目に浮かぶようなそんな気がしました。

小さな吾作婆の声は力強くその声がどこまでも伸び、不思議な感覚を与えるのです。

若い僧達の誰もが思わず手を合わせた程でした。

今度は吾作婆が、「寺の鐘は何故ゴーンと鳴るー。」と叫びました。

これにも隠れて聞いている者達は耳をそばだてました。

すると田吾婆が、「キーンと鳴りとう無いからじゃー。」と答えます。

すると峰々も次々と、

「ないからじゃー」ないからじゃー」「ないからじゃー」と真似をして答えました。

普通なら幼稚で吹き出しそうな答えでも、ここで聞く問答は二人の婆様達の嘘の無い心から発するそれが、

いかにも真実をついているようで深く心に染みて来るから不思議でした。

だから山寺の僧達もいちいち感心して聞いていました。


次に吾作婆が「悲しみはどこから来るのじゃろー。」と向こうの峰に向かって叫びました。その声はどこか悲し気でした。

山彦が「どこから来るじゃろー」「どこから来るじゃろー」「どこから来るじゃろー」と峰々も答えを知りたげに繰り返し、繰り返し問いかけます。

それは人として生まれ人として生き、人として死んで行くには避けて通れない誰もが直面する問いかけでした。

するとやせて背の高い田吾婆が、

「胸の中の洞穴からじゃー。」と答えました。

その声は何か切なく震えて聞こえました。

すると峰々が真似をして悲し気に、「ほら穴からじゃー」「ほら穴からじゃー」「ほら穴からじゃー」と答えました。

それを聞いていた若い僧達は勿論の事、老いた僧もその声は身に染みわたり、深く感じ入った様子でした。


この大声を張り上げる問答は結構体力も気力もいるらしく、その日の二人のお婆はその後しんみりしてしまいました。

胸の中の洞穴の事でも考えていたのだろうか。

暫く二人は何も言わずに黙っていました。

草むらの僧達はこれで終わるのだろうと思いました。

するとまた、小さい吾作婆が立ち上がって、

「幸せはどこに行ってしまったんじゃろー。」と叫びました。

年老いた老婆の問いかけはあまりに切なくて、聞く者達の心をも苦しくしました。

「どこへ行ってしまったんじゃろー」「どこへ行ってしまったんじゃろー」「どこへ行ってしまったんじゃろー」山彦も泣きそうな声で繰り返しました。


すると田吾婆が、

「どこにも行かん。ここにおるー。」と叫びました。

「ここにおるー」「ここにおるー」「ここにおるー」

そして尚も、

「幸せの花はしおれてしまっただけじゃー。」と叫びました。

「しおれてしまっただけじゃー」「しおれてしまっただけじゃー」「しおれてしまっただけじゃー」と峰々も賛同して答えました。

すると吾作婆はにっこり笑って、

「ほんに昔はまっこと幸せだったもんネ。」と笑いました。

田吾婆もニッコリ頷きました。

そして二人は声を合わせてコロコロ笑いました。

自分達も若くて、亭主も元気だったころを思い出したのです。確かにそういう頃があった事を思い出しました。

「あの頃はまっこと幸せだったもんネ。」

「本当にあの頃は若かったもんネ。」


二人のお婆はお爺達がいなくなった後、急に心の通い合った友達のように表に出ては、腰掛に腰を掛けて、その日の締めくくりのように峰々に向かって叫びました。

叫んだその言葉は自分が思う以上に深い真実のように跳ね返って来ました。

だから、いつの間にかいい加減な事や嘘やその場限りの適当な事を言ってはならないような気がしました。

そしてそれは、草むらで聞く者達の胸にも響くのでした。

ある日、都の大きな寺の偉いお坊様が山寺においでになりました。

山で修行する若い僧達に有難い、お話をされる為に来たのでした。

山寺に着いたその日の夕方、

住職や古参の僧達と話をしている中に、問答をするという二人の老婆の話が出ました。

誰かが何気なく話した事でしたが、偉いお坊様はその話にいたく興味を惹かれました。

何日かに渡り若い僧達に有難い仏法の講義をしながらも、その婆様達の問答がいかなるものか是非この耳で聞いてみたいという思いは消えるどころか日に日に強くなるばかりでした。

