お口にチャックとか洒落にならないので、出来ればやめてもらえると

人生

 出逢ったが、最後




 私はたぶん、あの子に嫌われてしまったのだろう。


 学校からの帰り道、私の行く手に立ち塞がる彼女は、後ろ手に何かを隠し持っている。


 ちらりと見えたそれは夕日を浴びてきらり輝く、銀色の――




 ――『口裂け女』という、都市伝説がある。

 あるいは妖怪なのだろうか。


 それは赤い服を身にまとった女性で、顔の半分を覆う白いマスクで口元を隠している。

 夜道などひと気のない時刻――恐らく逢魔が時とかそういう時間帯に現れ、出逢った相手に「私、きれい?」などと問いかけるという。

 窺える範囲のその女性の顔は大変美しく、きっとマスクを外した素顔も相当の美人なのだろうと思わせるものらしい。

 そこで女性の質問に対し「きれい」だと答えると、「これでもか?」と、女性はマスクを外し――その下に隠されていた、耳まで裂けた大きな口をあらわにするのだ。


 その後、女の素顔を見た者がどうなるのかは諸説あるが、その大半が正体を現したところで話が終わる。他には、殺されるとか、口裂け女の持つ鋏やらメスやらといった刃物で彼女と同じように口を裂かれるとか、バッドエンドパターンもちらほら見られる。

 元が美しい女性であること、素顔(正体)を明かして話が終わる点は『のっぺらぼう』の怪談に似ているが、口裂け女の場合、逃げた先で再び遭遇する……「再度の怪」と呼ばれる展開にはならないようだ。


 出逢ったが最後、ということだろうか。


 ちなみに、「私、きれい?」という問いに対しては、「ふつう」とか「まあまあ」と答えるのが無難なようだ。無論、「きれいじゃない」などと言えばどうなるかはあえて語るまでもない。


 そもそも、口裂け女とはなんなのか?

 そのうわさは無数にあるのだが……たとえば、精神を病んでいて、口紅を耳まで塗りたくってしまった女性だとか、事故に遭い口が裂けた、整形手術に失敗してそうなった、などなど――よくあるゴシップ的な起源は様々だ。

 中でも真実味があると感じるのは、その昔、危険な夜道を一人行く必要のあった女性が、口に鎌を咥え気がふれたように振る舞って難を逃れた、という話。もしかすると咥えた鎌で口を切ったとか、そういうこともあるかもしれない。


 なんにしても、口裂け女は得体の知れない幽霊妖怪というより、人間を起源とした、ある種の猟奇殺人鬼的なものと考えるのが相応しいのだろう。相手を自分と同じにする……口を裂くという行為とかまさにそれらしい。


 昨今、マスクをしている人をよく見かける。

 口元を隠した女性たちの中に、そうした怪異が潜んでいないとも言い切れない。


 日本人にとってはマスクをしていることはなんら不自然に感じないのかもしれないが、外国人からすると……特に西洋圏の人々からすると、マスクは不気味に映るもののようだ。彼らは他人の感情表現を理解するために、その口元を見るらしい。某大手通販サイトのロゴマークもそうした文化に起因するものだとか。一方、日本人は相手の目を見て感情を把握する。そのためマスクで口元を隠すのは、日本人にとってはサングラスで目元を覆うようなものなのだ。


 マスクにしろサングラスにしろ、顔の一部を隠するだけでその人の感情を把握するのが難しくなる。

 あるいはそうやって感情を隠すことは、その人にとっての安心感を生むのかもしれないが――私には、他人と距離を置いているようにも見えるのだ。


 私が彼女のことを気にするようになったのも、そうした理由から。


 クラスに溶け込んでいるようでいてその実、水と油のように不自然に浮き上がった女の子――風邪でもないのに常にマスクで口元を覆っていて、誰も彼女の素顔を知らない。


 教室で女の子たちが机を合わせてお昼をとっている時も、彼女は一人姿を消す。どこかで食事はしているのだろうが、決してその様子を人前に見せない。


 顔にコンプレックスがあるのだろうか。にきびとか、黒子とか。あるいは傷でもあるのかもしれない。それを隠したいのかもしれない。


 いじめられている訳ではないようだ。少なくとも、私の把握する限り。

 それではクラスに馴染めていないのか――、と。


 教師になったばかりの私は責任感とか義務感とか、あるいは物語のヒーローに憧れる思春期の少年のように、生徒を助ける教師になりたいとか思ったのかもしれない。


 彼女にお節介を焼き――自分ではうまくいっていたつもりなのだけど――たぶん、うん、まあ、恐らく……嫌われてしまったのだ。




「ねえ、先生――」


 マスクごしに聞こえる、くぐもった声。

 小さなその声はしかし、ひと気のない通りで風に乗り、私の耳に直に届く。

 背筋を走り抜けたこの感覚はなんだろう。


「私って、可愛いですか……?」


 少し照れ臭そうにしながら、突然そんなことを言う。


 うん、まあ、可愛い生徒であることは間違いない。今では少し、勝手ながら妹のように感じている。私には人付き合いが苦手な弟がいるのだが、彼女の姿は弟に重なって、見かけるたびに一人でいる彼女のことを放っておけないと思ったのだ。


