取り憑かれた男

江川太洋

取り憑かれた男

 彼が別荘の車寄せにシビックを停めた時には、既に午前二時を回っていた。

 妻の伯父の別荘は野尻湖を覆う山腹にあり、周囲は雑草だらけの宅地と雑木林ばかりだった。近隣に他の別荘は一軒もなかった。

 車を降りた彼がトランクを開けると、膝を抱えた姿勢で青いシートに包まれた妻の遺体が視界に飛び込んできた。

 別荘の電気は止まっていたが、青々とした月明かりが窓から差し込んでいた。

 背を丸めた姿勢で硬直した遺体は途轍とてつもなく重かった。がに股でシーツを引っ張ってきた彼がリビングに遺体を投げ出すと後頭部から落ちて、ボウリングの玉を落としたような轟音を立てて建物が揺れた。

 眠気と疲労で視界が歪んでいた彼は這うように二階に上り、かび臭いダブルベッドに横たわった。彼はかつてこのベッドで、妻と愛し合ったことを思い出した。彼が妻を身体の下に組み敷くと、妻は彼の下で汗ばんだ裸身を弾ませ、なまめかしく息付いた。

 それは昨夜未明、彼が妻の上にまたがって首を絞めた時と殆ど同じ体勢だった。

 疲れ切っていたのに彼は眠れなかった。目を閉じると瞼の奥で変わり果てた妻の形相が大写しになり、その度に動悸が激しくなって微睡まどろみを破られた。

 妻は美しかった。

 彼と並ぶ姿を、名匠によるつがの彫像にたとえた人もいたほどだった。殊に妻は名工が心血を注いで磨いたような、類い稀なる曲線の連なりが織り成す、たえなる美貌を備えていた。

 金曜の深夜、口を極めての罵り合いの末に、歯をきながら妻の細い首を締めていた彼はふと我に返り、大の字になった妻から悲鳴を上げて飛び退った。

 これが本当に、あの美しかった妻なのだろうか?

 まくれて歯列が剥き出された泡混じりの唇の端から、泥を吸った靴下のように膨れ上がった舌が突き出し、苦悶の表情のまま顔面が凝固してしまった妻が、瞼から飛び出かけて動かなくなった真っ黒い瞳で、じっと彼を見上げていた。遺体と目が合っていることに気が付いた彼は、慌ててハンカチで遺体の顔を覆ったが既に遅過ぎた。

 その時には印画紙のように、その形相が頭の中に転写されてしまった。

 皮膚をがすように妻の記憶を洗い流さないと、いつか精神が崩壊すると彼は思った。

 妻の記憶から解放されることと死体遺棄が、煮え立った彼の頭の中で同一の概念に変質するには、さして時間はかからなかった。

 翌朝、太陽が雑木林の上まで上ると、彼はシビックで麓の湖まで降りた。

 十月半ばの野尻湖周辺は閑散として、通りで見かけるのは地元民ばかりだった。

 湖面から湧き上がった乳白色の霧に覆われた一帯は、死の街を思わせた。その霧も湧いた時同様に唐突に散ると、鉛色だった湖面に日差しが降り注いで金色に輝き始めた。

 彼はシビックをゆっくり走らせて、無断拝借できそうな貸しボート屋を物色した。

 彼が目星を付けたのは、岡田ボート店という素っ気ない店名のボート屋だった。周囲は民家だらけで商業施設の集中する観光地は遥か対岸にあり、古びたボートが並んで停留する板張りの桟橋には直接徒歩で乗り入れられ、施錠は何もなかった。

 深夜に遺体をボートに乗せて湖に沈めたら、東京へ戻って翌朝は普通通りに出社する計画だった。普段の生活スケジュールを保つことが肝心だと彼は考えていた。

 午前零時過ぎ、山全体が唸りを上げているかのような強い山風の中、彼はシートを引き摺って家から出てきた。

 石段の端に寄せた遺体を足蹴にして地面に転がしてから、どうにかトランクに押し込んだ。硬直が解け始め、再び関節が外れたように身体が弛緩し始めていた。シートの奥から鼻を衝く異臭が漂い始めたようだった。彼は決してシートの中を覗こうとはしなかった。