何故なら、この山間の里に嫁いで以来、一度も他に数ある世間というものを知らずに生きて来た、そういう老いた女がどのような気持ちでどのような話をするのか知りたかったからです。

この偉いお坊様は都にいても、お寺を出て巷に溢れる老若男女の所に出掛けて行っては有難い救いの道を説いて回る事もあるお方だったので、その問答をこの目で見、この耳で聞いてみたいと強く思ったのです。


明日は帰るという日、

山寺の住職と二人で偉いお坊様は婆様達の問答を聞きにました。

見渡す限り山また山のこの中で、一生を終えるであろう女たちの姿は傷ましくもあるが、都のお坊様の見知らぬ世界でもありました。


その日も天気が良く、どこまでも晴れ渡って空は青々としていました。

風は気持ちよく、そよりそよりと吹いています。

二人の偉いお坊様が草むらにしゃがんで待っていると、

いつものように二つの小さな家から、申し合わせたようにお婆さん達が出て来ました。

一旦、腰掛に座ったかと思うと顔を見合わせてニッコリ笑いました。

それから立ち上がると背の高い田吾婆が向かいの峰に向かっていきなり、

「ぬしゃ死んだらどこへ行くー。」と叫びました。

峰々も待ってましたとばかりに「どこへ行くー」「どこへ行くー」「どこへ行くー」と問いかけました。

草むらに潜んでいた偉いお坊様はは、いきなりの大きな問いかけが、しかも山彦となってどこまでも問いかけて来るのに感動して鳥肌が立つ程でした。

何と答えるのだろう?