「ほんとうに?」


 たずねられ、しかと頷く。


 すると彼女は口元を覆っていたマスクに手をかけ――



 これでも? ――と。



「――――」


 正直な感想を言えば、驚かない方が無理な話で。


 その口は――きっと、耳まで裂けているのだろう。頬には痛ましい縫い痕があり、その隙間から白い歯が獣の牙のように垣間見える。


 まるで、怪物――そうとしか形容できない形相を呈していた。


 少し遅れて、特殊メイクとかCG(それはないのだが)ではないかと思った。


 でも、たぶん、そうではない。それは悲しげに瞳を陰らせる彼女を見て直感した。


 ほんと、正直――ビビった。

 たぶん私は、口を裂かれる――口を塞がれるのだろう。彼女の正体を知ってしまったのだから。死人に口なし、裂かれるのも塞がれるのも一緒だ。

 だから――まあ、ここは彼女の機嫌をとるべきなのだろうと、冷静な打算が働く。


 しかし。


「うん」


 とりあえず、私は頷いた。


 お節介な私を殺すための儀式や前準備でないとしたら、これはきっと――彼女なりの誠意というか、告白なのだろうと思った。

 自分の正体(?)を明かすのに、どれだけの勇気が要ったことだろう。

 そして、それを私に打ち明けるということはつまり、私への信頼の証だ。


 裏切る訳には、いかないだろう。

 そこは腐っても――ど新米でも教師だし、たぶんこれは――かたちだけ見れば、人として自然な交流だ。


 私のことを信頼し、秘密を打ち明けた相手を裏切るのは、人として最低な行為だろう。


 それはもしかすると、私の生存本能が彼女を脅威と感じなかったから冷静な思考が働いたのかもしれないし、何人かってそうと揶揄される強面こわもての弟の顔に見慣れてしまっていたのかもしれない。

 相手がそれこそ偶然出くわした見知らぬ口裂け女なら、私だって腰を抜かしたり逃げ出したりしたのだろうが――彼女は、私の生徒だ。


 顔も見た目も関係ない。


「なんと言えばいいのか分からないけど――そういうことなら、人前でお昼は食べられないかぁ」


「…………」


「みんなと一緒に食べたら、とか言ったのはなんというか、不謹慎ていうか無遠慮というか、そっちの事情を考えてなかったね。ごめんね」


「――――」


 やはり日本人は相手の目を見てその人の感情を理解するのかもしれない。

 信じられないといったように瞳が揺れ、やがてその目が潤みだす。目は心の窓という言葉があるがまさしくその通りで、今の彼女の感情がその瞳にありありと浮かんでいた。

 そしてその唇はわずかに開きかけ、閉じ、震え、頬の縫い目がそれに応じて複雑に動いていた。裂けてしまわないかと心配になる。


「とりあえず……誰かに見られちゃマズいでしょ?」


 私は彼女に近づいて、うなだれる彼女にマスクをさせる。人にマスクをつけるというのはなかなか難しいものだ。それから、案の定刃物を隠し持っていた彼女の覚悟を察し、それを取り上げた。


 その時の私はとても「教師」出来てたと我ながら思う。

 たぶんこの界隈で一番教師らしかったのではないだろうか。

 私の中に尊い教師像があって良かった良かった――という感じに、めでたしめでたしといきたいのであるが。




 ――それからというもの、彼女は少しずつ私に感情を示してくれるようになった。


 シンプルにその様子を形容するなら、いわゆる「ツンデレ」というものになるだろうか。そして今がその「デレ期」である。


 私の前ではマスクを外す彼女は、これまで心につくっていた壁を取り払ったかのように親密で――何かこう、教師と生徒という関係のその一線すら超えてしまったかのようだ。


「先生、私の秘密、誰にも喋っちゃダメですからね?」


 何度となく、そう念押しする。

 もちろんそのつもりだが、酔った勢いで誰かに漏らす可能性もなくもない私である。お酒は控えようと決意する一方で、寝言で言ってしまう恐れもあるしそのへん気にしてたらキリがないから週末くらいは自宅で一杯したいなと思う。


 そんなことをそれとなく打ち明けると、


「自宅で、いっぱいしたい……?」


「?」


 何やら顔を赤らめる女子高生である。

 それから、こほんと咳払い。


「じゃあ、先生がうっかり漏らさないように、私が見張ってないといけませんね」


「そうは言われても」


「さもなければ、お口にチャックしちゃいますよ?」


「冗談に聞こえない……」


 裂くのか。縫いつけるのか。恐ろしい。そこはお口にチャックしてください、だろうに。


「お口、ふさいであげましょうか?」


 と――、


 たぶん、私は取り返しのつかないことをしてしまったのだろう。



「他の人と一緒になんて、寝かせませんから」



 私は、お姉ちゃんのつもりでいたんだけども。



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