 夜の湖面は灯りの集中した観光区域を除くと、水平線に黄色い灯りが点在する他は深く重い闇に閉ざされていた。予想以上の闇の拡がりに彼は気圧される思いだった。

 岡田ボート屋の前でシビックを停めると、彼は運転席側の窓から桟橋に目をやった。桟橋は途中から闇に覆われて先が見えず、死者の渡る船着き場を連想した彼の胸の内に、静かに恐怖が募り始めた。真っ直ぐ伸びた桟橋が自分を誘っているように彼には思われた。

 彼は運転席から執拗に周囲を窺って今しかないと決心すると、両手に軍手をめ、懐中電灯をベルトの間に差し込んでシビックを降りた。

 彼は野尻湖に来るまでに、ホームセンターで道具を買い込んであった。後部座席から出した車椅子に土嚢どのうやロープなどを積むと桟橋を押して走り、突端にもやってあった二人乗りのローボートに荷を次々と降ろしていった。その中には大きな刃渡りの軍用ナイフもあった。

 車椅子を押してトランクに戻ると彼は渾身の力で遺体を抱え、膝を折り曲げてどうにか座位の姿勢を取らせた。

 シートに包まれた遺体は巻きに見えなくもなかったが、車椅子に座らせて改めて見るとシート越しにも身体の各部位が生々しく浮き上がり、首を大きく仰のかせて椅子にしなだれたその形状は、遺体以外の何物にも見えなかった。

 不安定に揺れるボートに遺体を移し替えるのは至難の業で、力むあまり獣じみた吠え声が彼の口をいて出た。

 彼は車椅子を後部座席に戻すと、積み荷の散乱するローボートに腰を下ろして荒い息を衝いた。手が震えるので、舫ってあったロープはナイフで切った。

 ボートの上でじっとしていると、膨大な闇の只中に自分がいることがひしひしと伝わってきた。微かな水音と虫の音以外は沈黙に満ちた、こんな闇夜にボートを漕ぎたくなかったが、今更止めるわけにはいかなかった。

 彼は闇の中に、ゆっくりとボートを滑らせた。

 遠ざかる桟橋を見て二度と戻れないという恐怖が膨れ上がったが、彼はそれに抗ってオールを漕いだ。桟橋はあっと言う間に闇に没し、今まで自分がいた方角すら彼は一瞬で見失った。

 見えないことがこれほど怖いとは予想もしなかった。日中に水際から見た湖畔は、広いとはいえボートで数分漕げば端に着く程度の広さに見えたが、その距離感が闇の中で急に揺らいできた。

 募る心細さを押し殺しながらボートを漕ぎ続けてきた彼は、自分の勘に従ってオールを船底に入れた。対岸に点々と瞬く黄色い灯りは遥か遠くに見えた。ここで良いと彼は思った。

 彼は深呼吸をすると、船底に転がったナイフを拾った。

 何処で得た知識か失念したが、水死体は体内で膨張したガスで水に浮くと聞いたので、彼はガスが漏れるよう遺体に穴を開けるつもりだった。

 彼はナイフを振り被ったまま硬直し、自らの意志に反してナイフを握る手が震え出した。

 眼前に横たわるシートに向かって、彼は何度も小声で詫び続けた。

「ごめんなさい、本当にごめんなさい。二度も殺したくないけど、でもやんないと」

 これは人間じゃない、ただの肉の塊なんだ、と彼は何度も言い聞かせた。

 こんな瞬間に、飛び出かけた眼球で彼を睨む妻の形相が頭の中で大写しになり、彼はシートから顔を背けた。その姿勢で目星を付けた腹部らしき場所に数回ナイフを突き立てた。

 堅いシートの表面を刃先がぶつんと断つ手応えと共に、刃が肉を割いてずるりと潜り込む感触が柄を通して直に伝わってきて、彼の口から悲鳴が迸った。それは鴉の鳴き声のようだった。