この大きな問いに老女は何と答えるのだろう。そう思って耳を澄まして聞いていました。

するとぽっちゃり小さな吾作婆が、

「そうよのー。」と言った後、

「わしゃー鳥になるー。」と叫びました。

すると待っていたかのように山々も、「鳥になるー」「鳥になるー」「鳥になるー」と叫び返しました。

もうそれだけで偉いお坊様は感動していたが、その山彦が静まると、

吾作婆はそれに言い足した。

「鳥になってーあっちの山、こっちの山を飛び回った後はー、あの空の果てに飛んで行くぞー。」と叫びました。

峰々も一斉に、

「飛んで行くぞー」「飛んで行くぞー」「飛んで行くぞー」と賛同するように答えました。

すると田吾婆が、「そこには何があるー。」と聞きました。

「何があるー」「何があるー」「何があるー」と峰々も次から次へと問いただしました。

すると吾作婆は自信たっぷりに、「阿弥陀様じゃー。」と答えました。

すると、「阿弥陀様じゃー」「阿弥陀様じゃー」「阿弥陀様じゃー」と峰々も賛同して答えました。


すると山彦が静まらないうちに田吾婆が、「わしもそこへ行くー。」と叫びました。

すると山彦達も次から次へと追いかけるように、「わしも行くー」「わしも行くー」「わしも行くー」と叫びました。

この山彦のせいだろうか。

二人の年老いた婆様達の口から出た言葉からだろうか。

偉いお坊様は今まで味わった事の無い感動を覚えていました。

でも更に問答は続いているのです。

次に吾作婆が、「ぬしが死んだらぬしの魂はどこへ行くー。」と叫びました。

峰々も、「ぬしの魂はどこへ行くー。」「どこへ行くー」「どこへ行くー」と聞きました。


偉いお坊様はこの婆様が何と答えるか一言ももらすまいと耳をそばだてていました。

すると背の高い田吾婆が、「りんどうの根に住み着こうー。」と叫びました。

あの濃紫のりんどうの花の根に住もうと言っているのだ。

峰々も次々と、「りんどうの根にすみつこうー」「りんどうの根にすみつこうー」「りんどうの根にすみつこうー」と叫びました。

偉いお坊様の胸は震えました。

その根に住み着いて、毎年毎年、濃紫の花を咲かせるというのか?お坊様達は急にあのただ知っているだけのりんどうの花が一生忘れられない花になったような気がしました。

するとそれを聞いた吾作婆が、

わしは秋に色を染める「もみじの木

に住み着こう。」と叫びました。

「もみじの木に住み着こうー」「もみじの木に住み着こうー」と峰々は一斉に賛同しました。


次に田吾婆が、「ぬしは生まれ変わったら何になるー。」と聞きました。

山彦も次から次に「何になるー」「何になるー」「何になるー」と問い返しました。

すると小ちゃい吾作婆が、「やっぱり人の子じゃー。」と叫びました。

すると峰々も当然のように、「人の子じゃー」「人の子じゃー」「人の子じゃー」と叫び返しました。

田吾婆はそれを聞いてニッコリ笑って、「わしもそうじゃ。」と言った後、

「そうしてわしはまた、田吾作の嫁になるー。」と大きな声で叫びました。

晴れ晴れとした自信たっぷりの声がまた、峰々から帰って来ました。

「田吾作の嫁になるー」「田吾作の嫁になるー」その木霊はどこまでも尽きないように、遠くの峰々からも返って来ました。

「田吾作の嫁になるー」田吾婆はその跳ね返って来る木霊を全身に受けて、無上の喜びを感じているようでした。

すると隣にいた吾作婆も負けずに精一杯の声を張り上げて、「わしも吾作の嫁になるー。」と叫びました。

「吾作の嫁になるー」「吾作の嫁になるー」「吾作の嫁になるー」

峰々はどこまでも嬉しそうに叫び返しました。このグルリを囲む山々はみんなこの二人の事を応援して拍手喝采しているような気がしました。

しわくちゃな二人の老婆の心はもうすっかり若い頃の娘に戻ったように、その顔は晴れ晴れとして輝いていました。

そして二人は顔を見合わせてケラケラと笑い合いました。

そしてひとしきり笑うと満足したのか各々の家に入っていきました。


この一部始終を見聞きした住職と偉いお坊様は感動していました。今まで覚えた事の無い感動でした。お二人共、これまでになられるには幼い頃からか、または年若い頃から仏門に入られ、俗世間を離れた清浄な地で一心不乱に勉強し修行を積み御仏の道に深く分け入った方々でありました。だから俗世の人達よりも純粋な部分を多く秘めておられる方達だけに、この二人の婆様達の問答はその純粋な心に大きな衝撃を与えたに違いありません。