 反射的に彼がナイフを湖に放ると、遠くでどぷんとナイフが湖に沈む音がした。

 彼は二度も妻を殺めた自身の掌を、しげしげ眺め回した。指はピアニストのように細く優美で、二度も人間を殺めた手とは自分でも思えなかった。

 くびを絞められて断末魔を迎えた妻が生理現象で手の甲を叩いてきた時の、ぺたぺたと力のない感触をまざまざと思い返し、彼は喚きたくなった。

 彼は土嚢とシーツをロープで雁字搦がんじがらめにした。永遠に湖に沈むように、心を込めてロープで縛り続けた。

 遺体を捨てる際にボートが傾いて転覆するのは避けたかったので、遺体を足に乗せたまま徐々に片膝を立て、足の力で押し上げれば転げ落ちる体勢を入念に整えてから、彼は一気に膝を突き上げた。

 彼の膝から回りながら転がった遺体は、魚雷が炸裂したかと思うような大音量と水柱を立てて湖に没した。

 荒波が収まると彼は湖底に懐中電灯を向けたが、水面に光が散るばかりで底は深い闇に沈んでいた。

 彼はその闇を覗きながら、彼は自分が浮かぶこの膨大な量の水の底に沈む遺体の実在をひしひしと感じた。

 遺体を湖底に沈めればそれを拭える一念にすがっていたのに、その実在感からは生涯逃れられないのだと彼は悟ってしまった。

 苦悶の形相を貼り付けた妻が水に浸かって腐りながら、いつまでも湖底から自分を凝視し続けるイメージが、完全に頭にこびり付いてしまった。

 いきなり彼は子供じみた泣き声を発した。

 いつの間にか、水面からドライアイスの煙のような霧が湧き起こり、四方をゆっくりと覆いつつあったからだ。

 彼は慌てて見当を付けて方向転換すると、猛然とオールを漕ぎ始めた。仮に桟橋に着けなくても必ず何処かの水際に行き着くので、最悪ボートを乗り捨てて陸伝いにシビックを探せば良いと思い付き、ようやく恐慌を脱した。

 霧に包まれたことで、真っ黒に沈んでいた湖は単色の灰色のもやに包まれた。見えるのはオールの稼働範囲内の水面くらいだった。

 いつか陸に着くと分かっていても、視界が利かないことが彼の恐怖を膨れ上がらせた。何処までオールを漕いでも、変化のない灰色の渦が彼に付きまとってきた。

 彼は漕ぐ時間が長過ぎると感じ、スマホで確認した時間を見て目を剥いた。

 時刻は五時十六分を指していた。

 本来ならば、とっくに都内に入っていなければならない時間だった。

 彼は計画が音を立てて瓦解した動揺に恐慌を来し、歯を剥きながら水面を殴るような勢いでオールを漕ぎ続けたが、それでも陸地には辿り着かなかった。

 突然背後のボートの先端が何かに衝突して、彼は危うく湖面に投げ出されかけた。慌てて背後を振り返った彼は驚愕で固まってしまった。

 彼の視界に映ったのは、水面に浮き上がって濡れ光る青いビニールシートだった。彼は何重にもロープが巻かれたそれを呆然と眺めながら、岩肌にでも擦れて土嚢を縛る箇所のロープが切れたのかと考えた。

 それは波立つ水面に合わせて上下に揺れながら、徐々にボートの左側に回り始めた。彼は絶叫を迸らせ、舳先でシートを押し退けて水面を滑るようにボートから遠ざかると、一心不乱にオールを漕ぎ続けた。

 食い縛った歯の間から涎を垂らし、全身の筋肉と心臓が悲鳴を上げるまでオールを漕ぎ続けた彼は息が切れて、オールをボートの底に投げ出すと床に大の字になった。

 またボートの舳先が何かに衝突して大きく揺れ、彼は跳ね起きた。雁字搦めにしたはずのロープが解けたのか、端が捲れて三角形の形に拡がったシートが水面に浮かんでいた。

 こいつ、俺に着いてきてる。

 そう思った瞬間、彼の頭が沸騰した。

「いい加減死ねこらああ!」

 彼は叫んで立ち上がると、手にしたオールを全力で遺体に何度も打ち下ろした。

 オールがシートと水面を激しく叩く音が響き、オールが振り下ろされる度に遺体は半ば水中に没しては浮き上がってきた。その度にシートが捲れ、やがて絨毯のように水面に四角く拡がり、その真下で浮き上がった遺体の形に表面が盛り上がった。

 彼は再び息切れを起こしそうなほど全力でオールを漕いだ。

 水面に浮かぶ青いシートはたちまち暗灰色の靄の彼方に消えても、しばらく彼は速度を緩めなかった。こんなに漕いでも陸地に着かないのは、明らかに何かがおかしかった。

 彼は自分の肩に濡れた妻の手がだらりと覆い被さってきそうな恐怖に囚われて、何度も神経質に背後を振り返った。

 彼の頭の中にあるのは追い縋る妻の姿と、自分を逃がさないように妻がボートを堂々巡りさせているという考えだけだった。

 再びスマホを見た彼は、時刻が七時二十二分を指しているのを見て、けたたましく笑い始めた。

 もう完全に終わったと彼は思った。

 あと二時間もすれば、無断欠勤を不審に思った社の人間が彼との連絡を試み始め、それが一昼夜明ける頃には警察への捜索届に変わるのが目に見えるかのようだった。

 七時過ぎならとっくに夜が明けているのに、視界は変わらず昼とも夜とも付かない不可解な暗灰色の霧に包まれていた。

「そうかそうか。そんなにしてまで殺したいか? 大した人格者だな俺も」

 頭が飽和した彼は、呆けたような小声で呟いた。下手をすると却って可笑しいくらいだった。

 かろうじて残された彼の冷静な部分が、笑うなとしきりに警告を発してきた。釣られて笑えば気が触れて戻れなくなりそうなのは彼も頭の片隅で察していたが、そんなことがどうでも良くなるほどとにかく無性に可笑しく、泣き笑いの形に唇を歪めながら、彼は何度も喉を突き上げる笑いの発作に屈しかけた。

「おお、どうか。どうか。ああ、何でこんな可笑しいんだ? ああ、もうほんとに……」

 彼は涙と涎を流しながら、笑いの発作を堪えて唇をひく付かせた。

 激しい笑いの波が収まると、今度は先程までの沸き立つ恐慌とは全く異なった、投げ遣りな絶望感が徐々に募っていくのを彼は感じた。

 もう彼には予想が付き始めていたが、彼が漕ぐのを止めると湖面が揺らいで、藻のような妻の長髪が放射状に浮かび上がってきた。

 彼がそれを眺めていると、長いこと水に浸かって漂白されたような真っ白い妻の苦悶の形相が湖面から覗き、飛び出しかけた眼球は明らかに彼に据えられていた。

 その凝視に耐えられなかった彼は、再び体力の限界までオールを漕いだ。

 皮がずる剥けになり、赤い肉が露出した掌の痛みに呻いた彼がオールを漕ぐのを止めてややすると、ノックするようにボートの側面に定期的にぶつかる何かの物音と振動が響いてきた。

 それが何なのかはもう見るまでもなかったが、それでも彼は目をやってしまった。

 絡んだのような長髪をへばり付かせて、水面から顔の左半分だけを突き出した妻の遺体が、湖面の揺らぎに合わせてボートに額を打ち付けていた。

 それはまるで、ボートに乗せろと訴えているかのようだった。

 彼は静かに立ち上がると、両手に握ったオールを遺体の顔面目がけて力一杯振り下ろした。

 オールの先端が見開いた妻の左の眼球を直撃し、真っ二つに裂けた眼球がオールにへばり付き、眼窩は赤黒い空洞に変じた。彼が無表情でその周辺に第二撃を加えると、オールが思い切り鼻を叩き、整った妻の鼻梁を折れ曲がった肉塊に変えた。