二人のお坊様は、最初はこの閉ざされた山奥の村で一生を終わる貧しい女達をある意味憐れんでいたのでありました。

だが、それは間違いであった事を今知りました。

賑やかな都に住みどんな恵まれた貴人と言われる人でさえ、こんなに伸びやかに幸せな一生を送る事は出来ないものです。

幸せというものは、自分の人生についての満足度などという物は、他人の目で計るものではないと今こそ肌身に染みて教えられた気がしたのです。

そして全ての事は、全てのあらゆる事はその人の心の中にあり、その人の心の持ちようで決まるのだと、今こそ教えられた気がしたのです。

お二人は今日の日のこの事は生涯忘れられないだろうと思いました。

この山々のある景色、

二人の老いた女達の事、

りんどうの花を見ると思い出すだろう。

もみじを見ては思い出すだろう。

今日のこの日を決して忘れはしないだろう。

そしてそれをこの耳で聞き、目で見た今の自分の事も生涯忘れないでおこうとそう思ったのです。えらいお坊様の目には涙が滲んでいました。

住職も同じ気持ちであったようです。

少し時間が経って、草むらから立ち上がったお二人は話し合って、二人の婆様達の所へ行ってお経をあげて帰る事にしました。


「ごめんください。」

偉いお坊様二人が家の前に立つと、両方の家から例のお婆達が出て来ました。

目の前の立派な方達を見て驚いています。

でも山寺の住職と偉いお坊様は二人のお婆を交互に見つめて、ニッコリ笑いました。

山寺の住職が、


「こちらは都から見えた偉い方ですが、明日、都にお帰りになるのです。昨夜の話にこちらの亡くなられたご亭主方が生前に寺やこの村に熱心に力を尽くされた事を聞いて、帰る前に是非お経をあげたいと言われるものですから。」と言いました。


二人の婆様は外見も物腰も大層立派なお二人に恐れ入りながらも、

「それじゃ、亭主二人はとても仲良しでしたので、ここの腰掛にお座りになってむこうの山々に向かってお経をあげていただけますか?」とお願いしました。

二人の偉いお坊様は家の前の腰掛に座って、山の方に向かって二人でゴンゴンと有難いお経を唱えました。

二人共、負けず劣らず張りのある素晴らしい、良いお声でしたので、この有難いお経にお婆二人は鳥肌が立つ程、感激しました。

それは、長い長いお経でした。

谷から向こうの峰々に響き渡るお経でした。

吾作婆も田吾作婆も有難いお経を聞きながら、亡くなった亭主が今頃、あの山のどこかで必ず聞いてくれている。喜んでくれていると思って、尚更、感謝しました。

長い長いお経が終わりました。


帰りがけに都から来たという偉いお坊様が、


「私はまだまだ修行中の身です。今日は何か心に染み入るような深い勉強をさせていただきました。ついては何かお礼をさせていただきたいのです。何か必要なものはありませんか。何でもという訳には参りませんが。おっしゃってみて下さい。」と言いました。

二人のお婆は、お礼と言われても、お礼をしなければならないのは、こちらの方だと思いましたが。

偉いお坊様の目は優しく慈悲に溢れています。何が何だか解らないが、二人共、あの世に行く前にこんな立派なお方にお目にかかれて何か欲しい物は無いかと聞かれているのです。