 出血はなく、水に浸かって肉が剥がれ易くなったせいか、彼がオールを振るう度に顔面の皮膚がげてくすんだ桃色の筋肉繊維が覗き、唇に直撃したオールが遺体の前歯を纏めて砕き、唇を削ぎ、遺体の顔面は頭蓋骨じみてきた。

 彼はなおも遺体の頭部にオールを振り下ろし、頭皮から長髪の束をごっそり削ぎ落としてからその手を止めた。

 機械的にオールを漕ぎながら、彼は初めて妻と出遭った瞬間の記憶の彷徨い始めた。

 それは定期的にホテルのホールで催される、異業種交流の立食パーティの席だった。昔から彼は立食パーティを、女性を釣る餌場と見做みなしていた。

 彼が華やいだ気分でフォーマルなスーツ姿の人の波を遊泳しながら女性を物色していると、隅のテーブル付近に一際人が密集した一角があった。

 ふと興味を覚えて歩み寄った彼は集団の中央に立つ女性を見て、頬を張られたような衝撃を受けた。

 身体の丸みを平坦に見せる没個性的なオフィススーツに身を包みながら、抜きん出た美貌が外界に向かって圧倒的な輝きを放っていた。

 これが後の妻だった。

 彼女は誘蛾灯のように、脂ぎった男性陣の壁を築いていた。彼女は男性たちとたおやかそうに会話に興じていたが、時折嫌悪で微かに目を細めるのを彼は見逃さなかった。

 禿頭の男性の言葉に相槌を打ちながら周囲を一瞥した彼女の視線が、人の群れに混じった彼を一端過ぎて、また戻ってきた。

 二人の視線が噛み合った刹那、彼は彼女だけに分かるように微かに頷くと、助けを求めるように彼女が頷き返してきた。

 その瞬間、思春期以来こんなに沸き立ったことはないと思うほど、彼は芯から自らを衝き上げる高揚を感じた。

 惚れさせるように女性を仕向けるのに慣れた彼が、一歩引く余裕も投げ打ってのめり込んだ唯一の女性が妻だった。

 妻に溺れ切った当時の記憶を彷徨っていると、いつの間にか浮かび上がった遺体がボートに纏わり付いていた。

 命を奪った挙句、カンナで頭皮を削ったように長髪を削いで頭蓋骨を覗かせ、顔面を著しく損壊させた張本人なのに、彼には記憶の中の女性とこの遺体が同一のものとは信じ難い気がした。

 あれほど大事にしたものを、これほど無残に打ち壊す自分は一体何なんだろうと彼は考えた。

 後悔と恐怖がないまぜになった彼は涙を流しながら、そっと遺体から離れて灰色の霧の中を漕ぎ続けた。

 ふと我に返ると、彼はいつの間にか体育座りの姿勢のまま眠っていた。

 肩を投げ出した姿勢で遺体の白い手が、ボートの縁にかかって手が船底に垂れていたのに肝を潰して、彼は反射的に遺体の手を払い退けた。

 遺体の手に触れた時の氷のような冷たさと、肉が剥がれそうな滑った感触に、彼の全身に粟が立った。

 彼は追い縋るように伸ばした手を水面に漂わせる遺体を振り切って、ひたすら灰色の靄を突っ切った。

 疲労と眠気、渇きと飢えが重なり、彼は混濁し始めた。

 スマホを見ると八時五十四分だったが、前にスマホを見てから一時間少々しか経っていないのか一日後なのかも、もはや彼には判別が付かなくなっていた。

 彼は観念してスマホで一一〇番に連絡したが、全く電波が通じなかった。そのうちスマホの電源が切れ、彼はスマホを湖面に投げ捨てた。

 喉が渇き過ぎた彼は両手で掬った湖の水を口に含んだが、水は明らかに腐っていて、彼は力なく嘔吐した。

 彼が妻に指を差されて笑われる不快な夢から覚めると、遺体の上半身がボートに乗り上げ、投げ出された右手が彼の胸元に落ちていた。彼は悲鳴を放って飛び起きた。

 頭が朦朧として、ボートを漕いでもすぐに息切れし、豆が幾度も潰れた掌は化膿して、血と膿の混じった白と赤の混じった液体に覆われた。

 彼が身を乗り出して湖面を覗き込むと、すっかり頬が削げて末期癌の患者のような相貌に変わり果てた自身がぎら付く目で、自らを見上げていた。

 彼は飛び込もうと思ったが、それこそ遺体にしがみ付かれるだけだと考えて止めた。

 彼は声帯が損傷して声が出なくなるまで大声で助けを求めたが、微かに波打つ音が周囲に木霊するばかりだった。

 助けて、助けて、と喚くうちに絶望が一挙に衝き上げてきて、彼は両手で髪を掻き毟りながら喚いたが、既に喉が潰れてぜいぜいという耳障りな喘鳴ぜんめいが喉から漏れ出ただけだった。

 彼は立ち上がる力も失った。座ったまま船底に排泄物を垂れ流し、自らの汚物に塗れながら切れ切れの眠りを彷徨った。

 頬にべっとりと冷たい感触が張り付いた驚きで目を覚ますと、遺体が彼の方に首をもたせかけて添い寝していた。

 彼の悲鳴は、ひゅうひゅうと唸る風の音のようだった。

 起き上がることができず、彼は虫みたいに藻掻もがいて遺体から遠ざかろうとしたが、押す力が弱くて遺体が隙間に収まることで却って遺体と密着してしまった。

 すさまじい腐臭が鼻を衝き、彼は仰向けの姿勢のままげぶげぶとせ続けた。

 彼は霧と同じ色に濁った空を見上げた。その霧の中を、時折円を描きながら過る黒い鳥影の群れが彼には見えた。

 あれは鴉だろうか? こんな湖に鴉がいるのだろうか? 

 あの群れはどの死臭に惹かれてきたのだろうかと、彼は混濁した意識の中で思った。

 遺体だろうか? それとも自分のだろうか?

 もう一度青い空が見たかった。

 青空を背景に、洗濯物を干す妻の背中。彼の視線を察したらしく、急にさっと振り向くと彼に向かってはにかんだ。

 その笑顔の可憐さと儚さ。

 結婚式での、白いケープに覆われたドレスに身を纏った妻の神々しさ。

 唇をわずかに突き出して徐々に顔を寄せてくる、ケープを纏った妻の顔が徐々に彼の視界を覆っていった。


 十月半ばの水曜の早朝、野尻湖沿いの車道の一部は縦列駐車した警察関係の車両で通行止めになった。

 犬の散歩中だった近隣住人の通報で、男女の遺体を横たえたまま湖を漂流するボートが発見された。

 警察が介入してすぐに、遺体を乗せたボートが盗難で被害届の出ていたボートであることが判明し、その二時間後には男女の身元も明らかになった。二人は夫婦で、共に東京で捜索届が出て多摩川署で捜査が開始されていたところだった。

 検視の結果、女性の推定死亡時刻が男性よりも二日ほど早いことが判明した。死体遺棄目的で男性が女性を湖に沈めたことは明白だったが、何故か男性は女性を再びボートへ引き上げると陸に上がることもなく、そのまま衰弱死したとしか考えられないような不可解な現場状況だった。

 さらに不思議なのは、この男女が湖を漂い続けた月火の二日間は普段通りにかなり人出があったにも関わらず、その間、ボートが誰からも全く発見されなかったことだ。

 まるで朝の訪れと共に立ち込めた霧の中から、ふいにボートが出現したとしか思えないような発見状況だった。

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取り憑かれた男 江川太洋 @WorrdBeans

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