折角の気持ちを無駄にするのもネーと考えて、田吾婆が吾作婆に、

「ねえ、私達もそろそろもう年だし、あれが必要になるネー。」と言うと、

「ああ、そうそう。この頃じゃいつも眠る時、もしかしたらこのまんまあの世に行く事になるかも知れないと思う事があるんだヨ。」と吾作婆が言いました。

「私も同じ気持ちだヨ。」

「それじゃ遠慮せずに言ってみて良いですか?」と言った後、二人は口を揃えて

「“棺桶”が欲しい。」と言いました。

と言ってから口々に、

「出来れば樽の棺桶ではなくて、今から足を伸ばして眠れるような棺桶が欲しいと思っていたんですヨ。」

「そういうのがあると、夜になるとそこに入って安心して眠れるし、死んだ時も無駄にならないしネ。」

等々話しているのです。その後で、

「すみません、お言葉に甘えて図々しいようですが。」と言い、恥ずかしそうにしました。

すると二人のお坊様はニッコリ笑って、

「お安い御用です。近いうちに届けさせましょう。」そう言って帰って行きました。


それから七日程経つと、

お寺から頼まれたと言って棺桶作りの職人が何人かで出来上がった棺桶を運んで来て、二人の家に置いて行きました。

その棺桶は二人の体に合わせたように大きさが違っていました。

しかも、その中に入って眠っても良いように幅もたっぷりあり、桐で出来た立派なものでした。

軽くて暖かくて気持ちがいい。お婆達はまるで赤児の為の揺りかごのようだと思いました。

二人は生まれて初めて人からの贈り物を受け取ったのです。それも欲しかった物でした。

お婆達は久々に幸せな気持ちになりました。

中に布団を敷いて、その中に入って眠ると、すぽんと御仏様に抱かれているようで温かくて安心して眠れます。

それからの二人は一層、実の姉妹のように心が通じて仲良くなりました。

だがこの友情がいつまでも続くためには何が大事かを二人はよく知っていました。

それは決して相手の領域に立ち入らないという事です。

立ち入り過ぎると必ず相手の嫌な事も目につくからです。

吾作婆も田吾婆も利口な女だったので、

それを十分に心得ていて二人共、相手の家に足を踏み入れないのが暗黙の了解になっていました。いつの間にか二人共、相手の暮らしぶりを知っていました。

といっても、人には人の生き方があるという事も知っていました。

だから天気の良い日は表の腰掛に腰を下ろして昔の思い出話に花を咲かせましたし

時には二人で大声を出して叫んだりしましたが、

天気の悪い日はお互い顔だけ出してお互いの健康を確かめ合いました。

そうしながらもあくまで家の中は自分だけの世界でした。あくまで、相手の陣地には、足をっ踏み入れませんでした。

だから不愉快な思いをする事なしに随分長い事、仲良くして来ました。

だけれども、

月日は容赦なく少しずつ少しずつ二人の体から力を抜いて行くようでした。

もう以前のように大きな声も出なくなったし、足腰も弱くなって来ている事は否めません。二人は自分と相手のお互いの為に、

二人の寝ている棺桶と棺桶を繋ぐ長い紐を用意し、それを通して相手の事を確かめる事を思いつきました。二つの棺桶は繋がれました。そして寝ていてもすぐ手の届く所に一つずつ鈴を付けました。

万一、夜中に片方が具合いが悪くなった場合、その紐を引けば相手に解るという事にしたのです。

それに段々体が億劫になった二人にはまた、朝には元気かどうかの合図にもなるという訳です。

一人がその紐を引いてみる。すると相手の鈴がリンリンと鳴ります。

その後、元気な場合は相手も元気だヨーとその紐を引いて答えて、リンリンと鳴って伝えます。

もう今では前のように表に出て叫んだり、おしゃべりする元気が無くなってしまったけれど、時々、思いついては紐を引っ張ってみるのです。今日も田吾婆が紐を引っ張ると、その先につけた鈴がリンリンと愛らしい音をたてながら、吾作婆の鈴をリンリンと鳴らしました。

吾作婆には田吾婆が元気でいる事が解りました。

さあ、私も元気でいる事を知らせよう。

吾作婆も紐を引っ張ります。

田吾婆の手元の鈴がリンリンと鳴ります。

ああ、元気でいる、元気でいる。

田吾婆もあのちんちゃい吾作婆のニコニコ顔を思い浮かべてニッコリ笑いました。


その後もまたこのようにして、二人のお婆はその辺りでは珍しい程、長生きしました。

もう、とっくに死んでもおかしくない年はとうに過ぎていました。

だが吾作婆は田吾婆の為に、

田吾婆も吾作婆の為に、

一日も長く生きてやろうという気持ちでした。

もしも自分が先に死んだら、本当にひとりぼっちになった相手がどんなに淋しい思いをするだろうと心配で、あちこちつかまり立ちしながらも頑張って生きていたのです。

どちらのお婆もこの頃では表へ出る事が億劫で、疲れやすくて昔の事や二人で叫んだ楽しかった事ばかりを思い出していました。

亭主のいる時も幸せでしたが、年をとって出来た女友達との時間はまた格別でした。

二人で娘の頃に返ったように笑い転げた日々を思い出します。

そうして時々会いたくなると紐を引いてみます。

するとすぐに向こうも引いてくれて、手元の鈴がリンリンと鳴ります。

それはそれはまるで、

生きてるかい?と聞くのに対して、

ああ生きてるヨーと答えているようなものでした。


二人のお婆はもうこの頃ではいつ死んでも良いと思うけれども、

ただ、ただ相手の淋しさを案じて生きているようなものでした。

お婆達はこの頃では、何だか近くまで亡くなった亭主が迎えに来てくれているような気がしていました。

その辺りに気配を感じるのです。

今日も田吾婆は見えない亭主に向かって、

「お前さん迎えに来てくれたのかい?ありがとうヨ。だけどもう少し待っておくれネ。私の返事が無いと吾作婆がさぞ心細いだろうからサ。」と言いました。

田吾婆は棺桶の寝床に入りながら暗闇に向かって、迎えに来て立っているらしい影に向かって話した後、試しに紐を引いてみました。

すると少ししてリンリンと鈴が鳴りました。

ああ、まだいきてるんだネ。そう思って安心して眠るのでした。


吾作婆も同じ気持ちでした。

亭主の吾作と思われる影がフワフワと懐かしそうに家の中に飾った物を見て歩いています。

確かにあの人だと思って、

「お前さん、迎えに来てくれたんだネ。だけど私が先に逝ったら田吾婆は一人残されてさぞ淋しいだろうヨ。もう少しだけ待っておくれ。」

そう話しかけていると、リンリンと鈴が鳴りました。

ほら、田吾婆が元気かいって言っているヨ。

吾作婆は元気だヨーという返事に紐を引きました。

そして安心して快い眠りに入って行きました。


その夜は急に冷え込みました。

夜中にはチラチラ雪のような物が降ったらしいが積もる程ではありませんでした。

翌朝は晴れ渡っていたが霜柱が立っていました。

村の見回り役が三人で、一人で暮らしている二人のお婆さんの家を訪ねて来ました。

この寒さにどうしているだろう?

炭は足りているだろうか。

何か困っている事はないだろうかと見回りに来たのでした。

すると両方の家の中にはまるで言い合わせたように、

棺桶の中で眠ったまま逝った姿がありました。

前の日、日中に顔を出した時には二人共生きていたから恐らく夜中に一緒に亡くなったのだろうと一番近所に住む女房が話しました。

二人共、穏やかな安心したような顔をしており、満足したような様子でした。

最初に見つけた時、吾作婆の棺桶に結わえられた紐の鈴がいきなり、リンリンとなったのでびっくりしてそのつながれた紐を辿って隣の田吾婆の所に行くと、田吾婆も眠ったまま亡くなっており、もうすっかり冷たくなっている所を見ると、それは田吾婆が引いた物である筈はありません。

驚いて見ている一同の前で棺桶の紐の鈴がこちらでもリンリンと鳴りました。

皆はギョッとしました。

見回りの者達も近所の者達も誰も触れていないのに鳴ったのは不思議な事でした。


これはきっと亡くなった後も、お互いがお互いを心配して相手を安心させる為に死んだ後も引いたのだろうと村人達は噂し合いました。


こうして二人のお婆は一緒に亡くなる事が出来たのです。

どちらも淋しい思いをしないで逝けたのは幸いでした。

それで二人揃って一緒にお経をあげて貰い、葬式も一緒に済ませました。

村人達もそうですが、山寺から沢山の坊様達が来て、大層ねんごろなお経をあげて下さいました。

その後、そこの二軒の家には後を継ぐ子供も居なかったので、そのままにされたのですが、村人達の間で、

時々、風向きによって、

思い出したように、

楽しそうな話し声や笑い声が聞こえるという噂が立ちました。

実際聞いたという者も何人かいましたので、その話は誰もが信じました。

そしてきっとあの二組の夫婦が今もあそこで楽しく暮らしているのだろうと噂し合いました。

決して気味悪がられているのじゃないけれど、風の強い日などには、村人は話するのを一時やめて、思わず耳をそばだててみたりするのです。

すると確かに風の音に混じって、

爺さん達、婆さん達の禅問答が聞こえて来そうな気がするのです。

いいや確かに。

聞こえたような気がするのでした。

おわり

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山ん婆の昔話/第一話 吾作婆と田吾作婆 やまの かなた @genno-tei70

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